2.蘇る記憶と込み上げる怒り
アンナリーザが目を開けると、見慣れた寝台の装飾が彼女を見下ろしていた。港国マルディバルらしく、波と戯れるイルカや人魚たちの絵と彫刻。温かく居心地よく安全な場所にいると気付いても、でも、彼女の心は安寧とはほど遠かった。
「……クラウディオ」
思い出した大切な名前を、そっと呟く。あのレイナルドとまた結婚するなんて、考えるだけで恐ろしくておぞましい。でも、もっと恐ろしくておぞましいことに、彼女は気付いてしまったのだ。
(使者は、あの子のことを言っていなかった。王の再婚に、一番大事な情報ではないの!?)
送り込んだ王女の子が、嫁ぎ先の王位を継げるかどうかに関わるのだから。まともに縁談を持ちかけるなら真っ先に伝えるべき情報を伏せていたのは──クラウディオに王位を譲る気がないからか。あるいは、あの子をもう殺してしまったから?
(レイナルドは再婚しなかった……それは、マリアネラのため? あの女があの子を育てたの……!?)
あの女が我が子を抱く姿は、想像するだけでも耐え難い。それに、愛人の存在を隠しての求婚なら、それもまたふざけているとしか思えない。
(どうして私なの……)
そう──疑問の根本は、そこだ。恐怖と怒りと混乱に目眩を感じながら、アンナリーザは浅く荒く呼吸した。大小合わせて数多の国があるというのに、よりによって、どうして彼女がレイナルドの再婚相手に選ばれたのだろう。考えられるとしたら──
レイナルドは、妻の実家からの干渉を露骨に嫌っていた。前世の実家に比べれば、今世の実家の力はささやかなもの。より煩くない同盟相手を求めているのだとしたら?
(あの男……また私を利用して踏み躙ろうというの……!?)
エルフリーデの記憶と、今世のアンナリーザが同時に憤る。ふたり分の怒りは激しくて、彼女は寝室の扉がノックされていることにしばらく気付かなかった。
「アンナリーザ、もう大丈夫かな?」
「え、ええ……お父様、どうぞ」
扉の外から聞こえたのは、優しい父の声だった。寝台に横たわる娘を見るなり眉を寄せたのは──彼女はよほどひどい顔色なのだろうか。
「お前が倒れるなど珍しい。……やはり、望ましい縁談ではないのか?」
「イスラズールは有望な交易相手なのでしょう。国としては良いお話、なのですよね……?」
枕元に腰を下ろした父に、アンナリーザは身体を起こしながら応えた。
イスラズールの大地には金銀と宝石が眠っている上に、開拓途上の新しい国とあって足りないものばかり。木材に石材。食糧も、急速に増える民を賄うには国内からの収穫だけでは心もとない。砂糖や香辛料、酒や煙草などの嗜好品はなおのこと。技術も、それを持つ人材も歓迎される。
要は、どんな商品も豊富な資源で買い取ってくれる、非常に美味しい市場なのだ。
二十年近く経てばイスラズールの発展も目覚ましいはずだけれど、大陸の諸国に追いつくにはまだまだ、といったところのはずだ。
(だから、今のうちに繋がりを深めようと──お父様は考えられたのだわ)
目の前にいる今の父ではなく、前世の、フェルゼンラングに君臨する父のことだ。エルフリーデだって、海を越えて嫁ぐことなんて望んでいなかった。でも、王女に我が儘は許されなかった。王族に生まれた者は、国の利益のために我が身を犠牲にするもの。小国とはいえ、今世でも同じことだろうと思ったのだけど──
「ふむ、お前を犠牲にするほどの魅力がある話ではない、な」
「え……?」
意外な言葉に、思わず顔を上げて目を見開く。すると、父は穏やかに微笑んでいた。
「可愛い娘を二十歳も年上の男の後妻になどやれるものか。国益とお前の幸せを同時に得られる話は、これからもあるだろう」
「お父様……」
(イスラズールの金と、娘の幸せを比べてくださる? まさか……!)
じんわりと熱が上がるのを感じて、アンナリーザは頬を両手で包んだ。小さいとはいえ、マルディバルは交易で身を立てる国だ。さしたる国土を持たないからこそ、利害についてはフェルゼンラングよりも冷徹に考えるものなのだろうに。娘を喜んで売り渡しても良いところだろうに。
でも、アンナリーザは父の優しさに長く浸ることはできなかった。
「……それに、フェルゼンラングに睨まれてまで進める話でもない」
「まあ……フェルゼンラングが? なぜ?」
思い出したばかりの前世の祖国の名が、父の口から漏れるのが不思議で、アンナリーザは思わず身を乗り出した。単に懐かしむ気にはなれない、不審で不穏で、怖い──そんな感情は、父が軽く顔を顰めたことますます強まった。
「亡きエルフリーデ妃の実家だから、だろうな。王女の後釜を狙っていると見えて不快なのだろう。……さすが、あの国は耳が早い。ろくに国交もないのにちょうど良く使者が来るとは」
(私への気遣い? あり得ないわ──あのお父様が!)
前世の父──フェルゼンラング王は、イスラズールの金で娘を売った。里帰りを願っても、夫への諫言を依頼しても、叶えられなかった。そんな冷酷な王が、死んだ娘にそこまでの思い遣りを見せるとは思えない。そんな情があるなら、再婚話でクラウディオの名前さえ出ない、なんて事態になるはずがないのだから。
(何か、企んでいらっしゃるわね……!)
マルディバルを小国と侮ってくれているのは、前世の夫だけでなく、父も同じ、なのかもしれなかった。もちろん、用件を聞く前から断じるのは早計なのだろうけど。でも──油断してはならない。
父に見えないように、アンナリーザは褥を強く握りしめた。死の間際のエルフリーデとは違って、今の彼女は精気に満ちているのが心強かった。これなら、フェルゼンラングの老練な外交官とも対峙できるかも。願わくば、前世で面識がある相手だとやりやすいのだけれど。
「お父様……私、フェルゼンラングの使者に会いたいですわ。イスラズールについて、もっと情報が欲しいですもの!」
エルフリーデが死んだ後のこと、クラウディオのこと。聞きたいことは山ほどある。かつての祖国も信じられる訳ではまったくないけれど。でも、彼女はたった今決めたのだ。
もう二度と、流されて利用されるだけの人生は送らない、と。