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ドリスさんの事件の二日後、昼食の後しばらくしてから部屋に近衛兵が入ってきた。この二日間、食事が運ばれてくるだけで、レイチェルさんとの面会もなく、囮のため一人で散策していた日課も無くなってしまい、特に何もすることがなくなってしまった。ただただ部屋で読書をして居るだけだったので少しだけ驚く。レイチェルさんとに面会が許可されたのかと思えば、どうやらそうではないらしい。ならば一体なにを通達しにきたのかと彼が口を開くのを待つが、目の前の近衛兵はどこか居心地が悪そうだ。こんな近衛兵の態度は初めてなので私も対処の仕方に困ってしまう。私の前での彼は、凍りつきそうなほどの冷たい雰囲気を放ちながら、私を軽蔑するような表情か、もしくは不機嫌そうにしていることしか見たことがない。困りながら大人しく待って居ると、何故か私から目を逸らしながら近衛兵が口を開いた。
「……何をしていた」
「……えっと……とくに何もしていません……」
近衛兵の手元にいつも持っている書面類がないことで何か通達にきたわけではないのだと察することができた。それならば一体、なぜ? と考えても答えは出ない。近衛兵の目は相変わらず泳いで居たが、ある一点に定まった。
「……それはなんだ」
クリスフォードさんが「それ」と言って視線を送るのは、私が先ほどまで読みかけていた本だ。「これは本です」と答えたところで彼の望む返答ではないところか、バカにして居るのかと言われそうだ。こんな近衛兵は初めてなので戸惑いはするが、いつもの絶対零度な態度や不機嫌な様子よりマシなのは言うまでもないので、怒らせないように恐る恐る、できるだけ問われている物を形容して答える。
「……これは、先日レイチェルさんに面白いと聞いて、こちらの図書室でお借りした小説です……」
これで正しかったのだろうかと、近衛兵を窺い見ていると、彼は「そうか」と言った後、「どこまで読んだ?」と聞いてきた。
この本の内容は、一人の女性冒険者をモチーフに作られたファンタジー小説だ。レイチェルさんに勧められて読んだら、とても面白くて私ものめり込んでしまった。
いったいなぜ、私がこの本をどこまで読んでいるのかを聞かれて居るか全くもって分からないが、正直に「もうすぐ読み終わります」と答えると、なぜか少し弾んだ声で「そうか」と返される。そして、近衛兵は一つ咳払いをしたのちに落ち着いた声で話し始めた。
「……ならば、図書室に連れていってやろう。公爵令嬢に面会が叶うまであと二日はかかるだろうからな。それまでの期間に読むものを借りると良い」
「……良いのですか?」
「あぁ。許可は取ってある。さぁ、行くぞ」
「あ、ありがとうございます……」
正直、この苦手な近衛兵と少しでも長い時間を過ごすことは遠慮したい。一緒に図書室に行くなど言語道断だ。でも、これから二日の間、本なしで過ごすこともつらい。ユリウスや母さんのことを思い出して切ない気持ちになるし、何もすることがないと言うことは多少なりとも精神を追い詰めてしまうと思う。
どちらが辛いか頭の中でしっかりと天秤にかけた後、私は素直にお礼を言って、近衛兵と図書室に向かうためササッと身支度をした。部屋の扉を開けて、エスコートのようなものをされたときには驚いて昼食を吐いてしまうかと思ったが、近衛兵はさして気に留めて居る様子もなかった。
図書室まで向かう間、近衛兵の後ろを付いて行こうとしたら、彼が少し止まって歩調を合わせてくる。私は、さらに遅く歩いてなるべく後ろを歩こうと努力して居ると、彼の足がピタっと止まった。地面を見ていた目線をあげると、不機嫌そうに片眉を釣り上げるクリスフォードさんと目が合う。
「……何をしている?」
言葉は理解できても、質問の意味が分からない。言い淀んでいる私に、彼はさらに続けた。
「怪我でもしているのか?」
「い、いいえ。健康です」
「……では、なぜそんなに遅いんだ」
「……も、申し訳ありません……」
「なぜ、謝る」
「……不快な思いをさせてしまったかと思ったので……」
恐る恐るそう答える私を見ているクリスフォードさんの眉間にはしわが寄っていた。
「――気になっただけだ。不快ではない。どこも怪我をしていないのならいい」
