花に罪はない
日常の中、どんなに心構えしていても、横合いからぶつかってくる突風はある。今の薔薇が月長石にとってのそれだった。月長石は努めて冷静に問い質す。
「あの子を知ってるの? 関係者?」
「おい、月長石。紫水晶っての、知ってるのか」
「昨日の夜、うちの庭にいたわ」
「なにい? 何かされたんじゃないだろうな」
「紫水晶は俺の兄だ。そんなことはしない」
俄然、いきり立つ黄玉に薔薇が冷淡に言う。
「関わるなって?」
「あんた、何も知らないんだな」
薔薇がせせら笑う。月長石は平静だったが、些少の苛立ちは流石に感じた。
「あいつはあんたのせいで苦しんでる」
「どういうこと?」
「鉱石家の分派が要因だ。あんたの父親、輝水鉛鉱なら知ってるだろう」
その言葉を最後に、薔薇は月長石と黄玉から離れた。いつの間にか固唾を呑んで見守っていた生徒たちの誰かから、溜息が漏れる。緑子に至っては盛大に顔をしかめていた。月長石は窓から見える桜を眺める。あの日、本に閉じ込めた花びらは、もう誰かに見つけられただろうか。少年少女の学び舎に過ぎる時は本人たちが実感するより速い。花びらからすっかり水分が抜けて乾いた頃には、月長石ももうここにはいないかもしれない。紫水晶の面立ちを思い出す。彼はなぜ、庭にいたのか。薔薇の言葉が事実であれば、彼は鉱石家の一員で、尚且つ月長石の為に苦しんでいると言う。人は無自覚に人を傷つけ、踏みにじる。自分もまたそうであったのだろうか。あの紫水晶という少年に、月長石が思うところもまた記憶もないが、何がしか、累を及ぼしていたのかもしれない。
「月長石、次、紫水晶って奴が来たらすぐに呼べよ」
「うん」
黄玉に約束したものの、そうはしないかもしれないと月長石は漠然と予感した。
月長石の父である輝水鉛鉱は鉛色の瞳と髪を持った穏やかな男性で、宝飾店の店舗をいくつも傘下に置く会社の社長だ。他にも有する土地を売ったり貸したりなどして生計を立てている。空閑家の金庫には価値ある宝石がうなるくらいに詰まっており、他にも有価証券や金も入っていた。
帰宅した月長石はセーラー服のまま、父の書斎に出向いた。
輝水鉛鉱は丁度、ハイジュエリーのグワッシュ画を描いているところだった。
ジュエリー職人の白衣を着用している。光と影の演出方法、カラーストーンの輝きをグワッシュペイントを使ってデザイン画に起こす。簡単そうに見えて熟練の技が要求される作業だ。月長石も時折、輝水鉛鉱から手ほどきを受けていた。娘の入室にも頓着せず作業に没頭していた輝水鉛鉱だったが、やがてひと段落ついたのか、ペンを置くと、顔を上げてにっこり笑った。
「お帰り、月長石」
「ただいま、お父さん。邪魔をしてごめんなさい」
「うん。次から描いてる時は遠慮しておくれ」
やんわりと窘める父に、月長石はこくりと頷く。
「訊きたいことがあるの」
「何かな」
「紫水晶という少年を知ってる?」
「いや。でも縁戚にその名の人がいたよ。もう鬼籍に入っているけれど」
「空閑薔薇は?」
輝水鉛鉱の顔がすう、と変化する。
「空閑。そう名乗る子がいたのかい」
「転入生。紫水晶に近づくなって言われた」
「そうか……」
輝水鉛鉱はしばらく黙考していたが、次に顔を上げた時には普段通りの穏やかな表情だった。
「鉱石家を称する空閑家には二大の流れがあってね。空閑薔薇という子は、うちと対になるもう片方の鉱石家の子だろう」
「鉱石家は、うちの他にもあったの。知らなかった」
「……余り知る必要のない話だよ」
どこか歯切れの悪い父に、それ以上の質問は出来ず、月長石は書斎から出た。
月長石には予感があった。
あの少年はまた自分に会いに来る。
だから、夜は無防備な浴衣ではなく着物を着つけた。黒地十字絣紬に鬼更紗の帯を合わせる。帯揚げは縮緬茜色無地。帯締めはチャコールグレーの無地平唐組。言わば戦闘服に身を包んで、机に座り、帰宅時の父の姿の影響で宝石のグワッシュ画を描きながら彼の訪れを待った。
こつん、と窓硝子が鳴った時、来たと思った。立ち上がり、夜を背負う少年の姿を窓の外に認める。施錠を外して窓を開けた。紫水晶は相変わらず睨むような眼で月長石を見る。咲き誇る花を背負う少年は、とても綺麗だった。
「こんばんは」
「…………」
「空閑薔薇という子を知ってる?」
物静かに月長石は尋ねる。紫水晶の表情が変化した。
「そう。貴方の弟さん。うちのクラスに転入してきたの。貴方に関わるなと言われた。どうして?」
「俺がお前を憎んでるから。だからあいつもお前を憎んでる」
「憎まれる筋合いがない。私、貴方たちに何かした?」
「そちらの鉱石家と違い、うちは厳格だ。青金石、月長石、そして紫水晶は鉱石家の中でも格の高い存在とされる。だからこちらは俺を鍛え上げた。残酷なくらいにな。知ってるか? 冬の冷たい蔵の中の凍えるような寒さ。夏の酷暑の下、晒される苦痛。体罰の不条理なんて、俺の親たちには知ったことじゃない。だから俺は、誰よりも何においても抜きん出ていなければならなかった。対してお前はどうだ? ごく普通に、まっとうに育てられてるじゃないか。お前という対抗馬がいるからこそ俺は厳しく躾けられたのに。不平等だろう。何も知らずぬくぬくと育つお前みたいなのを見てると吐き気がする」
「ならどうして会いに来たの」
「お前を憎む奴もいるってことを思い知らせに」
月長石は二の句が継げなかった。
今まで、これ程憎しみを人からぶつけられたことはない。
傷つかないと言えば嘘になる。
「うちの連中はみんな、こっちの空閑家に対抗意識を持ってる。そっちから一度ならず和解の申し入れもあったがはねつけた」
「知らなかった」
知る必要はないと輝水鉛鉱は言った。だが、果たしてそうだろうか。
紫水晶より発せられる憎悪は、月長石の感情を揺り動かした。
紫水晶が室内の白磁に活けられた桜を見る。
「活けたんだな」
最初、何のことだか解らなかった月長石だが、紫水晶の視線の行方を見て頷く。
「花に罪はないから」
「…………」
紫水晶は何も言わなかったが、静かな沈黙からは肯定と僅かな反省が感じられた。