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桜終わりの訪問者

 月長石はピアノを弾いていた。

 ベートーヴェンピアノソナタ第十四番ハ短調『月光』。

 アップライトではなく、グランドピアノだ。空閑家には音楽を奏する為の防音室があった。夜、深海魚のように潜む少女が弾くには、物憂い『月光』は相応しい。弾き終わると防音室の扉が開く音がした。振り返る。


「蛍石。珪孔雀石に黄玉も」

「お前が久し振りに弾いてるみたいだったから、蛍石が行きたがった」

「黄玉だって乗り気だった癖に」

「みんなお前の演奏が好きなんだよ」


 くすくす笑いながら珪孔雀石が言う。

 月長石は照れ臭くなってピアノの蓋を閉じた。


「もう弾かないの?」


 蛍石が残念そうな声を上げる。


「うん。試験が近いから。勉強しないと。ね? 黄玉」

「うわー。思い出させてくれるなよ」


 黄玉が顔をしかめる。


「珪孔雀石、時間あるなら勉強を見て」

「良いけど。お前なら自分だけで出来るだろうに」

「お願い」

「解った」


 何とはなしに、月長石は今、珪孔雀石に甘えたい気分だった。どうせなら黄玉も、ということで、三人で月長石の部屋に向かう。蛍石はおっとり行ってらっしゃいと声を掛けた。


「今日は着物じゃないんだな」


 黄玉がシャーペンをカチカチ鳴らしながら言う。今の月長石は生成りの木綿のゆったりした上下を着ていた。それに薄手の青いカーディガンを羽織っている。


「うん」


 紫水晶は転入してからこちら、月長石に会いに来ない。月長石は自分でも意外なことにそれに張り合いなく感じていた。学年もクラスも違うので学校でも接点がない。月長石はあの少年と、もっと関わりたいと思っている自分を自覚していた。


「珪孔雀石、ここ解らない」

「これは、この方程式を使うんだよ」


 珪孔雀石が黄玉に乞われて彼のノートに蛍光ペンを引く。黄玉の関心は月長石の衣服からすぐ、数学の難問へと移ったらしい。その単純さに救われた思いで、月長石も問題を解いていた。そうして、三人は十時近くまで勉強して、それからお開きになった。月長石は寝間着のパジャマに着替え、単行本を読もうと、寝床に入りながら枕元の電気スタンド以外の電気を消した。そこで、こつんと窓硝子に何かぶつかる音がした。まさかと思い、カーディガンを羽織って窓を開けると、紫水晶が立っていた。


「また来たの」


 心のどこかで待っていたのに、口を突いて出たのはそんな言葉だった。


「憎しみ以外なら来て良いと言っただろう」

「もう憎んでいない?」

「多分」


 不確かな物言いに、紫水晶も自分と似たような心持ちなのだと解り、月長石は可笑しくなった。


「――――笑うなよ」

「ごめんなさい」

「もう散るな」

「え?」

「桜」

「ああ」


 薄青い闇の中、うっそり茂った桜の樹々は、こんもり花を咲かせた枝を垂らしていたが、花の命がいくばくもないのは明白だった。月長石の部屋に活けた桜もとうに散っている。


「ピアノを弾いていただろう」


 そう紫水晶に指摘され、月長石は驚いた。


「聴こえたの?」


 それでは彼は随分と前からここに立っていたことになる。


「俺の好きな曲だったから。俺は耳が良いんだ」

「時々、学校の音楽室でも弾くけど」

「弾く時は教えろ。聴きに行くから」

「解った」

「尖晶石が怒ってる」

「許嫁の?」

「そうだ。来るかもしれない」


 唐突な話題変換にも月長石は動じずついていったが、家にまで紫水晶の許嫁が来るとは、現実的な話に思えなかった。


「ヒステリックなとこを除けば普通の女だ。手加減してやれ」

「…………解った」


 月長石は自身の内側にもやもやとした暗いものが湧くのを感じた。その正体が嫉妬だと気づき、彼女は苦笑した。自分も人のことをとやかく言えない。紫水晶はそれで話は済んだとばかりに帰って行った。着物か、せめて浴衣を着ていればよかったと月長石は後悔した。


 翌日、昼休みに月長石がピアノを弾く時、紫水晶の姿がそこにはあった。彼だけでなく薔薇もいて、まるでお目付け役のようだった。耳が良いと言ったのは本当のようで、月長石の自信のある曲を弾いている時は身を乗り出すようだった紫水晶が、不安な曲になると途端につまらなさそうな表情になり、月長石はひやひやした。音楽教師に見られているようなものだ。


 帰りはいつものように黄玉と桜の並木道を歩いていた。桜の最期は凄惨な美を露呈して終わる。今まさに、桜の花びらはざんざと雨のように降り注ぎ、まるで世界を桜の一色に染め上げようとするかのようだった。月長石には桜の枝が骨のように見えた。


 邸の外門が視界に入る頃、黄昏の残照の中、一人立つ少女が見えた。深紅のワンピースは恐らく天鵞絨(ビロード)地だろう。細く絞られたウェストが彼女の肉体美を明瞭にしている。その深紅よりやや淡い赤とピンクの中間のような色合いの髪と瞳。彼女は月長石につかつか歩み寄ると、いきなり平手打ちした。同年代に見える少女の、突然の蛮行に月長石は怒るより驚く。


「何するんだっ」


 ()えたのは黄玉だった。一拍遅れて月長石は、彼女の正体を悟る。


「尖晶石?」

「そうよ。泥棒猫さん」

「紫水晶のことなら心配しなくて良い。そんな仲ではないから」


 至極、冷静に語る月長石だが、右の鼻からは血が流れ出している。

 そして月長石が冷静であればある程、尖晶石は激昂するようだった。


「お前が(たぶら)かしたのでしょう。月長石の名前を良いことに。紫水晶は私のものよ」

「それは違う。人は本来、誰のものでもない。帰属するのは己、唯一人」


 かっとして尖晶石が再び振り上げた手を、黄玉が掴んだ。


「いい加減にしろよ、お前」

「黄玉ごときが。引っ込んでいて」


 ぱしん、と、尖晶石の頬を打ったのは月長石だった。それでもだいぶ手加減している。


「黄玉を侮辱するな。私は、私に関わるあらゆる人が理不尽に虐げられることを許さない」

「お前の負けだよ、尖晶石」


 笑みを含んだ声が割って入る。

 いつの間に立っていたのか、門内から一人の女性が月長石たちを腕組みして傍観していた。

 奥行のある緑のウールツイードはやや丸みを帯びたショルダーラインのジャケットが特徴的だ。黒檀のような太いバングルに、華奢なチェーンつきポーチを持っている。如何にも上流階級の婦人といった出で立ちだ。髪も瞳も深い緑に輝いて残照に映えている。


(りょく)柱石(ちゅうせき)のおば様」


 尖晶石の上げた声に、月長石も黄玉もぎょっとする。

 緑柱石――――つまりはエメラルドだ。宝石界の女王。空閑一族最古参の長老。しかし目の前の女性からは老いの気配は感じられず、ただ円熟した美のみが彼女の生気と共に発散されているようだった。




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