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エレーナ・ハイムことエリーが、表上レイチェルの話し相手として、実際は刑の再執行までのあいだの拘留として王城に滞在して数日が経過した。エリーは今日も、何もない白い部屋でいつものように軽く準備を整えて、苦手な男の訪れを待っていた。
洗面台に設置されている鏡を見て、自分におかしいところはないか確認し、絡まりやすい髪を櫛で軽くときながらベッドに座る。
レイチェルさんの話し相手として過ごせと言われた時は驚いて倒れてしまうかと思った。しかし、レイチェルさんが自分を信じてと言ったことを思い出し流れるままに身をまかせることにしたのだ。
突然、ドアが開かれいつものように男が入ってきた。
レイチェルさんによると、この男はクリスフォードという名のセドリック殿下付きの近衛兵らしい。
「準備はできているな? 行くぞ」
私は男に深く頭を下げることで返事をした。
レイチェルさんの話し相手になってからは、毎日決まった時間にクリスフォードさんが訪れ、私を連れてレイチェルさんの待つ部屋へと連れていかれた。
私の右腕には一見アクセサリーのような魔法器具が付けられており、レイチェルさんが待つ部屋に入る前に必ず器具の点検やボディーチェックを数名に散々され、許可が出てからレイチェルさんに会うことになるのだ。
初めは恐れ多い気持ちの方が勝っていたが、レイチェルさんは実の妹のように自分を可愛がってくれたので、会うたびにだんだんと心を開き、レイチェルさんを慕うようになった。
レイチェルさんに会うためなら、無機質な部屋での生活も少しだけ好きになれるような気さえしていた。話している間ずっと、自分をゴミのように見る近衛の存在だって、レイチェルさんとの時間を思えば耐えれた。
心残りはユリウスのことだが、その件もレイチェルさんから聞いて、彼女に任せれば大丈夫だと安心していた。
そんな風に日々を過ごし、その日もなんてことのない1日だと思っていた。
いつものように近衛が部屋に来て、私を連れてレイチェルさんの元へと向かう最中だった。
通りすがる庭園でとある兵士を見かけたのだ。その兵士は私を静かに見つめてから去っていった。
私の足は途端に地面に縫い付けられたように動かなくなり、全身からは急激に血の気が引いていく。
尋常ではない私の様子に近衛兵が声をかけるが、うまく返事ができない。
そしてそのまま私は意識を失った。
◇◇◇◇◇
目が覚めた白い部屋で私は全てを思い出した。
私が私でなくなってしまった13歳のあの日を……。
母を亡くしてから半年が経つかと言う日だった。
母が亡くなってから、私もユリウスも体調を崩して寝込みがちになっていたが、なんとかユリウスのため悲しみから目をそらし、気を持ち直す努力をしていた。
しかしその日の朝、目がさめるとあたりは真っ暗だった。
夜だとかの概念ではなく、ただただ真っ暗なのだ。真っ暗な世界に自分だけポツンと光っていた。恐怖のあまり涙が出たが、聞き慣れた自分の声がした。しかしその声は自分のものであったけど、自分ではない別の人のものとなっていた。
足にも力が入らず立つこともできない。
ただただ声だけがあたりに響き、聞きたくなくてもその声は自分の中に響いてしまう。
パニックを何度も起こしたが気を失うことはできなかった。それが私をより絶望に追い込んだ。
私は存在するのに、誰かが私として私の体を動かしているということを理解したのはしばらくしてようやく落ち着いたことだった。
タナカヒトミという女の人が私になって私として生きている。私は何度か彼女にコンタクトを試みたが、失敗に終わった。
タナカヒトミさんはなぜか私をヒロインだとか主人公だとかと言う存在だと思っているらしい。ゲームやシナリオっていうよく分からない単語もよく聞こえてきていた。
タナカヒトミさんは私の生まれた世界とは違う世界からやってきたのだと理解できた日には、私はユリウスと共にハイム子爵に連れられて養子としてハイム家に入っていた。子爵家に引き取られるまで過ごした親戚の家での思い出はほとんど思い出せない。
なんで私は生きているんだろうと何度も考えるたびに、タナカヒトミさんの言葉が脳内に響く。聞きたくなくて耳を塞いでみてもダイレクトに脳内に響いてしまうのだ。
(本当にチョロい! さすがバッドエンドなしのセドリックルート! これでこの第二王子は私のものね……はやくハピエン迎えて贅沢に暮らしたい! みんなに綺麗だって毎日言われて、旦那からも愛されて最高!)
