贈る言葉
月長石は、青金石が翡翠輝石を見つけられない理由が解った気がした。彼女は真実の重みに耐えかねて、藍晶石に逃げ込んだ。彼を翡翠輝石に見立てて子供を産み、その事実さえ恐らく忘れて。藍晶石も青金石を好いていたのだろう。そしてその分、心痛は大きかった筈である。藍晶石の心を顧みず、翡翠輝石の幻を追ってしまったがゆえに、今でも青金石は翡翠輝石を見出せないでいるのだ。あんなに近くにいるのに。
久し振りの自宅は、懐かしかった。
輝水鉛鉱と氷晶石が笑顔で迎えてくれた。彼らは月長石たちが真実を知ったことを珪孔雀石から既に聴いている。それゆえの、包み込むような笑顔だった。月長石は夕食もそこそこに、眠りに就いた。やはり別荘と自宅は違うということだろう。疲れが一気に出た。
夢の中、逢いたいと思っていた人がいた。
コランダムが微笑んでいる。
辛かっただろうと労ってくれ、それから彼が指さす方向を見ると、青金石がいた。月長石は青金石に歩み寄った。抱き締めた。何も言わず。言葉が出なかった。
青金石は無言でされるがままにしていた。それから、おずおずと月長石の髪を撫でた。
青金石の後ろに立っていた翡翠輝石が、月長石ごと青金石を抱き締める。
青金石は、はっとした顔で翡翠輝石を〝見た〟。
〝翡翠にいさま〟
〝ただいま、青金石〟
〝にいさま……っ〟
月長石は、翡翠輝石の喜びを感じた。やっと愛する妹に見てもらえた。それからその腕より抜け出して、二人から離れた。青金石と翡翠輝石はしっかり互いを抱き合っている。
何かがカチャンと壊れる音。
もう大丈夫だよとコランダムが告げた。
夢から目覚めた月長石は涙に濡れた頬に触れた。温かな涙だった。
青金石と翡翠輝石は、きっと本当の意味で逝くことが出来ただろう。
今日もまだ蝉が鳴いている。月長石は、諸々の報告を、緑柱石にしなければと考えた。紫水晶と連絡を取り、日程を調整する。もう夏休みも残り少ない。
夏が終わるのだ。
訪問の日、月長石は淡いピンクと水色の後染め紬に型染め紬九寸名古屋帯を締め、赤紫の帯揚げに緑の帯締め、そして桔梗の花の銀細工の帯留めをした恰好で、氷晶石からパウンドケーキの土産を持たされて黄玉と家を出た。
黄玉は青金石たちの話を聴いたあと、そっか、とだけ言って頷いた。彼には彼の、思うところがあるのだろう。この夏を経て、黄玉の顔は少し大人びたように思える。それは途中で合流した薔薇や紫水晶にも言えることだった。
緑柱石の家は相変わらず花で溢れていた。
月長石たちを出迎えた緑柱石は、着物姿だった。水色と灰色の混じったような縞の着物に花唐草の更紗の帯を合わせている。
さっぱりとして粋な着こなしだ。
前と同じ居間に通される。床の間には今日は、鉄線が白磁の花器に活けられている。出された緑茶は熱かった。落雁と一緒に賞味する。緑柱石は前回のように、最初から用件を問い質したりはしなかった。あらかたのところはもう知っているようだった。扇子をゆるゆる動かしながら、庭を見ている。全ては明らかになったのだ。何を急くこともないというところだろうか。
「本当ならお前たちに知らせる積もりはなかった」
初めて緑柱石が口を開いた。月長石たちに向き直る。
「青金石の恋情はね。お前たちに話すにはまだ早いようにも思えたし、出来るなら、そう、出来るなら一生、知らないままでも良いだろうと思っていた。けれど、因果かねえ。こういう、結末になってしまった」
月長石にはそう物語る緑柱石から、孤独が透けて見えるように感じた。強く気高く。それでも決して寂しさを感じない訳ではないのだろうと。
「青金石と翡翠輝石が、逝きました」
月長石の報告に、緑柱石が驚くことなく鷹揚に頷く。
「そうかい」
「それから、『矢車』が、破損しました」
