24
目が覚めると、ここ数週間で見慣れた天井の壁画が目に入った。瞬きを数回繰り返してから、居心地の良いベッドから起き上がろうとすると、体に全く力が入らない。思わず淑女らしからぬ、うめき声が出てしまった。
「お、お嬢様っ! あぁ、意識が戻られたのですね! 良かったっ! す、すぐ、お医者様を呼んで参ります!」
一人だと思っていたが、広いベッドの傍にメアリーが居たようだ。メアリーは涙を浮かべながら私の手を握ると、ハッとしたように医者を呼びに部屋から出ていった。
やがて、メアリーがパタパタと音を立てながら戻ってきたと思うと、直ぐ後に白い髭を蓄えた年配の医者が入室してくる。医者は私に幾つか質問しながら体調を診終わると、一つ頷くと、「今日1日このままゆっくりと休めば大丈夫でしょう」と言い、私に深く礼をした後下がっていった。
「お嬢様が無事で本当にようございました」
目に涙をいっぱいに溜めて心底嬉しそうに言うメアリーにつられ、私の唇も少し引き上がった。
「あ、そういえば犬に待てと言ったままでしたわっ! お嬢様、少しだけお待ちくださいませ。犬にハウスをさせて参ります」
あまり上手く回らない頭で、王城で犬なんて飼っていたっけ? と記憶のページをめくるが、心当たりがない。
どういうことだろう? と考えていると、扉の向こうが騒がしくなった後、少し大きな音を立てて扉が開けられた。
「レイチェルっ!」
「殿下っ! お待ちくださいっ! お嬢様はつい先ほど意識がお戻りになったばかりなのですっ! 今、ご負担をおかけになるのはっ」
ズカズカと音を立てて入ってきたのはセドリックだった。メアリーは必死になってセドリックを止めようとしていて、今にも足に縋り付いてしまいそうな勢いだった。
「レイチェルっ! ああっ良かった!」
「殿下っ! おやめくださいましっ! ああっ、お嬢様っ! 申し訳ございませんっ! すぐにメアリーが、この躾のなっていない犬を追い出しますっ」
すごい血相で迫るメアリーをものともせず、セドリックは私のいるベッドまで近づいた。セドリックの顔がはっきりと見えたことで、これまでのことが一気に頭を横切った。
目眩がしそうなぐらいの怒りが押し寄せる。
「本当にっ、君が無事に目を覚まして良かったっ!」
「ーー白々しい」
勝手に口が動いていた。目の前の男が、この国の第二王子だなんてことはもう頭になかった。
「ーーっ、レイチェル……」
セドリックの顔は真っ青を通り越して、色彩が失われているように見えた。
「メアリー、家に帰るわよ。直ぐに準備をしてちょうだい」
「お嬢さまっ、しかしご体調がっ」
「だめだっ!君は今目を覚ましたところなんだ!お願いだから、無茶をしないでくれっ」
怒りを通り越して笑いが出てくる。まったく、この男は何処まで人を馬鹿にすれば気がすむのだろうか。
「ーーお願い? どうして、私があなたのお願いを聞かなくちゃいけないの?」
いけしゃあしゃあと嘘を吐いて、人のことを弄んでおいて、お願いをするなんて図々しくて面の皮の厚い男だ。
もう話すこともないし、話したくないと思っていたが、おそらくこれが最後に顔をあわせることとなるだろうと思い、言いたいことを言うことにした。
「まったくどこまでも図々しい人なのね。あなたにとって、あなたとエレーナさん以外の人は何でも言うこと聞いて従う奴隷なのかしら?」
「レイチェル……君はさっき目が覚めたばかりなんだ。あとでいくらでも説明するから、とりあえず今は横になって……」
「もう、あなたのお遊びに付き合うのはうんざりなの。楽しかったでしょうね。邪魔な婚約者をコケにした気分はどう? さぞかし愉快だったでしょう? なら、もう十分じゃない?」
