1.前世の甥は特に可愛くもなく
今回から新章スタートです。
前話にこの世界の地図を掲載しています。よろしければご覧ください。
マルディバル王家が所有する《彩鯨》号は、四方の諸国に名高い巨大かつ壮麗な船だ。あまりに巨大すぎて少しの波や風にも大きな影響を受けてしまうから、運輸にも海戦にも使えないほどだ。あと、ほかの船の操舵の邪魔にもなるだろう。《彩鯨》号は、池の水面に漂う蓮の葉のような船。あるいは、日向ぼっこをする亀のような。ふわふわと浮かぶだけで、自らの意思で動くということをしない船だから。
マルディバル湾を一歩も出られない船を何に使うかというと、儀式用だ。《彩鯨》号の甲板は、王宮の大広間にも遜色のない広さを誇るし、実際大広間と同等の機能を有している。舞踏会でも、晩餐会でも。陸の宮殿と変わらぬもてなしができるよう、船内にはあらゆる設備が整えられている。精緻な調度も装飾も、波にも潮風にも色褪せぬように日々磨き上げられている。
晴天の日に限る、という制約こそあるけれど、どこまでも青い空と碧い海はマルディバルならではの絶景だ。夜の会なら、満天の星空がシャンデリア代わりになるし、港に繋がれた船の灯りが揺れる様は蛍が瞬くようで趣深い。昼なら昼で、船内を彩る装飾はより見やすいし、イルカや鯨の挨拶を間近に眺める幸運に恵まれるかもしれない。行き交う他国の船も敬意を払ってくれるから、様々な国の言葉の響きを聞くのも楽しいはず。
楽団の奏者は楽器が、貴婦人は髪やドレスが。潮風で痛むということで、残念ながら万人に歓迎される場ではないのだけれど。それでも、アンナリーザは《彩鯨》号の船上での式典や祝宴を常に楽しみにしていた。彼女は、マルディバルの王女だから。海によって富み栄える、国のあり方を象徴するようなこの船は、彼女にとっても誇りだった。
* * *
風が、アンナリーザの髪を撫でていった。一瞬だけ剥き出しになった首を竦めたのを見て取ったのだろう、兄のティボルトが庇うように身体を寄せてくれる。
「アンナリーザ、寒くはないか?」
彼女たち兄妹は、《彩鯨》号の船上にいた。船はすでに港や係留するほかの船の列から離れ、蜃気楼のごとく洋上に佇んでいる。周囲の従者たちが日除けの傘を差し出したり、風除けの幕を張り巡らせてくれてはいるけれど、基本的には吹きさらしの屋外だ。季節は春を迎えたばかり、多少強い風が吹けば、肌寒いと感じないでもなかったけれど──
「大丈夫ですわ、お兄様。良い天気ですもの」
アンナリーザは、兄の気遣いに笑顔で応えた。彼女はやっぱり、海も空も好きなのだ。それに、ぬくぬくと着込むよりは春らしい装いをしていたい。少しくらい寒くても、そのほうが背筋が伸びるというものだ。
まあ、季節にまったくの不満がない訳ではないのだけれど。その理由は、暑さ寒さとはまったく関係ないところに存在している。
(急いで準備すれば、夏のうちにイスラズールへ出航できる、とでも思っていそうね……)
手をかざして、空を飛ぶカモメの影を見上げながら、太陽の眩い光に目を細めながら。アンナリーザは西を窺う。イスラズールの大地は、水平線の西の彼方に位置しているのだ。彼女の前世の夫はあの海の向こうから彼女を招き、前世の実家は彼女の今世の実家の勢力を送り込もうとしている。王妃候補や国の使節といった貴人の航海は、比較的天候が穏やかな夏に出航すべきなのは常識で──でも、そんな重要な話をほんの数か月でまとめようだなんて、いかにも慌ただしい。まるで、よく考える暇を与える前にとにかく旅立たせてしまいたい、とでもいうかのような。
(聞いているだけのお話なはず、ない……ほかにも企みがあるはず、よねえ)
二度と利用されない、と誓ったものの、現状はまだ後手後手だ。フェルゼンラングについてもイスラズールについても、出方を決めるには情報が足りないし、情報が集まるのを待っていたら身動き取れないところに追い込まれていそうで。
(絶対に、ろくでもないことだわ……!)