これには緑柱石も目を瞠り身を乗り出した。
「何だって?」
「これです」
月長石は、灰色の宝石箱を開けた。
中には真珠やダイヤの粉々に砕けた物が入っていた。
「――――何てこと」
「もう、不要だという意味だと思います」
「…………」
『矢車』の異変に気付いたのは、青金石と翡翠輝石の夢を見た翌朝だった。緑柱石はしばらく言葉を失っていたが、やがて細い息を吐いた。
「そうかい。そういうことも、あるのかもしれない。それは、正確には鉱石家の至宝ではないしね」
「え?」
「藍晶石の日記を見たんだろう?」
「はい」
「絶えないのは人の想いのみ。人の、連なる縁。そこから生まれる、想いこそが、本当の至宝なのだよ。私たちが伝えていくべき。だから、繋いでおくれ。月長石。紫水晶。黄玉。薔薇。想いは永遠なのだと。私はそう思うから」
緑柱石は穏やかな笑みを湛えていた。
緑柱石の家を辞した月長石たちは、どこに立ち寄ることもなく帰宅した。
月長石は着替えて、氷晶石の調理の手伝いをしながら緑柱石の言葉を反芻していた。想いこそが至宝。万博で世界から喝采を浴びた帯留めの写しよりも大切な。人は、基本的には不可解だ。愛し、憎み、哀れみ、蔑む。それらの感情は万華鏡のように千変万化する。揺らぎ、固定されない。その揺らぎをも含めて、人の想いとは得難いものなのではないだろうか。
その晩、浅葱色のワンピースを着て本を読んでいると、こつりと窓が鳴った。久しい音に、月長石は立ち上がる。
窓を開けるとすだく虫の音と共に紫水晶が入り込んだ。
「ばあさんの話、どう思った」
「興味深い」
「お前それ、女ならもっと感傷的になるところだろう」
「十分、感傷的になってるけど」
紫水晶が苦笑する。
「月長石」
「何」
「俺、お前が好きだ」
月長石の薄青い目が紫色とぶつかる。
「お前が一生、コランダムのことを忘れなくても良い。……コランダムごと、お前のこと好きでいる」
綺麗な顔だと月長石は思った。造作の話ではなく、色んな感情を呑み込んで覚悟を決めた人間の、清澄な表情。
「ありがとう」
他に言える言葉はなかった。事実として月長石は、一生、コランダムだけを想って生きるだろうと思えるからだ。このようにして時は過ぎる。月長石には翡翠輝石への恋慕に拘泥した青金石を責める言葉を持たない。どうにもならないことが多いのがこの世界だ。しかしそんなままならない世界で人は想いを紡いで生きる。生きて行くとは、そういうことだ。本当の至宝とは、つまりそういうことなのだろう。紫水晶は月長石の頬に触れた。触れただけで、何もせず、しばらくそうしていた。
緑柱石が亡くなったのは、新学期が始まって間もない頃のことだった。
鉱石家の一同が葬儀に参列した。早くも秋の気配を感じさせる、物悲しいようによく晴れた青い空が広がっていた。月長石も列席した。彼女は緑柱石の柩に、今は粉々になった『矢車』を入れた。意外なことに『矢車』の変わり果てた姿に最も騒ぎそうだった金剛石は何も言わなかった。月長石は、彼もまた藍晶石の日記を読んだことがあるのだと思った。
列席した人々は、一族最長老の死を嘆き悲しむと言うよりは、温和な感情でもって受け止めて、感慨と共に見送っているようだった。
〝繋いでおくれ。想いは永遠なのだと。私はそう思うから〟
緑柱石の言葉が蘇る。
葬儀の間、月長石は、この春から夏にかけて起きた様々な出来事を思い返していた。最初は紫水晶の双眸だった。桜の時期だ。それから薔薇が現れた。彼ら兄弟は、最初は月長石や黄玉に敵意を剥き出しにしていた。そして金剛石、コランダムと出逢い。人生で初めての恋をした。短く儚い恋だったが、月長石の中では一生分の恋だった。今もコランダムとの思い出は、それこそ至宝のように胸の奥に大事に仕舞ってある。コランダムを亡くし、別荘に行った。思いもかけない真実を知ることになった。
