チロ。
幼い頃、ずっと一緒に育ってきた犬のチロが死んでしまった。あの時の私は悲しくて寂しくて、毎日のように泣いていたのを覚えてる。
そんなある日、隣の家に一組の家族が越して来た。お父さんとお母さんと三人の子供、そんな家族。
彼らが我が家に挨拶に来た時、私は恥ずかしくてずっとお母さんの後ろに隠れていた。でもふと顔を上げた瞬間、私と同じようにお母さんの後ろに隠れていた小さな男の子に目を奪われた。
フワリと揺れる長めの髪が光に透けて茶色く見えて、それがまるで死んだチロの、あの柔らかい毛のように思えて…。
――きっとチロが人間の男の子になって戻って来たんだ…!
そんな事ある筈もないのに、幼かった私は、それを信じて疑わなかった。
「歩美、今日早く帰って来なさいよ。」
金曜の朝。朝食を取る私に、キッチンに立っていたお母さんがそう声を掛けた。
「何で?」
「春菜ちゃんの結婚が決まったんですって。それで今夜はそのお祝いをするからって、晃子さんからお誘いを受けたのよ。」
「ハルちゃんが?え…でも……。」
私は顔を俯けると、持っていたお箸でウインナーを突き始めた。
私の家――鈴木家とお隣の沢田家は、彼らが引っ越して来たあの日から、ずっと家族ぐるみのお付き合いをしてきた。夏休みには海に行ったり、冬休みには温泉に泊まったり…一緒に旅行することも稀ではなかった。
小さい頃の私は、一人っ子で兄弟がいないというのもあり、彼らと過ごす時間を何よりも楽しみにしていた。
結婚するというハルちゃんと、お隣のおじちゃんと晃子おばちゃんは、いつも私に優しかったし、ハルちゃんより二つ年下のシュウちゃんは、たまに意地悪もしたけど、私達と一緒に遊んでくれた。
そして私より一歳年下のチロ。ハルちゃんやシュウちゃんと少し年が離れてる所為か、いつだって私の後についてきて、それが本当に犬のチロのようで嬉しくて、私はいつもチロの手を引いてそこら中を走り回っていた。
彼には『タケル』というちゃんとした名前があるけれど、私の中ではいつだってチロはチロだった。チロも私に『チロ』と呼ばれる度、嬉しそうな笑顔を私に向けていた。
でもそれはずっと昔の事。
ハルちゃんはかなり前から一人暮らしをしていて、全然会っていなかったし、シュウちゃんとだって、シュウちゃんが高校生になった頃からほとんど口をきかなくなった。
チロは今年から私と同じ中学に通い始めたけれど、年下の男子と話すのが恥ずかしいのもあって、私はチロと会っても挨拶もせずに、顔を背けるようになっていた。
お母さん達は相変わらず仲良くしてるみたいだけど、私にしてみればもう他人でしかない家族。そんな家に私が行ったって…。
「…いいよ、私は。お母さん達だけで行って来れば?」
私がそう言うと
「何言ってるの?!おめでたい事なんだから歩美もちゃんと行くのよ?」
と、お母さんがジロリと私を睨んだ。
その日の夜、私はお母さんに連れられて、渋々お隣の家に足を踏み入れた。出迎えてくれたおばちゃんに
「今晩は。」
と挨拶だけしてリビングに向かうと、そこにはすっかり大人になったハルちゃんがいて、自分のお祝いの為に作られた料理をせっせと運んでいる所だった。
「まあ春菜ちゃん、すっかり綺麗になって。ご結婚本当におめでとう。」
「あ、おばさん。ありがとうございます。わざわざいらして頂いて、申し訳ありません。」
「そんな、こちらこそお招き頂いちゃって。それにしても春菜ちゃん、本当に素敵なお嬢さんになったわねえ。それに比べてうちの歩美は…。ほら歩美、春菜ちゃんにお祝いの言葉は?」
「…おめでとうございます。」
お母さんに急かされてお祝いを言った私に、ハルちゃんは
「ありがとう、アユちゃん。久しぶりね。」
と、昔と変わらない優しい笑顔を私に向けてくれた。
みんながお祝いの準備をする中、私は一人でリビングの椅子に座り、ハルちゃんが用意してくれたジュースに口を付けていた。
「歩美も手伝いなさい!」
とお母さんは言ったけれど
「いいのよ、アユちゃんはお客様なんだから。」
とハルちゃんとおばちゃんが言ったので、そうする事にした。
暫くすると、二階から誰かが降りてくる足音が、私の耳に聞こえてきた。その人はリビングに入って来ると
「お、アユ。久しぶりだな。」
と言って、私の頭をポンッと叩いた。
