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転生した悲劇の王妃は今世の幸せを死守したい  作者: 悠井すみれ
五章 波は揺れる 思いも揺れる
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4.身を持って知る辛さですから

 侍女たちは、すでにディートハルトの部屋をある程度は片付けてくれたということだった。つまりは、海の荒れによって散らばったものは綺麗にしまって、汚れたところも清めて、ということだ。だからディートハルトがきまり悪い思いをすることはないし、アンナリーザが衣装を汚す心配もないということだった。


 若い娘が寝ている殿方を訪ねるのはどうか、という問題はあるけれど、細く開けた扉のすぐ外には侍女も従者も控えている。船は今もまだ荒い波風に揉まれ続けているから、ディートハルトはたぶんまともに動けないだろう。何より、アンナリーザの足首ではあの銃鞘(ホルスター)がしっかりと拳銃を抱き留めている。彼女の名誉も貞操も、心配する必要はないだろう。


(お父様やお兄様が風邪を召された時と同じことよ)


 今は遠くにいる家族は、たまに寝込んだ時は彼女の見舞いが何よりの薬と喜んでくれたものだ。ディートハルトだって、本人は知らなくても前世の彼女(エルフリーデ)からすれば甥なのだ。そうでなくても少しは親しくなっているし、寝込んでいると聞けば可哀想にも思う。助けるのは当然のことだった。


「ディートハルト様。お加減はいかがでしょうか……?」

「アンナリーザ様。お見苦しいところをお見せします……」


 アンナリーザが扉を叩くと、応じる声は消え入りそうなかすかなものだった。昨日も食事に手をつけるどころではなかっただろうから、消耗していることだろう。指名されて訪ねたとはいえ、年下の娘に弱ったところを見せるのは気兼ねもあるはず。


()もきっと、こんな風だったわ……)


 情けないのも汚いのも、誰よりも自分で分かっているというのに、他人の面倒がる態度は、敏感に伝わるものだ。自身(エルフリーデ)が傷ついた記憶を反芻して、さりげない笑顔を保って、アンナリーザはディートハルトの枕元に腰を下ろした。水で絞ったタオルで額を拭うと、冷たさが心地良いのか満足そうな溜息が聞こえた。


「とんでもないことですわ。マルディバルの者は多少は海に慣れておりますから、遠慮なく頼ってくださいませ。──果物くらいでしたら、喉を通るでしょうか。お酒は、気付けにもなりますわ」


 船に積んでいるパンは、味は良くてもしっかりと焼き上げてあって重いから、絶食の後の食事には向かない。きっとひどく吐いたのであろうディートハルトのために用意したのは、干したオレンジの薄切りを蒸留酒ブランデーに漬けたものだ。果実の甘味で強い酒精を和らげつつ、水分と栄養の補給にもなる。青果や水を思うように摂取できない海上では、これでもだいぶ食べやすい部類の品だった。


 酒で少しふやけたオレンジを齧って、ディートハルトは弱々しく微笑んだ。それでも、続く声は最初よりもいくらか力が戻っているようだ。


「生き返った心地です」

「分かります。ええと……私どもも、昨夜は生きた心地がしませんでしたから」


 相槌に実感がこもり過ぎたような気がして、アンナリーザは慌てて言い足した。彼女が死ぬかと思うほどの船酔いにのたうち回ったのは前世でのこと、幸いに今世の心身はエルフリーデよりも頑丈だった。


()は子供だったしね……)


 十三歳になるかどうかの子供を船に押し込んだ、前世の父たちの顔を恨めしく思い浮かべながら、ディートハルトの様子を窺う。オレンジを咀嚼し、酒を啜るので精いっぱいの彼は、幸いなことにアンナリーザの言動の齟齬に気付く余裕はないようだった。


 持ってきた皿が空になるころには、ディートハルトの体力はだいぶ回復したようだった。寝台の上に半身を起こして、アンナリーザに支えられながら顔や手足を拭くことができるていどには。


