6.貴方だって私を殺したのよ
フェルゼンラングの大使、ラクセンバッハ侯爵アルフレートの言葉は、思わぬ先制攻撃となった。アンナリーザは口元を押さえて言葉を失ってしまったし、外交にも交渉にも慣れたはずの父でさえ、不自然な間を作ってしまった。
「イスラズールに、商館……? だが、貴国は──」
「ああ、さすがご承知でいらっしゃるのですね」
にこやかに頷くアルフレートを見て、アンナリーザは密かに唇を噛む。イスラズールからの縁談があった上でのフェルゼンラングからの接触が、どのように受け止められるか──彼は、計算した上でこの場に臨んでいる。
(イスラズールとの交易を、断念させようというのだとばかり思っていたから……!)
両国の最近の関係や、フェルゼンラングの方針があらかじめ調べられるのも百も承知だったのだろう。父もアンナリーザも、イスラズールへの嫌がらせ──としか思えない──に加担する見返りを検討するつもりでいた。だから、まったく逆のことを言い出されては、咄嗟に頭を切り替えるのは難しい。
「確かにフェルゼンラングとイスラズールとの国交は残念ながら途絶えております。今のところは」
「先のイスラズール王妃は、フェルゼンラングの王女でいらっしゃったのに……?」
アルフレートの、というか、フェルゼンラングの意図は知れない。でも、口を挟むなら今だ、と思ってアンナリーザはおずおずと問いかけた。エルフリーデを犠牲にして、婚姻で結んだ両国の絆が、いったいどうして途絶えてしまったのか──彼女としてもマルディバルとしても、気になるところだ。
「アンナリーザ殿下も、よくご存知なのですね」
「たまたま……書物で、目にしておりました。お気の毒な方だった、と──」
見合い話の吟味のために調べたのだろう、とも容易く推察できるはずだ。アンナリーザの知識を褒めるようでいて、アルフレートの声には何らの驚きも含まれていなかった。イスラズールとの話はまだ内密のこと、どこまで明かして良いか分からなくて、言葉を濁さなければならないのがかえって悔しい。
「ええ。私も若いころは何度もイスラズールの地を踏んだものです。お会いするたびにエルフリーデ様が窶れていくのを見て、どれほど歯がゆく痛ましく思ったことか……!」
自分のことを他人ごとのように口にするのも、二十年分年を取ったかつての知人からその名前を聞くのも、ひどく複雑な気分だった。というか──割と不快、だろうか。
(まるで、貴方のせいではないみたいに言うのね)
エルフリーデは、確かに気の毒な最期を遂げたのだろう。でも、老練な外交官らしくなく顔を歪め声を震わせるアルフレートを見ても、アンナリーザは心の中で呆れるばかり。彼女の視点では、アルフレートもエルフリーデを見捨てた者のひとりでしかないのだ。
青い茶器を口に運んで、茶の香りを味わって心を鎮めて──アンナリーザは、さらに探りを入れてみることにした。イスラズールとフェルゼンラングと。時をほぼ同じくして接触してきた両国の主張が食い違うのでは、マルディバルとしては大変困る。
「イスラズールの使者は、レイナルド陛下は亡きお妃を愛し、深く悼んでいらっしゃると仰っていました」
「それは、嘘ですね。マルディバル王陛下も、くれぐれも騙されませんように」
アンナリーザが不思議そうに首を傾げてみると、アルフレートは食いつくように身を乗り出した。やけに強い否定の言葉に、隣に掛けていた父が軽く息を呑む気配がした。
「ずいぶんな言われようだ。貴国の姫君と、そのご夫君だというのに」
「近しい姻族だからこそ、ということもございましょう。レイナルド王は、王とは名ばかりの獣ですよ。イスラズールの金で贖えぬものはないと驕り高ぶって礼儀を知らず、王宮には衆目を憚ることなく愛人をのさばらせている。エルフリーデ様はあの男に殺されたも同然です」
父の驚きは、アルフレートにとっては待ちかねていた相槌だったかのようだ。滔々と語る言葉も、一応は嘘ではない。エルフリーデにとっては、そうだそうだと頷いても良いかもしれない。そんな気にはまったくなれないのは、どうも不思議なことだったけれど。
(貴方も私を殺したのだけど……)
今、父に語ったことを、二十年前にも大声で述べてくれていたら、何かしらは変わったかもしれないのに。祖国を遥か離れた地で一介の外交官ができることは限られていたのだろうとは分かるけれど。今になって彼がこうも饒舌になる理由は──
「愛人、とは……まさか」
「アンナリーザ殿下に、レイナルド王との縁談が持ち込まれたのだとはお察ししておりましたが──やはり、教えられていなかったのですね。まったく不実な国です」