(レイチェルも可愛らしい嫌がらせしてくるし、こんな楽な人生ってないわ! これでセドリックと婚約破棄なんて可哀想なレイチェル……あははははっ!)
(セドリックったら私に夢中ね……ふふふっ、当然よ。だって、私はこの世界のヒロインなんだもん! 男にちやほやされるって本当に気持ちいいし最高! キィキィうるさい女たちの顔面レベルよりはるかに可愛いから痛くも痒くないわ! むしろ可哀想……あはははっ)
(なんか最近レイチェルが大人しいわね……これと言った嫌がらせもないし……まあ、小さすぎて気づいてないだけかもね。元の世界のいじめからしたら、ここでのレイチェルの嫌がらせなんて屁みたいなもんだし! あぁ……はやく可哀想なレイチェルを拝みたいわ……!)
(最近、セドリックが上の空が多いわ……どうして……私が話しかけてあげてんのに……たかだか第二王子のくせにっ……大丈夫……このルートが一番安全なはずだし、バッドエンドなんてないはず……きっと何かの間違いよ……そうだわ!)
(私がヒロインなのよっ!? なんでセドリックがレイチェルを軟禁してるの!? どうしてよっ!……落ち着いて……このルートに少しバグが生じただけよ……現にセドリックはまだ私に会いに来てるし大丈夫よ……だってバッドエンドがないセドリックルートだもん! なんとかしなくちゃ……!)
(どうして魅了が効かないの!? おかしいじゃない! エレーナは触るだけで魅了ができるはずじゃないの!? なんでよっ! こんなことなら子爵の計画に乗るんじゃなかったっ!)
(私に逮捕状なんてありえないっ! 私が主人公なのよ!? 私がヒロインなのよ!? この世界の中心なのっ! なんでっ!なんでよっ!)
(レイチェルだっ……! あいつも私も一緒だったんだ!)
(許さない許さない許さない! 絶対に許さないっ! このままなんて絶対に終わらないっ! あの女だけ幸せなんてっ! そんなの絶対に許さないっ!)
(……この世界のヒロインは私なの……私なのよ?……正してあげなくちゃ……世界を元の正しい状態にしてあげなくちゃ……だって私が主人公でしょ?……バグは綺麗にしないとね……)
「やめてっ! お願いっ! レイチェルさんっ逃げてっ!」
手を伸ばしてガバッと起き上がった先には何もなかった。
嫌な汗が流れ続けていて、呼吸も荒れていた。息が整う頃に、ようやく幻だったことに気づき胸を撫で下ろした。いや、幻ではなく現実で起こったことを繰り返し夢で見ていたのだ。
私は、地獄のような世界からようやく抜け出せたのだ。
今こうして生きて自分の手足が自分の意思で動くことが奇跡のように思える。これまでの不安が消えたわけではないが、ようやく自分が何者であるか分かった。涙がとめどなく溢れてきて、それを手で拭うと手が濡れる。その感覚にさらに涙が溢れた。
あの暗闇の世界から出られた安堵感と、自分の体が自分に戻って来た喜びが全身を震わせた。あまりにも長い間絶望の中にいたので、覚えて居ることよりも覚えていないことの方が多い。聞きたくないもの見たくないものから目を逸らしたかったこともあったと思う。
私は、ベッドから起き上がり洗面台へと向かった。そこには私が成長した姿が写っていて、まるで別人のように思えていた昨日までの姿はなかった。
顔を洗い、濡れたタオルで汗を綺麗に拭き取りながら、考えをまとめていく。
私が全てを思い出すきっかけになったあの兵士を思い浮かべると、体がブルっと震えた。
牢でタナカヒトミさんが自殺を企てた瞬間は私もはっきりと覚えている。そのときは、私もようやく覚めない長い絶望から解放されると思い安堵すらしていた。死は恐ろしいものだったはずなのに、そのときの私には安らぎを与えてくれるものになっていたのだ。
あの兵士……あのときに私を見ていた兵士だった……それに、タナカヒトミさんが何度か会っていたとも思う。思い出そうとしても、思い出せない。暗く澱んだ世界の中で終末だけを望んでいたから、思い出せないことの方が多いのだ。
だが、あの兵士と楼で交わした会話だけはハッキリと覚えていた。
とにかく、早くレイチェルさんに伝えないと!
暗闇にいた時とは何もかもが違う。自分の体を自分で動かせられるし、何度叫んでも届かなかった自分の声を聞いてくれる人がいる。
私は準備を整えてから、はやる気持ちを抑え近衛兵の訪れを今か今かと待ちわびていた。




