この壁の向こうに
月長石の中で珪孔雀石はいつでも頼りがいのある兄のような存在だった。水色がかった髪と瞳。穏やかに整った容貌を持ちながら、彼は異性と交際する様子がなかった。それは大学生になった今でも変わらず、月長石が不思議に思っていたことだった。
逢ったことのない故人に恋をする。
それはとても切ないことに思える。珪孔雀石が実年齢より大人びて見えるのは、もしかしたらそうしたことにも起因するのかもしれない。
「だから、お前らさ、何でそうなるの?」
台所で呆れた声を上げるのは黄玉だ。今晩の食事当番は黄玉と紫水晶、薔薇だった。自然、黄玉が紫水晶たちをフォローして引っ張っていくことになる。だが紫水晶と薔薇の料理の腕前は壊滅的だった。
「卵はそんなんやったら殻が入るだろうが」
「可能性に賭けた」
「賭けるな。真面目にやれ」
紫水晶の頭を黄玉が小突く。銀色のボウルの中には割れた卵と卵の欠片が混在している。薔薇は薔薇で、玉ねぎのみじん切りがみじんになっていない。頻りに目を擦っている。
「泣ける」
「俺のが泣けるわ」
薔薇の声に黄玉がげんなりした様子で返す。夕食が出来るまでの道のりは遠そうだ。月長石と蛍石はその間に入浴した。二人は浴衣に着替えた。月長石が青緑の絞りで、蛍石は水色の波模様の浴衣だ。兵庫帯を合わせて二人がリビングに姿を現すと、男たちから賞賛の声と眼差しが送られた。蛍石はえへへと笑い、照れている。
夕食はオムライスとオニオンスープだった。スープは缶詰の物を使った。紫水晶と薔薇への料理指導に苦戦して疲労した黄玉が、最初は作る積もりだったところを妥協したのだ。時折、オムライスを食べる口の中でジャリ、という異質な音がしたが、それ以外はまともに食べることが出来た。黄玉の奮闘の賜物だろう。共同作業を通して少しは仲が深まったのか、夕食の席で黄玉と紫水晶たちはそれまでより多く会話していた。そうは言っても、大半は黄玉の愚痴だった。
珪孔雀石は赤ワインを呑みながら、笑んでその光景を眺めている。
月長石はそんな珪孔雀石を見ていた。
夕食のあとは、それぞれテレビを見たり雑誌を読んだり、部屋に戻ったりばらばらの時間を過ごす。月長石は部屋で別荘の地図を眺めていた。月長石たちの部屋は専ら二階にある。紫水晶が壁についての違和感を訴えたのは一階と二階の両方。しかし、部屋と部屋の間に空洞があったとしても、出入り口がやはり解らない。人が生活を営むには、スペースが狭過ぎる。
月長石は思考を放棄して、グワッシュ画を描き始めた。こうしていると気持ちが落ち着く。遅い夜の蝉が鳴くのも気にならない。時折、蝙蝠が窓硝子に当たるぺちぺちとした音がした。溶け込むような夜の間合いに月長石の心は静かに保たれ、感覚が広がっていくようだ。気づくと随分、時が経ち、一階の物音も途絶えていた。皆、寝静まったのかもしれない。
その時、月長石の耳が微かな音を拾った。それは彼女の中でシグナルとなった。音は一階からだ。月長石は部屋の隅に置いていた杖を握る。廊下に出ると、ぱらぱらと他の顔触れも出てきていた。蛍石も杖を持っている。飾りではない。実戦用だ。珪孔雀石が先頭に立ち、一階に降りる。
数人の、覆面を被った男たちがいた。手には金属バット。
月長石たちに気づくとはっとしたように襲い掛かってくる。すかさず月長石と蛍石が前に出る。
「紫水晶、下がって」
月長石が緊迫した声音で命じる。
「薔薇、動かないでね」
蛍石も告げた。少女たちは戦闘態勢に入っている。杖を旋回させてから侵入者の攻撃を防ぎ、その反動で相手の腹部を杖の先で突く。月長石は人の急所であるところを過たず打ち、或いは突いた。杖で金属バットの攻撃を受け流す。澄んだ金属音が響く。黄玉は徒手空拳で相手をしている。鮮やかな後ろ回し蹴りが侵入者の首に当たる。振り下ろされた金属バットを避け、それを掴み、腹部に拳をめり込ませる。総勢で八人の侵入者を、全て捌き切った頃には、流石に月長石たちも疲れていた。彼女たちの手の回らないところは全て珪孔雀石がフォローした。
管理人たちも駆け付け、警察を呼び、とりあえず侵入者全員を別荘の物置にあった縄で縛り上げる。
「なぜうちを狙ったんだい?」
珪孔雀石は尋問の声も穏やかだ。だが、穏やかさの中に有無を言わせない圧力がある。