そう言いながら、ベッドから起き上がり立とうとすると、急な目眩に襲われた。崩れ落ちそうになる私を、セドリックが支えたが、私は渾身の力で突き放した。反動でベッドに倒れこんだ私を、慌ててメアリーが支えてくれた。
「お嬢さまっ! 大丈夫ですか? やっぱりまだご体調がっ」
「ーー大丈夫よ。寝起きで目眩がしただけ……さぁ、早く準備をして帰りましょう」
「ダメだ。帰らせない。そんなにフラついているのに帰らせるわけないだろう」
「ーーあのねぇ……人を馬鹿にするのも大概にしてよ。もう十分お腹いっぱいでしょ? まだ足りないの? いったいどこまですれば満足なの? いっそのこと、あのまま殺せばよかったんじゃないの? どうせ、あの盗賊まがいもあなたのゲームの一環なんでしょ?」
「ーーレイチェル……」
「気安く私の名前を呼ばないでっ! 確かに、あなたはこの世界の五割を占める大帝国の第二王子で、偉いお人だわ。でも、男として、いえ人として最低の人間よっ! あなたが私の心を何で圧し折ろうとも、そんな人間以下のモノに受けた攻撃なんて痛くもかゆくもないわっ!」
「お、お嬢様っ! あまり興奮なさらないでくださいましっ! また、お倒れになられますっ」
メアリーが心配そうに私を支えたまま、背を摩ってきたので、少しだけ落ち着いた気がした。しかしメアリーと同じように心配だという表情を浮かべるセドリックを見て、また腹が立ち始める。
「もう、演技は十分じゃなくて? 貴方が私を心配していないのなんて百も承知よ」
「ーー信じてもらえないかもしれないけど、本当に心配してるよ」
「ーーあなた、心配がどういうものか分かってて言ってるの? 演技をするにも、意味をわかって言葉を言わないといけないわ。心配がどういう字を書くか知っていて?」
少しでも多くの酸素を脳に送るため、深く息をすってセドリックをしっかりと見据える。すると、今までのショーンとの思い出も重なって見えた。ショーンの言葉、セドリックの言葉が次々に頭に浮かんでは消える。そして、最後に浮かんだのが、馬車での言葉だった。
「はっ……!……それに、愛? 愛ですって? ほんっと、笑わせてくれるわ」
セドリックは相変わらず何も言わない。
「愛が何処かで買えるパンの名前だとでも思ってるのかしら?」
背中を撫でていた手を止めて、メアリーがプッと笑った。余談だが、メアリーは私の皮肉が大好きなのだ。
メアリーは咳払いをして、また私の背を摩り始めた。
「貴方みたいな人に、愛が分かってたまるものですか。人間自分がしたことは、どんなに先になろうとどんな形でも自分に返ってくるようになるのよ。今は世界の全てを手に入れているような気分でいる、貴方にだってね」
話しているうちに、また頭に血が上ってふらふらとしてくるが、どうにか言い始めたことを最後まで続けようとする。
「これからもそうやって、周りの人間を馬鹿にしてコケにして踏んづけながら生きていくといいわ。そしていつか、貴方が本当の意味で愛を知るときこそが、あなたの本当の墓場よ」
「ーーーーそうだね……」
心のない目で私のことを見ながら、まるで他人事のような言いぶりをするセドリックに、また熱が上がった。
だから、話なんてしたくなかったのだ。制約さえなければ、目の前の男を絞め殺してやりたい。
「──どうやら、貴方は私の血圧を上げる天才みたいね。でも、私はもう貴方がどうなろうと知ったことではないから、もう関わりたくないわ。貴方と関わって生きていくなら……死んだほうが……はぁ……まし……よ」
だんだんと体に力が入らなくなり、メアリーにもたれ掛かる。心配するメアリーと、憎々しいセドリックに名前を呼ばれながら、私は再び気を失った。