前世の夫も、前世の実家も。何しろ彼女は彼らのやり口をよく知っているから。
アンナリーザは、いつの間にかはっきりと眉を顰めていたらしい。海の彼方に目をやる妹をじっと眺めていたティボルトが、心配顔で長身を屈め、彼女の耳元に囁いてくるほどに。
「どうした、可愛い顔が台無しになっているぞ」
「あ──ごめんなさい、お兄様。大事な席ですのに」
彼女につられてか、兄こそ怖い顔になってしまっている。しかめっ面の兄妹に迎えられては、客人にマルディバルの敵意を疑われることにもなりかねない。
慌てて両手で頬を包み、強張りを解こうとしていると、ティボルトは仰々しく腕組みをして溜息を吐いた。
「無理に笑え、とも言いたくないが。お前が見初められてしまわないか心配だからな」
「まあ、フェルゼンラングの公爵夫人に、と仰っていたのはお兄様ではないですか」
どこまでも過保護な兄の言葉に、アンナリーザは思わず声を立てて笑った。玉の輿を願ったかと思えば、逆に隠そうとしたりして、ティボルトの言動が一致しないのが面白い。
(まるで、予言をなさったみたいだったわ。こんなにすぐに、フェルゼンラングの公爵と対面することになるなんて)
マルディバルの王子と王女が揃って、国が誇る巨船で出迎えるのは、当然のことながら国賓として遇すべき相手だった。つまりは、大国フェルゼンラングの、貴人。つい先日、アンナリーザが父と対峙したラクセンバッハ侯爵アルフレートよりもさらに身分の高い公爵閣下だ。それも、王家に連なる血筋の。小国の王女の嫁ぎ先としては願ってもない相手かもしれないけれど──
「今のうちに言っておくが、イスラズールもフェルゼンラングも似たようなものだと思い知ったからな」
「本当に。でも、大事なお客様ですから」
油断できないし信用できない、という見解を兄と共有できているのが嬉しくて、アンナリーザは力強く頷いた。お客様、というのは、すなわち商売相手、取引相手という意味だ。彼女たちは、父からフェルゼンラングの真意を探るように言われている。
『イスラズールとの交易でいかに我が国に利益をもたらすか──多少なりとも絵図を見せてもらわねば。かの国に干渉する口実として利用されるだけでは堪らない』
マルディバルは、商人の国。商売に当たっては打算も駆け引きも、何なら多少の欺瞞もあり得るけれど、それも商品と代価があることが大前提だ。他国の王位に関わる陰謀の、隠れ蓑に使われるために動くなんて、交易で身を立てる国の沽券にかかわる。だから、この件に乗るとしたら、マルディバルは本腰を入れてイスラズールとの交易を検討することになるだろう。
(そうなれば、私としても嬉しい、けど……)
マルディバルの王女としても、前世の──イスラズールの王妃としても。堂々とイスラズールに関わることができるなら。もしも、両国が共に栄える道があるのなら。
不安とも期待ともつかない感情に騒ぐ胸を、アンナリーザが抑えた時──《彩鯨》号に軽い振動が伝わった。客人を乗せた小舟が、接舷したらしい。
傍らに立つティボルトを見上げると、兄は小さく頷いた。兄妹同士の気楽なやり取りはもう終わり、ここからは外交の時間、ということだ。
さほど待たされることもなく、彼らは《彩鯨》号の甲板に姿を見せた。アンナリーザの目には重々しく堅苦しく、けれどエルフリーデの記憶を通せば見慣れた、フェルゼンラングの由緒正しい盛装を纏った一行が。先頭に立つ黒髪の貴公子が、アンナリーザたちの姿を認めると晴れやかな笑みを見せる。
「初めまして、ティボルト殿下、アンナリーザ殿下。お会いできて嬉しく思う」
「伝統ある国の王族をお迎えする光栄を、私こそ嬉しく思っております」
彼も、国を代表するにしてはだいぶ若い。ティボルトと同い年で、まだ二十二歳だとか。アンナリーザはそう教えられたし、エルフリーデとしてはやはり知っていた。それでも国力の差ゆえに、ティボルトのほうが恭しく硬い言葉遣いをし、アンナリーザもそれに倣った。
「私も、お会いできるのを楽しみにしておりましたの。ホーエンフロイデ公爵様」
「どうか、ディートハルトと。年も近いし、気楽な席を用意していただいたので」
「それでは──ディートハルト様。寛大なお言葉に甘えさせていだきますわね」
はにかんだふりでアンナリーザがそっとその名を呼ぶと、ディートハルト王子は──少なくとも見た目上は──嬉しそうに微笑んだ。整った顔立ちを自覚しているらしいのは、父親によく似ている。
(でも、目の色はお義姉様譲り、かしら。お兄様よりも明るい碧色……? よく覚えてないけれど)
アンナリーザとしてはもちろん会ったことがなく、エルフリーデとしてさえ何年も離れ離れだった人たちの顔は、もはや遠い靄の彼方だった。
ホーエンフロイデ公爵ディートハルト──称号をつけるなら、殿下。フェルゼンラングが送り込んで来たのは、フランツ・グスタフ王の第三王子。つまりはエルフリーデにとっては甥にあたる。イスラズールに嫁いだ後に生まれた子だから、前世を含めてもこれが初対面になるけれど。だからだろうか、紛れもなく近しい肉親のはずなのに、まったく懐かしいとか愛しいとかは思わない。油断のならない他国の人、という印象のままだ。
(そうよ。私は私──マルディバルのアンナリーザ。前世の縁に絆されたりしないのよ)
少なくとも、企みを持って今世の家族に近づいて来る者たちには。「大国の王子様」を前に目の色を変えない娘もいるということを、ディートハルトには気付かれぬよう、せいぜい浮ついた言動を心がけることにしよう。




