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私が記憶取り戻してから数日後。
私はレイチェルさんの話し相手という日課の他に、以前にはなかった日課ができた。それは、遠方で監視されながらの一人での行動だ。当然だが魔法具はつけたままで、許可が出ている場所も決まっている。図書室と、白い部屋から一番近い庭園、そして庭園に隣接しているティールームのみ、私が一人で行動できる範囲内だ。
一人で行動する際は常に遠方からの監視、そして音声を記録する魔法具を追加でつけられている。
なぜこんな行動を取って居るかというと、ある人物を油断させ誘き寄せるためだ。つまりは公式に認められ囮になっている状態なのだ。
囮になってから特にこれといった成果がなく内心少し焦りがでいた頃だった。
その日もレイチェルさんとの面会のあと、私は一人の行動時間を持ち、図書室で本を選んだ後、いつも寄って居るティールームへと立ち寄った。一時間ほどお茶を飲みながら本を良いところまで読み進めてから、そっと本を閉じてテーブルに置いたまま庭へと出た。
庭には王室自慢の青薔薇と共に様々な植物が色とりどりに管理されている。大きく息を吸い込むと、とてもいい香りが肺いっぱいに広がり心が豊かになる気さえする。
ゆっくりと庭園を歩いていると、後方で人の気配と共にかすかな音がした。
私は息を飲み、とうとう来たるべき時が来たのだと気を引き締めながら、足を止めた。
「――――エレーナ様……」
緊張で震える息を飲み込みながらゆっくりと振り返ると、あの日見かけた兵士がそこに居た。ここ数日、私が囮となっておびき寄せたかった存在だ。兵士は私に近づくと、私の手を握った。
「あぁ……やはり、生きておられたのですね……」
私の前に跪いて、私の手の甲を額に当てる兵士の声は震えている。
「エレーナ様にこの紋章の力を頂いて以来、私はあなたと交わした約束のことのみを考えてきました……貴方にお会いするまで、私の紋章の価値はないものに等しいものでした。紋章を写し取る力など、この世の誰にも必要とされず、忌み嫌われ蔑まれ、貴族の中でも爪弾きにされて居た私を、エレーナ様だけが救ってくれたのです。エレーナ様を救えず守りきれなかった我が身をどれほど呪ったか分かりません……さぁ、いまこそ貴方様の願いを私が叶えてみせます。どうぞ何なりとお申し付けください」
恭しくこうべを垂れる兵士に、私はできるだけ落ち着きを保ちながら同じ目線にしゃがみこんで目を合わせようとした。兵士は驚愕したように唖然とこちらを見て居る。
「名前は……お名前はなんというのですか?」
私の言葉の意味や態度が理解できないとでもいうように目をパチパチとさせながら唖然として居た兵士が、しばらくして唾を飲み込んだ後に「ドリス・カインです」と答えた。
「……そう、ドリスさんというのですね」
「そんな! さんなんて、やめてください! どうぞそのまま呼び捨ててください」
私は苦笑いをこぼしながら、首を横に振った。
「いいえ、私はドリスさんとお呼びしたいのです」
「……そんなっ……いえ、いまはそれよりもエレーナ様にお伝えしなけらばならないことがあります。私が頂いたこの紋章の力、私が男であるためかなかなか馴染まないのです……力を自由に使える時間もあまり長くないように感じます。どうか、私が貴方様の手足となれるうちの間にご命令をください」
「――ドリスさん……もう良いのです」
兵士は唖然とした後に信じられないといった表情を刻んだ。
「……貴方も私も、もう解放されましょう。誰かのために自由を無くさなくても良いのです。どうか貴方のためだけに生きてください」
「――わ、私を捨てられるのですか……?」
「……! 違います! そうではなく、約束はもうよいと言っているのです。私はもう、私のせいで誰にも傷ついて欲しくないのです。だから、もうやめてください。約束はもういいのです」
ドリスさんはさっきと変わらない唖然とした表情で私の意思を確かめるようにこちらを見て居た。まるでドリスさんの周りだけ時が止まったようにも見える光景だった。
「――私もようやく自分が進むべき道が見えました。自分が犯してしまった罪と向き合い生きていこうと思います。私のせいで職を無くされたドリスさんには申し訳ないと思ってます。だからこそ、もう私のために何かしていただかなくてもいいのです。ドリスさんはドリスさんだけのために生きて欲しいのです」