「…シュウちゃん?」
そこにいたのは、小さい頃のやんちゃな顔でもなく、高校生の頃の苛ついたような顔でもない、私の知らない笑顔をしたシュウちゃんだった。
大学生になって家を出たシュウちゃんと会うのは二年ぶりだった。その間に、シュウちゃんはまるで違う人みたいな顔をするようになっていた。髪の毛が茶色くなったとかそういう事じゃなくて、多分それは、シュウちゃんの心の中の変化。…やっぱり二年も経てば、人って変わるものなんだ…。
見た事のない男の人のようなシュウちゃんに戸惑いを覚えて、私は何も言えずにグラスに口を付けた。その時
「あ、アユちゃん。」
と、シュウちゃんの後ろから私を呼ぶ別の声が聞こえてきて、私はピクリと肩を揺らし、体ごとその声とは逆の方向に顔を向けた。
「何?お前達、ケンカでもしてんの?」
そんな私に気付いたシュウちゃんが、私と声の主――チロを交互に見たのがわかって、私は視線を逸らしたまま
「…別に。」
と、小さく呟いた。
実際、私とチロはケンカなんかしていなかった。勿論チロが何か悪い事をした訳でもないし、私がチロに何かした訳でもなかった。ただ、なんとなく。なんとなく昔と…子供の頃と変わってしまっただけだった。
でもチロはきっと変わっていないと思う。あのフワリと茶色に透ける髪は短くなってあの頃の面影は大分薄れたけれど、でも中身はきっとあの頃のままだ。
いつも私が視線を逸らすから会話は滅多にしないけれど、私と顔を合わせた時のチロの目は、いつも昔と同じだった。あの頃と同じ、ひたすら真っ直ぐに私を見る目。その目が何故か嫌で、私はずっとチロを避けていた。だから変わったのは私で、チロではない…。
食事が始まると、仕事を終えたお父さん達も合流して、場はさらに賑やかになった。もう成人しているからと、みんなとお酒を飲みながら話しているハルちゃんとシュウちゃん。お酒は飲めないのに、自然にその場に溶け込んでいるチロ。
私だけがその輪に入れなくて、なんだか抜け者にされている気分だった。たまに話を振られて言葉を返したりしたけれど、全然楽しくなかった。…ハルちゃんのお祝いだとお母さんに無理矢理連れて来られなければ、こんな所にいないのに。
「お母さん、先に帰ってもいい?」
みんなに聞こえないような声でお母さんにそう言うと
「何言ってるの。せっかくのおめでたい席なんだから、あなたもここにいなさい。」
と、お母さんが大きな声を出した。
「まあ、おばさん。アユちゃん今日も学校だったんだし、きっと疲れたんですよ。ね、アユちゃん?」
お母さんを宥めるように間に割って入ったハルちゃんが、そう言って私を見てにっこりと笑った。別に疲れている訳じゃないけれどそれでこの場から解放されるのなら…と、ハルちゃんの言葉にコクンと頷いた私に
「じゃあ家まで送るね。」
とハルちゃんが声を掛ける。
「…いいよ、隣だし。それにハルちゃん今日の主役なんだから。」
とハルちゃんの申し出を断り、お母さんが渋々差し出した家の鍵を受け取ると、私はハルちゃん達にペコリと小さく頭を下げて、一人で玄関から外に出た。
夕方雨が降っていた夏の始まりの夜の空気が、私を更に不快な気分にさせた。沢田家のリビングはクーラーが付いていて涼しかったけれど、きっと私の家の中はジメジメと蒸し暑いのだろう。
家に帰ってもやる事はない。見たいテレビも別にない。そんな状況で一人で家にいるのはつまらないけれど、だからと言って沢田家に戻る気にもなれない。
――…コンビニでも行こうかな。
コンビニなら涼しいし、暇潰しになる物もいっぱいある。夜のコンビニは危ないからと一人で行かせてもらった事はまだないけど、あの様子じゃお父さんもお母さんも暫く帰って来なそうだし、少し居る位ならきっとばれないだろう。
そう思い立って、私は家に向けようとしていた足を逆に進めた。なんだか悪い事をしているみたいでちょっとドキドキした。でもそのドキドキが、妙に楽しかった。
「アユちゃん!」
少し足を進めた所で名前を呼ばれ、私はビクッと肩を震わせて恐る恐る後ろを向いた。
「…チロ。」
チロは私に追い付くと
「その名前、久しぶり。」
と言い、昔と全く変わらない笑顔で嬉しそうに笑った。
「…何しに来たの?」
「何って、アユちゃんを送りに来たんだよ。」
