4.商人には商人のやり方がある
「難しい話」が一段落すると、《彩鯨》号はディートハルト王子の接待で内海を遊覧した。巨亀のような鈍い船体を、より小さな船に曳かせるのだ。陸上でのことに喩えるなら、飾り立てた馬車を選び抜いた馬に繋ぐようなことだ。王家の所有と名高い船に、ほかの船が敬意を持って道を開けるのも、陸と海とで何ら変わることがない。
「大きな船も、巧みに動くものですね。帆があんなにあって、しかも細やかに動くものとは知らなかった。鳥の翼のようではありませんか?」
「ええ、帆は船にとっての翼ですわね。水面を飛ぶための──」
フェルゼンラングの王都は遥か内陸に位置するからか、ディートハルトには海から見る景色の何もかもに、碧い目を輝かせていたけれど。アンナリーザにとっては毎日のように目にする船の交錯も、彼にとっては物珍しいのだ。異なる大陸の船が掲げる旗も、船首の像も、それぞれの国の文化や信仰を表して色も形も様々だ。《彩鯨》の巨体にあえて近づく船はいないけれど、潮風の向きによっては異国の歌や言葉が微かに聞こえることもある。
《北》の領域に居ながらにして、《東》や《南》の文化が混ざり合う刺激的な光景を、ディートハルトは心から楽しんでいるようだった。ついでに言えば、菓子のお代わりは北方風のちゃんとしたものにしたのも良かったのだと思う。
(子供がはしゃいでいると思えば、可愛らしい、かしら)
目立った船の出自や、岸に見える建物の持ち主などをいちいち指さして異国の王子に教えながら、アンナリーザは密かに思う。
マルディバルの王族としては、国賓が満足してくれているようなのは慶ぶべきことだ。彼女の心の片隅にいるエルフリーデとしての意識も、はるばる訪ねて来た甥をもてなしていると思えば嬉しい……かもしれない。もしも彼女が永らえていたら、実際にディートハルトが叔母を訪ねてイスラズールに渡ることもあったかもしれない訳で──それなら、手放しで歓迎していたかもしれないのに。
……なのに、今の状況はやはりどこかキナ臭くて警戒を怠ってはならないと思ってしまうのは、フェルゼンラングとイスラズールの関係と、彼らの企みの全容が見えないから。そして、ディートハルトの言動が今ひとつ不安だからだ。
「船遊びといえばイストロス川ばかりでしたが、海も開放的で楽しいものですね。思ったより揺れもないし」
ディートハルトは、《北》の大河の名を挙げてエルフリーデの郷愁を掻き立てた。でも、アンナリーザは、そして同席していたティボルトは、王子の無邪気な言葉を聞き流すことができなくて、密かに視線を交わした。
(……大丈夫かしら?)
妹の不安を正しく察知してくれたらしく、ティボルトは軽く咳払いした。
「それは、内海だからでしょう。この辺りはまだ陸に守られています。沖に出れば、風も波も一段と強いでしょう。もちろん、潮の流れもありますし」
「ええ、身構えて来たのですが。この分ならばイスラズールまでの航海にも耐えられそうな気がしてきます」
イスラズールへの航海では、もちろん《彩鯨》号よりもずっと小さな船を使う。長い旅路で嵐に遭わない保証もないし、そもそもティボルトが指摘した通り、波風の強さも湾に守られた内海とは比べ物にならないのだけれど。兄妹はまたも無言のうちに、言っても無駄そうだ、と視線だけで同意した。
(まあ、海に落ちなければ船酔いで死ぬことはないでしょう)
マルディバルは、これから考えなければならないこと、対応しなければならないことが山積している。箱入りの王子様の苦労についてまで気を遣う余裕はないのだ。
* * *
小舟に移ったディートハルトは、長いこと《彩鯨》号に向けて手を振っていた。王子と王女の懇親の席は終わって、彼はこれから陸に帰るのだ。船上に残ったアンナリーザとティボルトは、今少し海上で兄妹の語らいをするつもりだった。
青い海の中、青い空を見上げてティボルトが溜息を吐いた。
「ディートハルト王子がイスラズールに渡るとして……ご身分は明かせない、よな……?」
《彩鯨》号は、ごく私的な会話を堂々と行える、という点でも便利だった。盗み聞きができるとしたら、カモメか魚くらいなものだ。そもそも乗り込めるのは身元が確かな者に限られている。だから、アンナリーザも憚ることなく顔を顰めた。言葉遣いも遠慮なく、家族だからこそ聞かせられる強い口調になる。
「ええ……。公的にはイスラズールとフェルゼンラングは断交しているのですもの。王子殿下が入国されるなんてあり得ませんわ」
恐らくは、マルディバルが彼に何らかの肩書を与えることになるのだろう。書記官とか、会計士とか、そんなところを。そうして密入国させた後で、ディートハルトたちはイスラズールの協力者に接触する──そんな計画なのだろう。
(どこまでも勝手で……一方的な方たちね……!)
