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ドアに設置されているベルが鳴ったあと、耳触りの良い靴音が数回させながら店内に入ってきたのは身なりの良い優しそうな一人の青年だった。
「やあ、モーリス。随分と楽しそうなことをやっているじゃないか。俺も混ぜてもらおうか?」
「あ、貴方様はっ!」
「おっと、話はそのお嬢さんの手を放してからだ」
慌てた様に私から手を放し、ビシッと姿勢を正したモーリス男爵は額から冷や汗をダラダラと流している。
さっきまで踏ん反り返っていた姿とは大違いだなと思いながら、少し赤くなった手首を擦った。
「お嬢さん、大丈夫かい? あぁ、少し赤くなってしまっているようだね。随分と強く握られていたようだ。なぁ、モーリス?」
「はっ! も、申し訳ございませんっ!」
「ーー俺に言うことじゃないだろう?」
青年が薄暗く微笑むと、モーリス男爵はさらに汗をかき、カウンターに頭を擦り付けながら、謝罪をしてきた。
あまりの変わりようと血相に若干引きながら、はぁ……とだけ返事をしておく。許す気なんてサラサラにないからだ。
「モーリス、この件の処分については後からだ。経緯を説明しろ。できるだけ要点をまとめて手短にな」
モーリス男爵は額の汗をハンカチでおさえ、目を左右に動かしながら今までの経緯を説明しはじめた。その説明はまるで部下が上司に報告するような態度で行われていた。
いったい、この青年は何者なのだろう……。
身につけているものはどうみても一級品ぞろいだ。それに洗練された身動き…何処からどう見ても貴族だろう。
でも、こんな青年が貴族に居ただろうか?
少し長めの紺に近いブルーの髪を後ろに束ね、髪と同じ深い藍色の瞳。男爵から報告を受けている姿を見ながら、頭の中の貴族名鑑を高速でめくってみるが、やはり記憶に無かった。
ーーおかしい。
身につけているものと振る舞いから見て、相当高位な貴族だと思ったんだけど……。
高位な貴族であれば、貴族子息令嬢のお披露目会、お茶会や夜会などで絶対に顔を合わせているはずだ。そしてレイチェルの頭脳であれば、一度会った貴族は記憶に残っているはずだ。
うーん……と考え込んでいると、青年がくるっと私の方に向き直った。
「ーーなるほど。お嬢さん、その石を見せていただけるかな?」
助けてもらったけど、この青年が私たちの味方とは限らない。どうするべきかと考えていると、青年は優しく微笑みながら石を持っている私の手と反対の手を握った。
「大丈夫。モーリスにきちんとした鑑定させて良い値段で買い取らせると約束しよう。俺に任せてくれないかい?」
青年の瞳に嘘はないように見える。
「ーーでは、担保をください」
これも市井に降りて学んだことの一つだ。
どんな良い人そうな人も、闇を持っているし、お金は人の闇を上手に引き出すものだ。個人的には、この青年のことを信じたいけど、この石はトーマスの大切な物だから、おいそれと簡単には渡せない。
そういった強い意志を込めて青年を見ると、青年は驚いたように目をパチパチとさせた。珍しいものを見たかの様な反応をした後、ふっと軽く笑い、自分のカフスボタンを外し私に渡し握らせた。
カフスボタンを飾る宝石は、いま私たちが売ろうとしている魔宝石を加工したものだった。
「これで担保になるかな?」
「ーーえ、えぇ。では、どうぞ」
担保も何も、金で加工までされているこのカフスボタンはそれ以上の物だろう。思っていたものよりすごいものを渡され内心戸惑ってしまう。
青年は何でか嬉しそうに私から石を預かると、モーリスに指示しはじめた。
モーリスは平身低頭のまま店の奥に引っ込むと、袋と小切手を持ってきてカウンターに置いた。
「ーーじょ、状態は非常に良いですが、周りの不純物も多く……それ等を取り除いてとなると……それに、この大きさのものはそれほど珍しくはありませんので……こ、これぐらいかと……」
モーリスは冷や汗をかいたまま、前世で良く知っている算盤のような計算器具をいじって青年におずおずと見せると、青年は顎に手をあてて、ふむと頷く。