 乱れた髪も手櫛で整えて、どうにか貴公子らしい姿に戻ったディートハルトは、しみじみと呟いた。


「ラクセンバッハ侯爵はもっと称えられるべきですね。彼は何度もこんな地獄を味わったのでしょうから」

「ええ……本当に」


 イスラズールでアルフレートを待った日々の心細さを思い出して、アンナリーザは心から頷いた。エルフリーデの立場では、彼が帰国するたびに見捨てられたと思って、時に詰ったり泣いたりして困らせたものだった。でも、今、再び海路にいると分かる。命がけの航海に何度も挑むのは、決して簡単なことではない。たとえ王命であっても、固辞することは絶対に不可能ではなかったはずで──彼がその道を選んだ理由の何番目かには、彼女(エルフリーデ)もいたのかもしれない。


「侯爵様は私のことも案じてくださいました。私への()()()のせいで、父や兄に叱られていないと良いのですけれど。無事に帰国した時には執り成して差し上げましょう」


 前世のことも、今世の祖国を巻き込む企みも。すべて許すことはとうていできないけれど、アルフレートに受けた恩義も確かに、ある。だから彼を毛嫌いするのも間違ったことなのだろう、と。アンナリーザは考え始めていた。マルディバルとフェルゼンラングの今後を思えば、色々な意味で気心の知れた彼が窓口になってくれたほうが何かと都合が良さそうだ、という計算もあるけれど。


「とても、優しい御方ですね、アンナリーザ様は。それに、それだけではなくて……とても、お強い」


 だから、ディートハルトによる評価は、ずいぶんと買いかぶってくれたものだ、としか思えなかった。しかも、仮にも王女に向かって強い、だなんて。


「まあ、褒めてくださっていますの? フェルゼンラングの姫君方とはだいぶ違うでしょう」


 フェルゼンラングで良しとされるのは、人形のようにしとやかな女だ。それを思うと純粋な称賛とは受け取りづらいけれど、アンナリーザにとっては嬉しい言葉ではあった。()()とは──流されて利用されるだけだったエルフリーデとは違う、とも取れるから。


 口元を押さえてくすくすと笑うと、ディートハルトは目眩でもするのか碧い目を細めて彼女を見つめてきた。……そういえば、ずいぶんと顔の距離が、近い。もしかしたら、《彩鯨(アイア・バレーナ)》号で一緒に踊ったときよりも。ディートハルトは、それほどに身を乗り出して──そして、アンナリーザの手に触れた。


(……あら? やっぱりご気分が悪くなったのかしら……?)


 突然のことに驚いて──それに、彼の行動が不思議で。アンナリーザが何も言えず何もできないでいるうちに、ディートハルトの色褪せた唇が、そっと動いた。


「初めてです。貴女のような方は」


 彼の目が潤んでいる気がするのは、熱でもあるのだろうか。思いのほかに強く手を握られているのにも困惑しているのだけれど、支えが必要ということなら振りほどくのもためらわれる。


「マルディバルではさほど珍しくないかと思います。帰国したらお友達をご紹介したいですわね」


 以前に母に語った通り、マルディバルの令嬢とフェルゼンラングの王子様が結ばれるなら素晴らしいことだ。ディートハルトの──なんというか気儘な性格なら、北方の堅苦しい宮廷よりも、解放的な港国のほうが合っているかもしれない。


 ……そんなことを考えたのは、たぶん、現実逃避というものだったのだろうけれど。ディートハルトの言葉に、奇妙な熱を帯びた眼差しに、手にこもる力に。察するものは、なくはなかったのだけれど。でも、できることなら鈍いふりでやり過ごしたかったのに。


 彼女の戸惑いに、気付いているのかいないのか──彼のことだから、気付いていないのかもしれない。ディートハルトはいっそう強くアンナリーザの手を握ると、短く、そして決定的に囁いたのだ。


「アンナリーザ様。私と、結婚してください」

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