誰かが涙したように
月長石の両親である輝水鉛鉱と氷晶石、そして紫水晶と薔薇の両親である金剛石と瑪瑙は、幼馴染だった。金剛石と輝水鉛鉱は白髪、青目の神秘的な雰囲気を持つ氷晶石に恋心を抱いた。それは成長しても変わることはなかったが、氷晶石が選んだのは、気紛れで奔放な金剛石ではなく、実直で誠実な輝水鉛鉱だった。彼らの婚約が決まった時、金剛石は輝水鉛鉱を殴り、半死半生の目に遭わせた。力の差があった訳ではない。輝水鉛鉱が抵抗せず大人しく殴られたのだ。結局、割って入った氷晶石に、金剛石は深く恨まれることになるが、それに痛痒を感じないのが金剛石という男だった。氷晶石が輝水鉛鉱に嫁いでからも何かにつけ理由を作っては人妻である氷晶石にちょっかいをかけた。当然、これを金剛石の妻である瑪瑙が愉快に思う筈もなく、彼女の憎しみは氷晶石と、実の息子たちに向かった。実の息子たちへの憎しみの所以は、お前たちさえうまれなければ、金剛石は私を見てくれる筈だった、という、勝手なものだった。
何をしても絵になる佳人である氷晶石は夕食の支度中でさえそうだった。気配を感じて振り返れば金剛石がにやにや笑いながら氷晶石を見ている。
「何ですか」
名前に劣らぬ冷たい口調で氷晶石に言われても、金剛石は堪えない。
「氷晶石。君は年を経るごとに美しくなるね。まさに『融けない氷』だ」
十八世紀グリーンランド西部のフィヨルドで発見された融けない氷の層は、氷ではなくアルカリ金属と弗素とが化合して出来た鉱物であることが突き止められた。氷晶石の名前の由来は氷に酷似していたからだ。
氷晶石は答えず、中華鍋に油を敷く。台所に胡麻油の匂いが充満する。
無言で調理するのは、金剛石を相手にしないという氷晶石の決意表明だ。金剛石がそんな彼女の後姿に一歩、二歩、近づき触れようとすると、肩を掴まれた。振り返れば輝水鉛鉱が静かな怒りを秘めた表情で立っている。
「手洗いに行くと言っていたが?」
「その途中の寄り道だよ、輝水鉛鉱」
「性質の悪い寄り道だ。氷晶石に近寄るのはやめてもらおう」
「心外だな。君同様、幼馴染との親睦を深めようとしただけなのに」
「白々しい」
辛辣に評したのは氷晶石だった。彼女は調理の手を休めないまま、背中で夫たちの会話を聴いていた。金剛石は肩を竦めると、身を翻して、輝水鉛鉱の掴んでいた肩を、汚らわしいと言わんばかりに手で払った。そのまま、応接間に戻る積もりのようだ。輝水鉛鉱は妻に気遣わし気な視線を送ると、金剛石のあとを追った。
「あの人、何をしに来たの?」
夜、寝室で氷晶石は輝水鉛鉱の肩にもたれかかりながらそう尋ねた。輝水鉛鉱は氷晶石の長い純白の髪を手で梳きながら答える。
「子供の行動に感化されたようだね。彼の息子、紫水晶が月長石に会いに来ていたみたいだ。……相当、過酷な仕打ちを紫水晶にしているようだったから、諫める積もりだったんだが、却って火に油を注いでしまった。瑪瑙のお気に入りのイヤリングの紛失を、紫水晶のせいにすると言うんだよ。君も知っているだろう。瑪瑙は火のように激しい気質だ。きっと紫水晶は、折檻を受ける……。そうさせたくなければ月長石に、紫水晶と仲良くしろと脅してきたよ」
「正気じゃないわ」
「全くだ。彼らを親に持って、息子たちが気の毒だよ」
「……月長石は?」
「真っ青になってた。普段は何が起きても冷静な子なんだけどね。自分のせいで紫水晶が酷い目に遭うと……」
「変わらないのね、あの人」
氷晶石の声は侮蔑を含んでいた。まさに氷のような冷たさだ。輝水鉛鉱は頷く。