「家隣なんだから、帰っていいよ。」
「でもアユちゃん、家に帰ろうとしてないよね。」
…そんな事、わざわざチロに言う必要なんてない。私は顔を覗き込むチロを無視して、再びコンビニに向かって歩き始めた。その後をチロが
「ねえ、何処行くの?」
と言いながら追い掛けて来る。
昔はそんなチロが可愛くて仕方がなかった。まるで本当の犬のように、私の後を追い掛けるチロが。でも今は可愛いなんて思う事は出来ない。それどころか、ただ邪魔なだけだ。
「ねえ、何処行くの?」
何度もそう繰り返すチロに苛立ちを覚え、私は立ち止まって
「ついて来ないでよ!」
と、彼に言い放った。でも彼は怯むこともなく
「どうして?」
と、私の目を見つめている。
「…どうしてって、邪魔だからに決まってるでしょ…!」
「でも一人じゃ危ないよ。」
「子供じゃないんだから放っておいてよ!」
「え、子供でしょ?だってまだ中学生だよ。」
チロの言葉に、私はうっと言い淀んだ。チロの言った事は正論だったから。
確かに私達はまだ中学生で、義務教育の真っ只中だ。自分でお金を稼ぐ事も出来ず、守られながら生きている。一人の大人として認められて、自分の思うがままにする事を許されたハルちゃんやシュウちゃんとは違うんだ。
でも子供だとも思わなかった。だって私も昔みたいに親の言う事にただ従うだけではなく、自分の事は自分で決められるようになったんだから。自分の意志はしっかりとあるし、良い事と悪い事の区別だってつく。なのにいつまでも子供扱いされて、それが無性に苛立たしくて…。
「…私はあんたとは違うの。」
そう言って、私は再びそこから歩き出した。その後を
「アユちゃん待って!」
と、チロが追い掛けて来る。
「煩いなあ!放っておいてよ!」
「駄目だよ!だって危ないもん。アユちゃん、女の子なんだよ?!」
突然チロがギュッと私の手を握った。それに驚いて振り返りチロの顔を見ると、チロもひたすら真っ直ぐに私の顔を見つめていた。
昔は小さかったチロの身長は私よりも高くなっていて、しかも肌が触れそうな程私のすぐ側にいる。そんな位置から男子に見られた事がなかった所為か、私はカアッと顔に血を上らせて
「離してよ!」
と、チロの手を振り解こうとした。でもその手は離れる事はなく、それどころか更に力を増してくる。
「チロ…!」
「嫌だ、離さない。だって離したら、アユちゃん、一人で何処か行っちゃうでしょ?そんなの駄目だから、おれも一緒に行く。」
いつの間にこんなに力が強くなっていたんだろう。それにこの前まで自分の事を『ぼく』と言っていたのに、知らないうちに『おれ』に変わってるし…。
「わかったから…!何処にも行かないから、手、離して!」
そう私は言ったけれど、チロは信じていないのか全く手を離そうとしなかった。
「…どうして私の後について来るの?もう昔とは違うんだよ?」
手を離してもらう事を半分諦め、私はチロから視線を逸らしてそう訊ねた。
「チロだって……本当は『チロ』って呼ばれるのも嫌なんでしょ?前にそう言ってたもんね。…そりゃあそうだよね。死んだ犬の名前なんだし、それに…」
「いいよ『チロ』で。」
「…え?」
チロの言葉に、私は逸らしていた視線をチロに戻した。
「何言ってるの?自分が嫌だって言ったくせに。」
「うん。でも『チロ』でいたら、アユちゃんの近くにいられるでしょう?だから今は…まだ『チロ』でいいよ。」
「……馬鹿じゃないの?」
「うん。」
ため息混じりの私の声を聞いても、チロはニコニコと笑っていた。昔と全く変わらない笑顔で。
でも繋がれたその手は大人になろうとしている『男子』のもので、そのギャップに妙に落ち着かなくなって、心臓がドキドキと大きな音をたてて鼓動し始めた。
「で、アユちゃん、何処に行くの?」
「…もういい。帰る。」
「え?帰るの?」
「そう言ってるでしょ!」
「…別に怒らなくても。」
チロは小さな声でそう呟くと、再びニッコリと笑い
「うん。じゃあ帰ろう。」
と、私の手を引いて歩き出した。
昔と立場が逆転したみたいでちょっと悔しかったけれど、何故か手を離す気にはなれなかった。そんな私の気持ちをチロに気付かれるんじゃないかとドキドキしながら、私はそのままチロに手を引かれて、帰り道をゆっくりと歩いた。
〜End〜