理由は、分かったかもしれない。父の声に宿った嫌悪を聞き取って、アルフレートは得意げに頷いたから。大きく息を吸い込んだのは、用意していた台詞を続けようとしたからだ。イスラズールへの嫌悪を植え付けた上で、何か──自国に都合の良い方向に父を、マルディバルを操ろうとしているのだ。
(彼も、また私を利用しようとしているのね)
異国に捨て置くのも、死に方を良いように切り取って喧伝するのも、本質では同じことだ。──エルフリーデの心を無視して、国益のための道具にしようということだ。
「まあ、信じられませんわ」
悟った瞬間、アンナリーザは思わず声を立てて笑っていた。何がおかしいということはなかったけれど。死んだ後までも利用されるエルフリーデへの哀れみや、かつての祖国や夫への怒りを、そのようにしか表現できなかったのかもしれない。
無作法だったかもしれない発言を、でも、アルフレートは咎めなかった。アンナリーザが王女であるというだけでなく、小娘を教え諭す体でイスラズールをもう一段貶せると思ったのかもしれない。
「若い姫君が見目良い王の本性を見抜けずとも無理はございません。まして本人は遥か海の彼方となれば──なので、真実を教えて差し上げるのが我が国の務めと心得ております」
では、アルフレートは同じことを何度もしてきたのだ。レイナルドから求婚された姫君たちに、エルフリーデの死に方を教えて、彼女たちやその親たちを怯ませてきた。
(レイナルドが再婚しないはずだわ。できなかった、でもあるのね)
レイナルドとマリアネラにとって、良かったのか悪かったのかはアンナリーザが知ったことではないけれど。ふたりの愛とやらのためには幸いだったのか、フェルゼンラングの干渉は何であれ不快なものなのか──それよりも、今、目の前のことが大事だった。
「私が信じられないと申し上げたのは、フェルゼンラングのなさりようですわ」
「は──?」
にこやかな笑顔のまま固まったアルフレートに、アンナリーザは無邪気に首を傾げてみせた。アンナリーザというか──彼女の中の、エルフリーデは。
「姫君がそのような仕打ちを受けて、亡くなるまで見過ごされていたなんて。侯爵様のお話だと、エルフリーデ様は窶れていった、のだと──イスラズールとフェルゼンラングを行き来なさったのでしたら、何か月も何年もかかりますわよね? その間、何もなさらなかった……?」
「私は──」
アルフレートが反論なんてできないのは、彼女が誰よりよく知っている。彼は、何もしなかったのだから。ううん、何かしていたとしても同じこと。イスラズールを非難する彼だって、エルフリーデの死にまったく責任がない訳ではないのだ。
「アンナリーザ」
みるみる青褪めていくアルフレートを見るのは、愉しかった。アンナリーザが浮かべた笑みは、少々はしたないものだったかもしれない。父が、案じる声で窘めるほどに。
とはいえ、エルフリーデとして復讐に酔うだけではない。アンナリーザにとっても、油断のならない外国の大使を揺さぶるのは大事なことだ。
「いえ、侯爵様は私のためを思って教えてくださったのだとは存じますけれど。──でも、やっぱりとても不可解なお話ですわね。フェルゼンラングは、我が国に獣のような恐ろしい王が治める国との交易を勧められる、のでしょう? マルディバルの益にもなるということですけれど、お話を伺った限りだと、とても信頼できる相手とは思えませんわ……!」
イスラズールを不実だと貶めた上で、そのような国との交易を勧めるなんて。マルディバルを──今の祖国をも利用しようとしているなら。
(許さないわ)
にこやかな微笑みを保ちながら、アンナリーザはアルフレートに向ける目に力を込めた。信頼できないのはフェルゼンラングもだと、言わずとも伝わったことだろう。アルフレートは一瞬だけ視線をさ迷わせ、時間稼ぎのように茶器を手を伸ばし──虚しく引っ込めた。とうに空になっていたのを、忘れていたようだ。
「お茶のお代わりはいかがですか、侯爵様?」
「いえ──いいえ、いただきましょう。恐れ入ります、王女殿下」
侍女に目配せをしながら、アンナリーザはひっそりと笑みを深めていた。茶器に目を落としたアルフレートが、小さく震えたのを見逃さなかったのだ。彼はきっと、無残に砕けた欠片をありありと蘇らせているに違いない。艶やかな青の釉薬が、彼の記憶を掘り起こしてくれたのだ。一見しただけでは気付かずとも、イスラズールとの縁談が持ち上がっている若い王女と、かの国について語れば嫌でも思い出すのだろう。
(そのていどには、エルフリーデのことを覚えていてくれたのね)
アルフレートが、少しでも罪悪感を持ってくれているなら好都合だ。後ろめたさは美辞麗句を弄する余裕を失くさせ、羞恥心を呼び起こしてくれるだろう。偽りのない本音を、期待しても良さそうだ。