呑み込む
愛情の対極は徹底した無視だ。それならば、紫水晶が月長石にぶつける憎悪は、まだ可愛いものと捉えられるだろうか。だが確かに自分を憎む人間がいると、ましてやその本人から知らされると、堪える。月長石は意思の強いほうだが、その彼女であっても辛いと感じる。だから告げた。
「もう来ないで。貴方は十分に目的を果たした」
「そんな平淡な声で言われても説得力がないな」
「無闇やたらに人を傷つけることは幼稚」
「いくらでも言え。俺はその分お前を憎む」
月長石は窓枠に手を掛け、身軽に飛び越えた。外に足袋で着地する。紫水晶の顔が近くなり、彼はやや怯んだようだった。月長石がこうした行動に出るとは予測していなかったのだろう。
「生憎、私はお姫様みたいな女の子じゃない」
ふわりと、両手で紫水晶の色白の肌を包み込む。
「憎しみは要らない。他を頂戴。そうしたら来ても良いから」
淑やかに告げる。
紫水晶の目は真ん丸になって、濃い紫色が深く輝くのが見える。ぱし、と月長石の手を振り払う。
「お前は変な女だ」
それまでとは違う感情の籠った声で、視線で紫水晶は言うと、その場を駆け去った。
翌日、早速、薔薇が登校した月長石を睨みつけて来た。
「紫水晶に関わるなと言った筈だ」
「彼が勝手にうちに来た。不法侵入」
月長石の正論に、薔薇がぐ、と詰まる。
「彼や貴方が私を敵視する理由も聴いた。でも、逆恨みで迷惑でしかない」
「何だと」
「違う? 私は間違ったことは言っていない」
薔薇は紅めいた双眸を左右に走らせて、言葉を探しているようだった。不意に、感情が切り替わるように笑むので、月長石は不覚にもどきりとした。
「そんなこと言って、お前、紫水晶に惚れたんじゃないのか」
「どういう考え方をすればそうなる」
流石に月長石は呆れる。
「あいつに惚れても無駄だよ。許嫁がいるからな」
「そう。私には関係ない」
何を言っても動揺しない月長石に、薔薇は閉口してそれ以上は何も言わなかった。彼が去ってから緑子が寄ってくる。
「大丈夫? 月長石。薔薇君ったら、あんまりな言いようね」
緑子が薔薇を名前で呼ぶのは、同じ空閑姓の黄玉がいるからだ。親しみを込めている訳ではなく、寧ろ何かと月長石に突っかかる薔薇に負の感情を抱いているようだ。
「大丈夫。ちゃんと、どういう理由で言いがかりをつけてきているのか、解ったから。今度からは無視する」
「そう、そのほうが良いわ」
月長石は教室の窓の外を見る。
四角に切り取られた青空と桜が見える。桜ははらはらと散って、風に舞う。人間の、それも血族のしがらみの何と疎ましいことかと、月長石は嫌気がさした。どちらが本流かを競い合うとは時代錯誤も良いところだ。月長石や青金石、そして紫水晶などが一族内において格が高いとされていることは知っている。だが、それを対抗心の火種として、息子に家庭内暴力を振るうなど狂気の沙汰だ。それは紫水晶もやっていられないだろう。恐らく彼の両親は、輝水鉛鉱の束ねる空閑家が隆盛を誇っていることが気に食わないのだ。だから、血眼で息子に厳しく当たる。くだらないと思うと同時に、月長石の中で紫水晶に対する僅かな同情もあった。だが、だからと言って憐憫を理由に好きにさせる道理もない。舞う花びらを見ながら、月長石は己の中の感情を精査して片付けた。
薔薇は、月長石や黄玉以外に対しては好意的に接する、年相応の少年だった。加えて華やかな美貌は、彼を一躍人気者にするに十分だった。月長石への態度だけは、いただけないと思われていたが、それも玉に瑕、些細な彼の短所と見なされて終わった。
月長石が黄玉と帰る桜の並木道、蕩けそうな金色の玉となった太陽が空の低いところに浮かんでいる。冬に比べて日が長くなった。金色の周囲は桃色で、その上は淡い紫だった。
