5.売られるお姫様を羨んだ侯爵
エルフリーデは、金銀宝石と引き換えに遠い国へ売られていくのだ。誰が何と言おうと彼女はそのように理解していた。
だから、茶会だの夜会だのの席で、会う人ごとに祝福されても心から喜ぶことはできなかった。売られていく牛や豚が、我が身に高い値がついたからといって喜ぶはずがない。おめでたいとか名誉なことだとか言う人たちは、エルフリーデの手足が金銀で、目は宝石でできていると見えているに違いなかった。人の子供ではなく財宝だと思っているから、幾らで買い手がつくかが最大の関心ごとになるのだ。
良い子の笑顔の裏で、エルフリーデは捻くれ、いじけて絶望していた。泣いたり喚いたりしなかったのは、そんなことをしても無駄だと知っていたからに過ぎない。
だから、とある夜会でその人が近づいてきた時も、彼女は当たり障りのないやり取りで切り抜けようとしたのだ。けれど──
「まことに羨ましゅうございますな、エルフリーデ様!」
「うらやましい……?」
ヴェルフェンツァーン侯爵カールに微笑みかけられて、エルフリーデは首を傾げた。彼女を羨む人は、まったくいないということはなかったけれど、でも、たいていは女の人だった。それも、イスラズールとの縁談そのものではなくて、婚約者から宝石を山のように贈ってもらえることについて、だった。
(宝石が好きな殿方なの……?)
社交界には、貴婦人に劣らず身を飾るのを好む貴公子がいるのは、知っていた。でも、エルフリーデの前に跪いたヴェルフェンツァーン侯爵は、輝く銀髪にきらきらした緑柱石の目と、纏う色こそ華やかだったけれど、それ以外の装いについては洒脱とはほど遠かった。
何しろ、彼の肌はエルフリーデが日ごろ接する兵士の誰よりも灼けて褐色に染まっていたし、頬には傷痕が走っていた。極めつけに、侯爵のマントを縁取るのはよくある白貂ではなく、黄色に黒の縞も鮮やかな虎の毛皮だった。《東》大陸の深山で、頬に傷を刻んだ虎を返り討ちにしたのだ、と嘯いていると聞いたのは後になってからだったけど、とにかく、見るからに怪しい出で立ちの人であることだけは確かだった。
「はい。イスラズールはどの大陸からも離れた洋上に位置する未知の大地。いったいどのような鳥や獣や虫や草花が生息しているのか──想像するだけでも胸が弾みます」
怪しい人が、怪しい目つきで怪しいことを言い出したものだから、エルフリーデは思わず後ずさった。夢見るようなうっとりとした眼差しは、女の子が王子様や綺麗なドレスや甘いお菓子を語る時にするものであって、体格の良い侯爵が浮かべるのは似合わなかった。それに──
「……では、小父様もいらっしゃれば良いわ。イスラズールに行く船はとても大きいのだそうよ。おひとりくらい増えたって、きっと大丈夫」
この人も、どうせ口先だけだろうと思った。可哀想な王女を慰めようと、上辺だけの言葉を並べているだけだろう、と。
宝石や王妃の座が羨ましいという姫君に、戯れの振りでじゃあ代わってみましょうか、と言ったことは何度もある。代わってもらえるものなら、エルフリーデは喜んで譲るだろうに、でも、言われた少女たちは、一様に勢いよく首を振った。そんな恐ろしいことはできない、と言って。そうして浴びせられる哀れみの目に、彼女はもううんざりしていたのだ。
けれど、棘の滲んだエルフリーデの提案に、ヴェルフェンツァーン侯爵は大きく頷いたのだ。我が意を得たりとでも、いうかのように。
「はい。私もそのように考えて、陛下に──御父上に奏上したのですが、却下されてしまいました。姫君のご婚礼に、怪しい風体の者が列席するのは見栄えが良くないとの仰せで」
「それは……残念でしたね?」
「まことに」
整った顔を顰めて嘆息する侯爵の声にも表情にも、偽りの影は見えなかった。エルフリーデがどんなに目を凝らしてみても、彼は心からイスラズール行きを羨み、同行できないのを悔しがっているとしか思えなかった。
初めて見る反応に戸惑うエルフリーデに、侯爵は身を乗り出して彼女の目を覗き込んだ。頬の傷が迫るのは、恐ろしいと思っても良かっただろうに──満面の笑みを浮かべているからか、腕白な少年が悪戯をもちかけているようにしか思えなかった。