緑柱石様。貴方の想いも継いで、私は生きて行きます。
今は亡き孤高の最長老に、月長石は心の中で語り掛けた。
藍晶石は、日記を書き終えると、ふと思い出したように最初のページに文章を書き加えた。それは、今の彼の思いの結実した文章だった。翡翠輝石を亡くした後、鉱石家には哀愁の空気が漂い、晴れることはない。緑柱石も桜石も、数年前に亡くなった。まるで愛息の後を追うかのように。今や青金石と二人きりの兄妹暮らしだ。青金石は翡翠輝石を愛していた。そして今、藍晶石を翡翠輝石のように錯覚して接してくる。藍晶石も青金石が愛おしく、それを拒むことが出来ない。だが、まさか青金石が身籠るとは思わなかった。濃過ぎる血の交わりで生まれる子は、五体満足でいてくれるだろうか。とにかく今は、青金石の体調を最優先にする。徴兵忌避した人たちの世話も欠かさない。
二月七日
何が間違っていたのか、何が悪かったのか、僕にはもう解らない。
根こそぎ奪った黒い陰気な怪物が、今でものそりとそのあたりを徘徊しているようで恐ろしい。せめて青金石の子供だけは無事に生まれて欲しい。生まれたあと、手元で育てることが出来るのかは解らないけれど。
居間に行くと、青金石が毛糸で赤ん坊の靴下を編んでいた。それがまるで母の桜石のようで、藍晶石は辛くなる。青金石は藍晶石の姿に気づくと、顔を輝かせた。
「翡翠にいさま」
つきん、と、藍晶石の胸が痛む。だが、無理矢理に笑顔を浮かべて答える。
「赤ん坊の靴下かい」
「うん。今から編んで、生まれた頃に間に合わせたいの」
そう語る青金石は無邪気で、幸福そうだ。悲しみによって植え付けられた偽りの幸福。それを享受する妹が哀れで、藍晶石はそっと目を逸らす。
「花の色は、うつりにけりな、いたずらに」
そう詠んだ青金石はぽろりと涙をこぼした。
「あら? どうしてかしら。変ね」
十二月二十九日
生まれた男女の双子は、やはり手元では育てられず、分家に養子に出すこととなった。無念だ。青金石も悄然としている。
藍晶石は日記の前のページに書いた文面を眺める。
鉱物は長い時を経ても美しくあり続ける。
そこには永遠という理想がある。
しかし人の身は、例え鉱物の名を冠しようとも、やがて絶える。
絶えないのは人の、想いのみである。
鉱石は美しく固く永遠だ。不滅だ。
そして人は、肉体こそ滅びるけれど、抱く想いは永遠だ。
鳥のように飛翔し、空を旅し続ける。
解き放たれる。螺旋を描きながら。
僕はこれを読む君の幸せを願う。
鉱石のように眩い幸せを手に入れて欲しい。
命を繋ぎ、影を撥ね退けて。
僕たちは永遠の旅人。
この星の上で初めてを繰り返そう。
涙は僕たちを妨げられない。それは一時の通り雨に過ぎないから。
草原に寝転び、林檎を齧りながら夢を紡ごう。
忘れないで。君はたった一人の人。
たった一つの鉱石。
葬儀の帰り道、月長石は誰かに呼び掛けられたような気がして振り向いた。だがそこには誰もいない。青い空だけがある。
「藍晶石?」
なぜだかそんな気がした。
先を歩く紫水晶が怪訝な顔をする。喪服が彼には似合っていないと月長石は思う。尤も、喪服が似合うと言われて喜ぶ人間はいないだろうが。道端の花壇に誰かが植えたのか桔梗の花が咲いている。可憐な星型の花は月長石にコランダムを思い起こさせた。紫水晶が掬うように月長石の手を取る。月長石は驚いたが、すぐにその手を受け容れた。そうして二人並んで歩きだす。少年と少女はまだ若く、これから新しい世界を知るのだろう。そしてその度にこの季節を思い出すのだ。
これは鉱石家の人々の物語。
絶えないのは人の、想いのみである。
<完>
最後までお読みくださり、ありがとうございます。