「ーー600万ヤールか……まぁ、妥当だね」
状態が良く大きい物だと何億何千といくが、トーマスのお兄さんが採ったものはどうやらそこまで珍しいものではなかったようだ。それでも、平民にとっては何年もかけて稼ぐ大金だ。
「ろ、ろぴゃくまんっ……」
トーマスは驚きのあまり、口をパクパクさせている。
「だそうだ。どうする? 売るかい?」
青年はにっこりと笑いながら私たちに問う。
トーマスとは今日初めて会って、なんの関わりもない存在だったけど、この子のおかげで良い経験もできた。それに、600万ヤールだと、トーマス家族が思い描く未来とは少し遠いだろう。
私は、静かに心の中で一つ頷いてから、トーマスの為にもう一肌脱ぐことにした。
そうと決めたら、今にも「はい、売ります!」と言いそうなトーマスを背に隠して、私は青年にカフスボタンを見せながら交渉を始めた。
「失礼ですが、あなたは?」
「あぁ、これは失礼。名乗ってなかったね。俺は、ショーン。この店のオーナー……みたいなものだよ」
家名は名乗らないつもりか……。
貴族だということはバレバレなのに名乗らないということは、自分より下位だとナメられているのか、もしくは身分を隠す疚しい理由があるのか……。
「そうですか……では、こちらのモーリス男爵より、あなたとお話しした方が良いようですね、ショーンさん」
「ーーうーん……いつもは、モーリスに任せているんだけどな。今日は途中まで首を突っ込んだし、仕方ない。ーーいいだろう、お嬢さん。何が望みかな?」
ショーンと名乗った青年は、何処か楽しそうに腕を組みながら、カウンターに背中を少し預けながら私たちを眺めている。
「ーー慰謝料と口止め料金を上乗せして下さい」
「お、お姉さんっ!」
背中からトーマスが止める様に慌てて出てきようとしたが、私を信じてという気持ちを込めて、トーマスの手を優しく握りしめた。
「へぇ……面白いことを考えつくね、お嬢さん」
「ーー私、これでも結構大きいツテがありまして。ーーおたくのモーリスさんとやら、私が思うにこれが初犯ではなさそうなんですよねぇ」
私は、モーリス男爵の方を見てニヤニヤと笑ってみせた。
「ーーツテ……ねえ……」
カウンターに背を預けたまま余裕の笑みを崩さないショーンに、私は先ほど預かったカフスボタンを見せながら続けた。
「えぇ。あなたが私に家名を名乗らないように、私にも少々理由がありまして。あまり詳しくは言えませんが……そうね、この界隈に、か弱い子供を脅して宝石をただ同然でふんだくったという噂程度は一晩で流せますねぇ……。貴族は風評をとても気にする生き物ですから、そんな曰く付きの店に今後宝石を買いに来る者どころか売りに来る者が現れるか心配ですね?……」
私がニヤニヤとカフスボタンを指で転がしながらそういうと、顔を真っ赤にしたモーリスがカウンターから吠えた。
「このっ!……小娘がっ!調子にのりおって!」
「あらあら、モーリスさん……さっきまでの大人しい姿はどこにいっちゃったのかしら。元はと言えば、あなたが非道な振る舞いをしたからでしょう? それに私の推測は当たっているはずよ。ーーあなたこれが初犯ではないわね?」
「こんのドブネズミがっ!」
「黙れ、モーリス」
今にもカウンターを乗り越えてきそうなモーリスが、ショーンの冷えた一言で動きが止まった。
「し、しかしっ!」
「黙れと言ったんだ……俺の言葉が聞こえないか? モーリス」
ワントーン低くなったショーンの冷たい声が室内に響き、室内の空気は凍りついた。モーリスは先ほどの勢いが嘘の様に、カウンターでブルブルと震えている。
「モーリス……お前には、この件が片付いた後、処分を言い渡す。それまで一切口を開くな。一切だ。ーー分かったら、一度だけ頷け」
モーリス男爵は震えながら、恐る恐るゆっくりと頷いた。
先ほどまで楽しそうにしていた優しい青年が作りだした凍りつきそうな冷たい空気に、私の後ろにいるトーマスもプルプルと震えていた。