「……戦時中の宝があると聴いた」
「ないよ、そんなものは」
「誤魔化すな。ここいらじゃ有名な話だ。この別荘にはお宝が眠ってるって。そうでなくても金持ちの別荘だ。何がしかの金品はあるだろう」
「浅はかだね」
珪孔雀石は嘆息した。
月長石は怪訝に思った。宝とは何だろう。『矢車』は違うだろう。この別荘にそんな物があるとは、少なくとも彼女は聴いたことがない。けれど何か引っかかる。宝。壁の違和感。地下食糧庫。枯れ井戸。あらゆるピースが一つに集約される気がする。だが、肝心の答えは未だに霧の中だ。やがて警察が到着し、侵入者たちを逮捕、連行した。月長石たちも簡単な事情聴取を受けた。一連の作業が終わってからは皆疲労が出て、部屋に引き揚げるとすぐに寝入った。
月長石は中々寝付けなかった。久し振りに杖術を使った興奮もある。徴兵忌避。その言葉が頭に浮かぶ。なぜ、宝などという話になったのだろう。この別荘は言わば逃亡場所であり、隠れ家だった。悲壮と苦痛があるだけで、煌めいた宝とは一切、無縁だ。だが侵入者は言ったのだ。このあたりでは有名な話だと。
――――カモフラージュではないだろうか。
徴兵忌避者を匿っているという事実を糊塗する為の。そうであれば合点がいく。寝返りを打つ。壁にそっと手をつける。この壁の向こうに、隠された人々の思いがある。その推測は月長石の胸をざわめかせた。恐らく、これらの謎が解けた時、藍晶石の日記も見つかる。月長石はそんな予感がした。
翌日は遅い目覚めとなった。
もう月長石以外は朝食を済ませている。
「珍しいね、月長石。昨日の騒動で疲れた?」
珪孔雀石がパンケーキの載った皿を差し出しながら問いかける。僅かに心配の色がある。
「ちょっと。色々、考え事をしてて」
「そう」
パンケーキを食べてオレンジジュースを飲むと、意識がだいぶしゃっきりした。月長石は、この別荘は暴かれる時を迎えていると思った。
長く内に秘めたものが膨張し、明るみになる。そんな時を。だから、珪孔雀石にも訊いてみた。
「珪孔雀石。青金石が好き?」
珪孔雀石の穏やかな面が揺らいだ。だがその揺らぎは一瞬だった。彼は逃げなかった。
「好きだよ」
「いつから?」
「彼女の存在と、話を聴いた頃から。もうずっと」
「苦しくはないの」
月長石がそう問いかけると、珪孔雀石は名状し難い表情になった。
「そうだね。苦しいけれど、どうしようもないことはあるから」
水色の双眸が波紋のあとのように静まっている。静かに。珪孔雀石は想いを秘めてきたのだ。どうしようもないことだと言った。それは確かに正しい。この世には、どうしようもないことはたくさんある。そうでなければ『矢車』は生まれなかった。コランダムは死ななかった。月長石はそれ以上は何も言わず、朝食を終えて食器を洗った。
その日の午前中、紫水晶と薔薇が珪孔雀石に護身術を習っていた。昨夜、月長石や蛍石に庇われ守られたことで自尊心をいたく傷つけられたらしい。月長石にはよく解らないが男の意地というものなのだろう。
今日の夕食当番は月長石だ。地下食糧庫を開けて、果実酒の瓶を捜す。ビーフシチューの隠し味にしようと考えたのだ。硝子瓶が何本か並んでいるのが暗い中に見える。手を伸ばして取ろうとすると、その内の一本をひっくり返してしまった。幸い、蓋はしっかり閉めてあるらしく中身がこぼれ出すことはない。ほっとしてその瓶を置き直して、手近にあった二、三本を取り出す。そこで月長石の動きが止まる。蛍石の言葉を思い出す。彼女は言っていた。この地下食糧庫は小さなようで大きな気がすると。
月長石は再び地下食糧庫を覗き込む。密閉された空間特有の匂い。しん、と静かだ。手探りで、地下食糧庫の床を確認する。ピクルスや漬物、果実酒などをどかしながらそうしていると、固くてつるんとした丸い物に指が当たった。摘まんで引っ張ってみる。するとギイイ、と鈍い音がして、小さな扉が開いた。地下食糧庫の、更に地下に続く扉があったのだ。
月長石は妨げとなる瓶類などを上に出して、身体を食糧庫に滑り込ませた。開けた扉は辛うじて大人一人が通れる大きさだ。下に梯子が続いている。梯子を一段、一段、降りていく。壁の向こうの空洞と、この地下は関わりがあると月長石は直感する。やがて、地面に足がついた。