「……あ、はい……あ、ありがとうございます」
再び歩き出した近衛兵が明らかに私と同じスピードを取ろうとしていることで、後ろではなく隣で歩くことが正解なのかと思い、様子を伺いながら歩調を合わせてみる。すると今度は止まることがなかったので、どうやら正解だったようだ。今まで近衛兵に連れられながらレイチェルさんのところへ向かうときは、彼の後ろを歩いていた。私の後ろには当然他の兵士が居たが、今は居ないので後ろを歩かれると視界から外れてしまうのだろうと推察した。
こっそり安堵のため息をつくと、大好きな香りが鼻をかすめる。図書室に向かう際に通る庭園から香る花の香りが私は大好きだった。手入れが隅々まで行き通った庭園はこの世の楽園みたいで、何度見ても思わず視線が奪われる。何度通っても綺麗な庭園だと感心するし、自分がここをあと何度通れるのかと考え、後悔がないように目に焼き付けようとした。
「――花が好きなのか」
自然と遅くなった歩調にしっかりと合わせてくれていた近衛兵にそう聞かれて、戸惑いながらも「はい、好きです」と答えると、彼はなぜか驚いたあと気まずそうに俯いてしまった。何かまずいことをしてしまったのかと考えていると、彼が話を振ってくる。
「――どんな花が好きなんだ」
まさか好きな花の種類を、この近衛兵に聞かれるとは夢にも思っていなかったので、今度は私が驚いてしまった。私の好きなものなど何故聞く必要があるのだろうと考えながら、思いっきり表情にでしまっていたからか、彼はまたどこか居心地が悪いような表情を重ねた。
「――えっと、白いマーガリオンが好きです」
「……そうか……」
当然ながら、「クリスフォード様は、どんな花が好きですか?」などと尋ねる勇気は持ち合わせていないので、会話が途絶えたことを良いことに視線を庭園へと再び戻した。
そうしているうちに図書室へとつき、読んでいた小説の続きを数冊借りて、きた時と同じように近衛兵の隣を歩きながら部屋へと戻った。
本を借りた際に「貸せ」と言われて書物が奪われた際は、本当に意味がわからなかったが部屋の前で返してくれたことで持ってくれていたのだということに気づいた。一瞬だけ、これは近衛兵の嫌がらせなのかと考えてしまったことを、心の中でこっそりと詫びた。
この人はきっと言葉が足りない人なのだろうということが今日分かった。
図書室に行って本を借りただけなのに、それ以上の疲労感があった。部屋に入ってから、思わず安堵の深いため息が出る。本を借りるため仕方ない出来事だったとはいえ、正直もう2度とごめんだと思いながら、ベットに腰掛けた。
私は、罪に向き合う準備はもうできている。ユリウスのことは心残りだが、今の私が弟にしてあげられることは少ないだろうし負担になるかもしれない。愛する弟の足かせとなるぐらいであれば、潔く罪を償って消えてしまうことのほうがよっぽど良い。
レイチェルさんがなんと言おうと、私はもう十分すぎるぐらい幸せをもらった。
今読んでいる小説の主人公の女冒険家みたいに自由に世界を飛び回りたいと思わないわけではない。ただ、私の運命がこうだったのだから仕方がないのだろう。そう思いながら諦めの笑みを浮かべた。
私はもう誰も傷つけたくないし、私も傷つきたくない。
生きることに疲れた。
母さんを病で亡くし、愛する弟がいる、五体満足の健康な娘の言うべき言葉じゃないということは分かっている。ただ、レイチェルさんからユリウスも元気で過ごせていると聞けたし、ドリスさんとのことも終わった。全てを思い出して、自分のやるべきことも終わったように思えると、これまでの疲労感が体と心を埋め尽くした。
自分で命を絶つなんていう、母さんへの裏切り行為はとてもできそうにないが、この先一人で生きていく目処も立たない。未来を考えることも疲れてしまった。誰でも良いから、なんでも良いからキッカケが欲しかった。
それが私にとって罪を償うという決心に至った本心だ。もちろん自分がタナカヒトミさんを止められなかったことも悔いている。しかしながら、六割、いや八割の本心は酷いエゴイズムからくる決心だった。
私は自嘲しながら、読みかけていた本を開く。
次に生まれてくるときは、この本の女主人公のような人生を歩みたいなと憧れの気持ちを抱きながら文章に目を通していくのだった。