言いたいことを言ったはいいものの、うまく伝わったか自信はない。ドリスさんの反応が全くないので心に焦りが生まれ始める。どうかこの人に、これ以上過ちを犯して欲しくないし、何よりもレイチェルさんを守らないとという強い思いが、ジリジリと不安を煽っていた。
しばらく何の反応も示さなかったドリスさんが、ゆっくりと俯いていき少し間を置いてからボソっと呟いた。
「……やはり、私はいらない存在なのですね……誰からも必要とされない……生まれて来たことが間違いだった……生まれてこなければよかった……エレーナ様だけが私を認めてくださった……エレーナ様だけが私に期待してくださった……なのに……」
私の言いたいことは何一つ伝わっていないのだと理解して、慌ててドリスさんに話そうとした時、ドリスさんが勢いよく顔上げたと思えば、彼の目が先ほどとは180度違うものになっていた。
「……お前は誰だ……私を必要としてくださったエレーナ様をどこへやった!」
ドリスさんの急変ぶりに、思わず息を飲み込む。
「……お前は、エレーナ様じゃないな?……エレーナ様は私を必要としてくださったんだ! 約束まで交わしたのだ! お前は一体誰だっ! エレーナ様をどこにやった!?」
驚きから何も言えずに居る間、ドリスさんはどんどんヒートアップしていき、怒鳴りながら私に飛びかかると私を芝生の上に押し倒し馬乗りになってから私の首を絞めて来た。
「言えっ! エレーナ様はどこだっ!? お前が殺したのか!? 言えっ! はやくっ!」
言えと言う割には、首を拘束する力はとても強く返事どころか息も吸えそうにない。拘束の力はどんどん強くなっていき、そろそろ意識が朦朧とし始めたとき、ドカッと大きな音とともに私の上に乗って居たドリスさんが斜め左へと吹っ飛んだ。
反射で大きく息を取り込むと同時に噎せて大きな咳が出る。しばらく芝に寝転んだまま咳が止まるのを背を丸める。ようやく落ち着いて来た頃、近衛兵が寝転ぶ私を支えながら起こした。どうやら、クリスフォードさんによって私は助けられたのだと理解したとき、彼の口から信じられない言葉が出た。
「連れて行け」
近衛兵は、その場にいた他の兵士にドリスさんを拘束させて捕まえようとしたのだ。
「……っ! 待ってください!」
思いっきり叫んでまた咳がでた私を怪訝な顔で見ながら、近衛兵は「なんだ」と一言だけで返した。
「その方を、どうされるのですか? まだ彼は何もしていません!」
「……何を言っている? いまあいつに首を絞められていただろう」
全く理解できない、頭がおかしいのかという表情で私を見てくる近衛兵に、必死で食らいつく。
「いえ、何もしてません。私は、罪人です。罪人の首を少し絞めたからと言って罪にはならないでしょう? だから、ドリスさんはまだ何もしていません」
苦手な近衛兵のシルバーの瞳を強くしっかり見て答える私に、彼は片眉のみを吊り上げた。思えば、こうやって面と向かって自分の意見を彼にぶつけたのは初めてだった。
「……彼は無断で王城に侵入した。俺の記憶が正しければこいつはもう王城には勤めていない兵のはずだ。これは罪にならんか?」
冷たさの中に静かな怒りの炎が見える近衛兵に、私は意を決してただ座っていた体勢から膝をつくものへと変えた。
「……何のつもりだ」
「――私が彼に命令したからです。彼は拒める立場にはありませんでした。どうか彼の罪は私に償わせてください。どうか、お願いします!」
近衛兵は、目を強く見つめながら必死に頼み込む私を、相変わらず怪訝そうに見つめ返す。私がわがままを言いだしたからか、だんだんと彼が目に見えて不機嫌になっていくことが分かった。それでも必死になって頼み込む私に、彼は眉間に手を当てながら、長い息を吐き出した。
「……まず一つ。お前は現在、お願いとやらを言える立場ではない。そして、俺もそれを聞く義務もなければ理由もない。以上を踏まえて却下だ」
「……っ! そんなっ!」
もはや不機嫌を隠そうともしない近衛兵は、思わず涙ぐみさらに縋ろうとする私を面倒だと言いたげに見た。もうこの冷たい目には嫌というほど慣れて居る。
「――エレーナ様……申し訳ありませんでした……大丈夫です……もう、私のことは……っ」
いつの間にか落ち着きを取り戻していたドリスさんが涙を流しながら私を見ていた。そんなドリスさんを見て、なお放っておけないと思い、私は意思をさらに凝固して近衛兵を見つめた。そんな私を見て、さらに不機嫌になった近衛兵はもう不機嫌を通り越して誰が見ても怒っていると言えるだろうという態度だった。
「……まったく、なんという茶番だ。くだらん。さっさと連れて行け!」
「そんなっ! 待って! お願いしますっ! どうかっ!」