外交問題になりかねないことを引き受けるのだし、ディートハルトを身分を明かして紹介されたことからして、黙っているつもりではなかったはずだ、と思いたい。ただ、それにしてももっと話を詰めてから、かつ、もっと下手に出て明かすべきものではなかっただろうか。
フェルゼンラングとイスラズールの諍いに、いよいよ深く巻き込まれる気配が濃厚になって、ティボルトとアンナリーザは顔を見合わせて溜息を吐いた。マルディバルは決して海賊や密貿易に寛容な国ではなく、その評判は知られているのだろうに、どうしてこうも信用ならない取引相手に囲まれなければならないのだろう。
「殿下はラクセンバッハ侯爵に叱られるのかもしれないな。我々には関係ないが」
のんびりと空を飛ぶカモメが《彩鯨》号の甲板に影を落とすのを眺めながら、ティボルトが呟いた。たぶん純粋な感想で、ディートハルトを気の毒がる気配はない。アンナリーザも同感だった。
(本当に関係ないことだわ。お兄様の教育の失敗と、アルフレートの見込み違いなんて)
エルフリーデの目には、兄もアルフレートも頼るべき大人として映っていた。でも、アンナリーザの目で見ると、彼らも決して完璧な存在ではないようだ。少なくとも、ディートハルトの口の軽さは予想していないことだろうと思う。
「王子殿下にしろ侯爵様にしろ、弁明してくださる時には納得できる説明を伺いたいものですわね」
フェルゼンラングが第三王子を寄こしたのは、外交の経験を積ませ、交易の雰囲気に触れさせるための、帝王学の一環だろうとマルディバル側では考えていた。確かに授業ではあったのだろうけれど、でも、より実戦的な意味合いのものだった、ということかもしれない。つまりは、ほとんど敵国であるイスラズールに潜入する前に、せめて礼儀を守るであろうマルディバルとの折衝の場に放り込んでみよう、という。
「父上の首尾のほうはどうかな。この分だと、何が飛び出していても驚きはしないが」
「ご英断に期待したいところですけれど。あんな国々に関わってはいられない、と」
前世の婚家と実家を纏めてこき下ろしながら、アンナリーザは思い切り菓子の欠片を海に撒いた。カモメと魚が海面に群がるのを見て心を慰めるのが、王女の身に許される限りの、ごくささやかな八つ当たりだった。
「それは無理だろうな」
「ええ……そうなのですけれど」
無礼な使者たちを追い返すのは簡単だ。でも、将来のことを考えれば得策でないのも分かってしまう。フェルゼンラングとの不和、イスラズールとの交易から締め出されること。いずれもマルディバルにとっては看過しがたい損失になるだろう。
「まあ、話が交易のことに及べばこちらも主導権を握れるだろう」
「はい。相手は素人なのですから、足元を見たいものですわね……!」
商人の国が、駆け引きで先手を取られてばかりでは沽券にかかわる。アンナリーザたちがフェルゼンラングとの社交に励む一方で、父は今ごろはイスラズールの使者と会うことになっている。先方がいずれも不実なのだから、こちらだって同時にそれぞれと話を進めたとしても、何ら恥じることではないのだ。




