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『至高のおっぱいとは、誰のおっぱいか』
うーむ、難しい問いである。
しかしそんな命題に対し、私――大島菜津はこう即答する。
それはすなわち、ミケランジェロのダビデ像のおっぱいである、と。
私が、彼――ミケランジェロのダビデ像を初めて見たのは、小学校六年生の時、生まれて初めての海外旅行で、イタリアのヴェネツィアに家族で行った時のことだった。
ヴェネツィアにせっかく来たのだから、有名なダビデ像はぜひ見ておきたい。
そんな美術館めぐりが趣味の母の要望もあり、私達家族はカラッと乾いたヴェネツィアの夏の炎天下の中、小一時間行列に並び、ようやくアカデミア美術館の中に展示されてあるダビデ像の前に立った。
ダビデ像を初めて見た、十二歳の私の感想は、一言、
『デカッ』
……だった。
彼の股の付け根についているソレは、一般的に全身の比率と比べればショートサイズと言われることが多い。
しかし、彼の全長は六メートルである。自分の顔ほどの大きさもあるソレを、当時思春期が始まったばかりだった私は直視できず、思わず視線を上へとそらしてしまった。
そうして、私の視界に飛び込んできたのは、彼の引き締まった見事なおっぱいだった。
運慶・快慶作の金剛力士像に見られる、ガシッ、ミシッとした肉感バリバリの屈強なレスラーのような高インパクトなおっぱいでもなく、ヴェルベデーレのアポロン像に見られるような高潔さを感じさせる控えめおっぱいでもなく、――周囲の筋肉と調和しつつも、確かな存在感を放つダビデ様のおっぱいに……その時の私は思わず目を奪われ続けてしまったのだ。
それからというもの、私は親に隠れて、ネットでダビデ様の画像を漁り、彼のおっぱいをひたすら模写し続けた。
最初の私の模写は、平らな上半身に丸い乳首が描かれているだけという、あまりに粗末なおっぱい画だった。描いても描いても、あの素晴らしいダビデ様のおっぱいを描いたとは恥ずかしくて到底言えない、不出来なおっぱいしか描けなかった。
自分のあまりの不甲斐なさに、私は悔し涙を流した。
いつかヴェネツィアで見た、あのダビデ様の崇高なおっぱいを描くには、もっとちゃんと描画技術の勉強をしないとダメなんだ。……そう確信した私は中学に進学した後、美術部に入ることに決めたのである。
中学の美術室には、ご存知のとおり石膏の胸像がある。
私の通っていた中学には、ダビデ様はいなかったけれど、代わりにアポロン様がいた。
ちなみに、アポロン様のおっぱいはあまり私の好みではなかったけれど、他の美術部女子達はダビデ様よりもアポロン様のおっぱいの方が好きのようだった。手に入らない遠くの男よりも、手に入る近場の男というわけである。……違うか。
指導をしてくれる先生、全方向からおっぱいを描かせてくれる控えめイケメンのアポロン様、そして男性のおっぱいについて熱く語り合える友を得た私は、ぐんぐんとドローイングの技術を上達させていった。
中学三年間、私の青春はひたすら男性のおっぱいを描き続けた青春だったといっても過言ではない。
私はそんな青春に一片の悔いもなかった。
……ごめんなさい、嘘をつきました。
本当は恋愛だって興味がなかったわけじゃなかった。
気になっていた男子だっていた。
けれど、石膏像のおっぱいを描くのに夢中になっている美術部女子なんて、男子からモテるわけがなかったのだ。
卒業式の日、私は美術部の後輩達から卒業祝いだと言われて、男性の胸像写真ばかりが載った彫刻集をプレゼントされた。
『高校に行っても、男性のおっぱいを描くのが大好きな、優しくて面白い先輩でいてください』
後輩達は満面の笑顔で言った。
私は家に帰って、涙で枕を濡らした。
高校ではもっとお洒落をして、同性との会話で鉄板ネタとして使っている男性のおっぱい話を封印し、もっとキラキラした高校生活を送ってやるんだ。
その時、私はそう心に固く誓ったのだ。
とはいえ、好きなものというのはそう簡単には変えられない。
私のおっぱい好きも、高校に進学したところで変わるわけもなかった。
変わったことと言えば、おっぱいを描くのが異常に上手い美術部のエースから、デッサンがすごく上手い美術部のルーキーと呼ばれるようになったこと、……それから、ダビデ様のおっぱいの他に、どうしても描いてみたいおっぱいが私の目の前に現れたことだ。
野球部の敷島くんのおっぱい。
それが、そのおっぱいの名前だった。