邸の扉を開けると、三和土に見慣れない革靴があった。リザードだろうか。一目で高級と判る。応接間に客があるようだ。黄玉と顔を見合わせた月長石は、足音を忍ばせて応接間に向かった。赤い絨毯の敷かれた長い廊下をそろそろと歩む。応接間の扉に耳を当てると、輝水鉛鉱と、もう一人、知らない男の声が聴こえた。あの靴の主だろう。
「だから紫水晶を、――――」
「それは――――――――」
何か揉めている。
と言うよりは、言い募る輝水鉛鉱を、相手がいなしている様子だった。
もっとよく聴こうと、扉を押したのがまずかった。ぎしり、と木製の扉が鳴いた。室内の口論がぴたりと止み、扉が開かれる。
「これはこれは」
扉を開けたのは、深い青紫のスーツを着た、銀髪、銀色の瞳の男性だった。人を圧倒する華がある。薔薇もそうだと思っていたが、これは格が違う。
「お姫様じゃないか」
彼の目は黄玉には向けられず、月長石のみを射抜いていた。
「お入り。君たちにも関係のある話だ」
「待て、金剛石」
輝水鉛鉱の制止に、月長石と黄玉は反応した。
金剛石。宝石の王、ダイヤモンドの別称だ。月長石や青金石、紫水晶とはまた別格で、尊重される存在。それが、目の前の男性なのだ。
応接間は天井から豪奢なクリスタルのシャンデリアが吊り下がり、大人五人は優に座れるだろう革張りのソファーが一対で置かれている。中央には切り込み細工の入った長方形のテーブルが鎮座する。輝水鉛鉱は立ち上がり、金剛石の後ろから苦い眼差しで月長石たちを見つめていた。
「良いから、お座り」
金剛石は邸の主であるように悠然とソファーに寛ぎ、月長石たちを催促するようにテーブルを叩いた。月長石は父の顔を見る。輝水鉛鉱は苦い顔だったが、頷いた。
月長石と黄玉が輝水鉛鉱の横、金剛石と向かい合うように座ると、しげしげと金剛石が月長石を検分した。
「君が、紫水晶が執着してる子かい。解らなくもないな」
「執着とは違うと思いますけど。貴方は彼の」
「父親だよ」
これが、と月長石は目を見張った。紫水晶を思わせるところがどこにもない。その最たるものが、金剛石の纏う自信に満ちた尊大さだと気づいて、月長石は違和感の主を察した。
「紫水晶に体罰を与えているというのは本当ですか」
「切り口上だね。体罰なんて大袈裟だな。躾けの一環だよ」
「冬に子供を蔵に閉じ込めることが? 夏の炎天下に晒すことが? 一歩間違えれば命に係わるのに」
「ふうん。あの子は、随分、お喋りだったんだねえ」
その声の冷たさに、月長石は鳥肌立った。自分は大きな過ちを犯したかもしれない。
金剛石がスーツのポケットから何か取り出した。輝きがこぼれる。
「これは妻のイヤリングだ。大粒のモルガナイト、ピンクサファイア、オパール、そしてダイヤモンドが使われた春の青空に咲き誇る桜をイメージした逸品だよ」
説明のあと、信じられないことに金剛石がそのイヤリングを大きく口を開けて月長石たちに見せつけるように横目で彼らを睥睨しながら、放り込む。
ごくりと嚥下してにっこり笑う。まるでイヤリングの華まで吸い取ったような笑顔だ。
「妻のお気に入りだったんだけどね。これを紫水晶が失くしたと言ったら、あれは半狂乱になるだろうな」
「――――――――やめてください」
「君がこの先、紫水晶と仲良くしてくれるなら考えないでもないよ」
「何を……」
絶句する月長石が見えないかのように、金剛石はすっくと立ち上がった。
「形ばかりの許嫁は凡庸でつまらない。でも、君とあの子が仲良くしたら、嫉妬くらいはするかもしれない。それはそれで面白い筋書きだと僕は思うんだ。うん。ね? 面白いだろう? 月長石」
微笑みかける金剛石を見ながら、月長石は、この世には到底、理解の及ばない人間が存在することを知った。