「引き取ってあげたいけれど、多分、金剛石も瑪瑙も、そして紫水晶たち自身さえも首を縦に振らないだろう。彼らは黄玉たちとは違う」
氷晶石が輝水鉛鉱の胸に顔を寄せる。
「月長石を見守ってあげて。あの子は強いけれど、まだ子供だから」
「解っているよ」
輝水鉛鉱は氷晶石の頬に口づけると、部屋の明かりを消した。
まさか今夜も来るとは思わなかった。
月長石は目の前の紫水晶を見て驚きを隠せないでいた。念の為と思い、芥子色の地に格子模様が織り出された越後黄八をざっくりした風合いである紬の綴れ織の、鼠色の帯で締めている。月長石は驚くと同時にほっとしていた。紫水晶が彼の母から、または金剛石から、体罰を受けるのではと危惧していたからだ。今の紫水晶に、目立った外傷などは見受けられない。
「憎しみ以外を持って来た?」
「あのまま引き下がればお前に負けたことになる。それは癪だ」
「負けず嫌い。でも良かった」
「何が」
「元気そうだから」
「意味が解らない。俺は怒ってはいるんだぞ」
「なぜ」
「父親が俺をお前らの通う高校に転入させると言った」
「…………」
「それはお前の意思だと。どういう了見だ」
「貴方のお父さんがうちに来て、貴方と仲良くしろと言った。多分、それが理由」
「意味が解らない。どうして俺が、お前と――――あの人一流の悪戯か。性質が悪い」
「私を嫌うのは構わない。でも黄玉を傷つけるのは許さない」
「安心しろ。あいつは俺の眼中にない」
「――――黄玉を貶めることも許さない」
紫水晶の瞳が大きくなる。
「お前、あいつが好きなのか?」
「好き。大事な家族だから」
「かまととかよ。良い子ぶりやがって」
「…………」
月長石は横に立てかけていた白木で出来た杖を取り、窓の外、紫水晶の喉元に突き出した。もう少し押し出せば咽喉に届く。
「杖術か。お姫様の嗜みか」
「そう。うちの人間は皆、私より年少の女の子である蛍石ですら、護身術を習っている。なるべく、実用にしたくはない。だから発言には注意して」
「物騒な女」
月長石は杖をくるりと旋回させて室内に戻した。
紫水晶は少し俯くと、躊躇いがちに言った。
「俺の許嫁の尖晶石(スピネル)に気をつけろ。お前に劣らずおっかない奴だから」
「嫉妬深いの?」
月長石が金剛石の言葉を思い出しながら尋ねる。
「ギリシャ神話のヘラもかくやと言う程」
ヘラは全能の神・ゼウスの妻である女神だ。引き合いに出すあたりに、紫水晶の教養を月長石は見た気がした。
二人して、何となく会話が途切れたので上空の月を見る。
誰かが涙したように朧の月だった。
数日後、宣言通り、紫水晶が月長石と黄玉の通う高校に転入してきた。
麗らかな春の日和に、女子生徒のさんざめくお喋りと興奮。
紫水晶は人目を引く容貌をしている。無理からぬことだった。
空閑という苗字の為に、月長石や黄玉との関係も当然、尋ねられた。紫水晶は薔薇の兄だとだけ言って、他は無言を貫いた。
「あのおっさん、非常識だな。まあ、普通、常識人は宝石のイヤリング喰ったりしねーけど」
黄玉が月長石のクラスに来て呆れた声を出す。彼の意見には月長石も同感だった。とにかく、彼とはなるべく関わらないようにするのが互いの為だろう。金剛石の思惑の半分は、紫水晶を転入させたことで叶っている。薔薇は、彼自身の意思で転入したらしいが、それを金剛石がよくも許したものだ。月長石は緑子の、紫水晶に関する質問に丁寧に答えながら、慎重に行動することを自らに言い聞かせていた。