「ですから、エルフリーデ様にお願いしたく。イスラズールに落ち着かれたら、かの地の生き物を送ってくださいませんか? 生きたままが難しいなら、標本でも毛皮だけでも──そうだ、草木の鉢植えならば、当家の温室に馴染めるかもしれません」
間もなく嫁ぐ王女に対して、ずいぶんと不躾で図々しいおねだりでは、あった。でも、無礼を咎めるどころか、エルフリーデは思わずくすくすと笑ってしまった。それもまた無作法ではあったのだろうけれど、我慢できなかったのだ。
「ええ……そうね、できるかどうか、聞いてみます」
恐ろしくて堪らなかったイスラズールのことを、楽園のように憧れを込めて語る人がいてくれた。未知なる地を踏むこと、新たな物事を知るのは純粋な喜びなのだと──そんな見方を教えてもらえたことは、彼女にとっては一筋の光のように思えた。
* * *
エルフリーデは、何度か鳥の剥製や蝶の標本をヴェルフェンツァーン侯爵に送った。時には手ずから作った押し花を手紙に添えたりして。海を越えた文通であることに加えて、しばしば彼は旅をするから、返事は間遠だったけれど。でも──そうだ、彼女にも楽しい記憶がまったくない訳ではなかったのだ。
(カール小父様は──もう五十を過ぎていらっしゃるかしら。ご自身で長旅は、もうできないのかも……)
懐かしい面影を思い浮かべながら、アンナリーザは次の目的地に着いた。出資を呼び掛けたい有力な商人や商会は、まだまだあるのだ。路上での一幕があっても、何とか約束の時間に間に合ったのは僥倖だった。
それでも余裕はなかったから、アンナリーザは優雅さを失わないぎりぎりの勢いで馬車から飛び降りた。王女に敬意を払って自ら出迎えた商会の主は、なぜか生温い微笑みを浮かべていた。
「ご機嫌麗しく、アンナリーザ様。御身を巡って貴公子が決闘するところだったと伺いましたが?」
「ま、まあ……どんな船も馬も噂には敵わない、というのは本当ですのね……」
一方のアンナリーザは、彼女自身よりも早く噂が広まって、しかも尾ひれどころか角も翼も生える勢いなのだと悟って笑顔を引き攣らせた。王家の馬車に、庶民は滅多に見ることができない王女。ディートハルトもユリウスも、それぞれ見目麗しい貴公子だった。見た者聞いた者が、張り切って話を盛っていったのも、思えば当然のことかもしれなかった。
(この分だと王宮にも届いているわね、きっと……)
内心頭を抱えながら、アンナリーザはせめて噂を鎮火しようと努めた。
「不慣れな従者がうっかり馬車を止めてしまっただけですのよ。お恥ずかしいことです」
「その従者も気品ある美形だったと──これは、兄上様も御心穏やかではないでしょうな」
商会主がちらりとディートハルトを見たのは、これが例の、という意図があってのことに違いない。噂は広まる一方だろうな、という敗北感を抱きつつ、アンナリーザはどうにか笑顔を保った。
「まさか、そのようなこと。それよりも、今日は大切なお話がございますから」
「そうでしたな。今回の件、我々も大変興味を持っておりまして──」
商売の話を向けると、相手はさすがに表情を真剣なものに改めた。話題を変えることができた安堵と、強かな商人の協力を勝ち取らなければならない緊張と。ふたつの感情に挟まれて、アンナリーザは心の奥のほんの片隅で、そっと小さな溜息を吐いた。
(早くアルフレートに押し付けて──いえ、それではいけないわね)
突然のユリウスの出現と、それが招くかもしれない噂について。フェルゼンラングの外交官に責任を問うのは簡単なことだ。でも、その前にこの状況をもっと利用すべきだと気付いたのだ。
ユリウスは、フェルゼンラングの高位の貴族だ。しかも、ディートハルトの存在に驚いていたということは、イスラズールに関する企みは知らないのだろう。侯爵子息が、イスラズールの生態系への興味と熱意を父君と同じくしているなら、条件と話の切り出し方次第では、祖国よりもマルディバルに与してくれるかもしれない。少なくとも、アルフレートやディートハルトが語らない、今のフェルゼンラングの内情を聞くことはできるはずだ。
(……そうするためには、私からお父様やお兄様にお伝えしないといけないのかしら?)
娘や妹を深く愛してくれる人たちが、噂を聞いていったいどんな反応をするのか──考えるのは、少し怖い。だからアンナリーザは、疑問はひとまず心の中に封じ込めることにした。