「何をしている! さっさと、連れて行けっ!」
近衛兵が強く怒鳴ったことで、ドリスさんを拘束していた兵士がいそいそと彼を連行しようとする。
「エレーナ様っ! 本当に申し訳ありませんでしたっ! 私はエレーナ様に会えて幸せにございましたっ! どうかっ、どうかお幸せにお過ごしくださいっ! エレーナ様っ!」
「待って! ドリスさんっ! 待って!」
兵によって連行されながら、ドリスさんは涙をボロボロと流し大きな声で私に叫んでいた。その姿は痛々しいものだったが、なぜか彼の表情は憑き物が取れたように晴れ晴れとしていたように見えた。
私は近衛兵の方に居直ると、両ほほに感じる涙を拭いもせず必死に続けた。
「私には、こんなことを言う権利も資格もないことは重々分かっています。ですがっ……! どうか、ドリスさんだけはっ!」
「だまれ。それ以上、俺の前でその男の名を出して見ろ。口を縫い付けるぞ」
この近衛兵に冷たく見られることも、ゴミのように見られることも、もう慣れていたつもりだった。だけと今までこんなに怒りに満ちた目で見られてことはなく、恐怖で体が硬直する。何も言えなくなってしまいそうだったが、ドリスさんの人生がかかって居ると思うと、果てしない力が体の底から湧いてくるようだった。
「――いいえ……黙りません」
「――なんだと?」
怒りに満ちた近衛兵の目をしっかりと見据える。いつもは冷たく落ち着いている銀色の瞳が、怒りでギラギラと輝いていた。震える息を飲み込んで、しっかりと目を見据える。
「黙らないと言ったのです」
「……」
「……貴方が私のことを軽蔑していることも、嫌っていることも分かっています。ですが、それと彼は無関係のはずです。貴方が思っている通り、私は最低な人間です。ですが、ドリスさんは違います。彼が王城に侵入した罪まで私が背負えないのであれば、せめてその他の罪は私に背負わせてください」
「……なぜそこまであの男を庇おうとする?」
「……彼はまだ何もしていないからです。私の命令で王城に侵入した罪以外は何もしていないからです」
「――首にそんな痕を残しても、あいつは何もしていないと……そういうことか?」
「もともと、私は被告人であり罪人です。レイチェル様の慈悲がなければ、既に処刑されているはずの身だと、貴方が教えてくださいました。表面上はレイチェル様の話し相手という客人だということは伺ってますが、それでも私が再審を待つ罪人であることに変わりはないはずです。そんな人間の首を少し絞めたからと言って、いったい何の罪になるのです? どうか、私への怒りを他の方にぶつけないでください。いつもの貴方らしい冷静な判断での処罰をお願いします……」
誰かを守るためであれば、心底恐怖している男性にここまで食らいつけるのだから、誰かを想うと言うことはとても大切なのだと改めて思った。
しっかりと目を見据えて言い終わった私を不機嫌そうに見たのち、クリスフォードさんは自分の頭をワシワシと乱した後、深いため息をついた。
「……別に、お前が嫌いだという理由であいつを捕まえたわけじゃない。……そもそも俺は……いや、あいつは理由はどうあれ城に無断で潜入した侵入者だ。だから捕まえた。それに、紋章の力のこともある」
「クリスフォードさんも聞いて居たと思いますが、ドリスさんが持つ力はもう長くはないそうです」
「……あぁ、聞いていた。あいつの紋章の力がはっきりとなくなるまで、こちらで管理できる空間にいてもらう」
「……そうですか……」
私が居るようなあの真っ白い空間に彼も閉じ込められるのかと思うと心が痛んだ。
「……被害者のお前がそれ以上望まないのであれば、お前の首を絞めたことは何も問わない。……だが、今後彼が復讐とやらを出来ないようこちらでしっかりと管理はさせてもらう。以上だ」
不満であることを隠そうともしないクリスフォードさんの姿に、これまで冷たい印象のみだった彼は意外にも感情豊かな人物なのだと理解できた。
私は、彼の最大の譲歩に、初めて笑顔でお礼を言うことができた。彼に笑顔を作れたのは初めてだったので、自分でも心底驚いていたし、クリスフォードさんも目がこぼれ落ちるぐらい驚いていた。そんなクリスフォードさんを見て、やはり彼は感情豊かな人なんだなと思いさらに笑みがこぼれたが、そんな私を見て、クリスフォードさんはまた不機嫌になってしまったのだった。
怯えて恐怖から一歩も進めなかった自分の殻を壊してみると、こんなに清々しい気持ちになれるのだと思いながら、また庭園の空気を肺いっぱいに取り込んだ。




