軍靴と逃亡
夕食のハヤシライスはこくがあって非常に美味だった。紫水晶は言うに及ばず、薔薇や黄玉もこぞってお代わりした。キャベツやレタス、胡瓜などの入ったサラダは口をさっぱりとさせる。珪孔雀石は赤ワインを呑んでいた。彼は輝水鉛鉱に、別荘にあるワインを自由に呑んで良いという許可を得ていた。それは少年少女を引率する労いでもあった。本来はまだ未成年である珪孔雀石は呑めないのだが、大学に入れば飲酒は黙認される。但し珪孔雀石は、紫水晶らがどんなに物欲しそうに見つめても、彼らの飲酒は許さなかった。
夕食が終わるとまた皆でカードゲームをやった。珪孔雀石が気を利かせて買ってきたスナック菓子やジュースを片手に、場は賑わいを見せた。そんな中、月長石が途中で抜けて、別荘のテラスに出た。
虫の鳴く声が聴こえる。遅く鳴く蝉の声も。
肌に触れる空気は街中よりさらりとして清涼だ。
空には満天の星がお喋りしている。
月長石はカードゲームをすることでコランダムのことを思い出していた。彼はゲームが強かった。それは儚い人と思えるコランダムの意外な一面だった。もっと早くに出逢えていれば、より多くの思い出をコランダムと築けたのだろう。詮無い考えと解っていても、月長石はそう思った。テラスの端に動くものがある。近づいてしゃがみ込むと、カナブンだった。仰向けに引っくり返っている。月長石はじたばたと手足を動かす小さな命を拾い上げ、外に放ってやった。カナブンは月長石の手を離れると勢いよく飛び立った。
紫水晶もテラスに出て来た。
「誰が一番、勝ってる?」
「蛍石」
「そう」
「あいつ、あんな気弱そうなチビなのに、勝負強いんだな」
ふ、と月長石が笑む。
「見かけで判断すると痛い目を見るよ」
「ああ」
「壁の謎は解けた?」
「いや。だが、この別荘は何か変だ。只の別荘じゃない。秘密の匂いがする」
そこで月長石は、珪孔雀石から聴いた徴兵忌避の話を紫水晶に語って聴かせた。紫水晶がまた思案顔になる。
「壁と壁の間に空間があるのかもな」
「でも、空気は? それに、住むには狭過ぎるし出入口もない」
「うーん……」
煮詰まった思考を、二人は持て余した。念の入ったことに紫水晶は携帯蚊取り線香を持っていたので、蚊には刺されずに済んだ。夏とは言え山裾だ。そろそろ中に入ろうと月長石が促し、二人は屋内に戻った。
自室に入ると、月長石は寝間着に着替えた。基本的に別荘では洋装で過ごすことにしている。着物は荷物になる。僅かな量だけ持って来て、部屋の隅に置いてある。そこからは虫除けの樟脳の匂いがした。
ベッドに入るとふかりとして日向の匂いがする。管理人が干しておいてくれたのだろう。紫の小花柄の、ラベンダーの香り袋が枕に置いてあり、すぐに月長石を眠りにいざなった。
苦しく辛い夢を見た。
月長石は逃げていた。
黒く大きく恐ろしいものが月長石や、彼女の大切な人を覆い尽くそうとしていた。
こんなことは望んでいなかった。普通に平凡に暮らしていければそれで良かったのに。
軍靴の音がする。
固く冷たい音。月長石は身を潜める。合図があるまで、油断は出来ない。
この、敗戦と定められた無益な戦争が終わるまで、決して油断することは出来ないのだ。
寝覚めは悪かったが、月長石は早くに起きた。
白いパフスリーブのシャツブラウスに黒いズボンを合わせて台所に向かう。サンドイッチを作っていると、蛍石も起きてきて手伝う。珪孔雀石が起きてきて、のんびりソファーで朝刊を読んでいる。それから黄玉、紫水晶、薔薇の順に起きて来た。
「あ、果実酒もあるんだあ」
地下食糧庫を覗き込んだ蛍石が声を上げる。
「うん?……うーん」
「どうしたの、蛍石」
「月長石。この食糧庫、何だか変」
「どんな風に?」
「ちっさく見えて、本当はもっと大きいみたいな感じがするの」
月長石も地下食糧庫を覗き込んだが、彼女には蛍石の訴える違和感がよく解らなかった。蛍石も特に拘る風ではなく、月長石と朝食の支度を済ませると皆を呼んだ。
その日も別荘の探索は行われた。
「屋根裏部屋とかは?」
「ない」
紫水晶は外に出て、別荘の窓と窓の間隔を測った。やはり開きが微妙に大きい。だが、月長石の言ったように、部屋と部屋の間に空間があるとしても、その出入口は見つからないのだ。部屋の内部も探ってみたが、出入り口と思しきものはない。それとも室内のどこかに仕掛けがあって、それを作動させると開くような、物語めいた話なのだろうか。
昼は黄玉が作った冷麺を食べ、探索は一旦、打ち切って、それぞれ部屋に引き揚げた。
そんな風に、集団で密に過ごしていると、自分の巣穴に潜り込み独りになりたくなる時が訪れるものだ。
月長石は部屋で藍晶石のことを考えていた。ベッドに腰掛け、脚を組んで静止する。藍晶石は、妹の青金石に殉じるように、独り身を通した。彼もまた、翡翠輝石の死で人生を狂わされた一人であったのだろう。ふわり、と窓から風が舞い込む。
「…………」
月長石は考える。
今は決して風通しの良い時代とは言い切れない。けれど個人に約束された自由はある。それは表面上のものかもしれないが、表面上とて自由の許されなかった時代があったのだ。青金石たちは食べるには困らなかっただろう。だが、彼女たちの生きていた時代は、搾取した。生命、日常、ささやかな幸福。そんな諸々を。新聞で読んだことがある。戦時中には軍服のコートにする為、猫まで供出されていた。犬に爆弾を括りつけて兵器として使いさえした。
狂っていたのだと思う。
「徴兵忌避した人はね、戦後も差別を受けて就職に響いたりしたそうだよ」
珪孔雀石はそうとも語っていた。だから、自分の過去を必死で隠したのだと。
戦争で死線を潜り抜けて生還した人間には、懲兵忌避は許せない行為だったのかもしれない。不公平だと。しかし月長石は思う。
そうだろうか。
不公平。
そうだろうか。
死ぬまで逃げたことに後ろ指さされながら、或いは逃げたことを隠し通しながら怯え生きることは、十二分に苦しいことだ。責めることは容易いけれど、その苦悩から、苦痛から、目を逸らすべきではないと思う。そのようにして、同じ国の人同士が、苦しみを秤にかけるのは、何だかとても虚しくて、悲しいことと思える。翡翠輝石は英雄だったかもしれない。だが、青金石や緑柱石、桜石、藍晶石にとっては、英雄でなくても良かったのだ。
只生きていてくれればそれで良かった。それを、毟り取られた。
月長石には、青金石の嘆きと怒りが理解出来るような気がした。コランダムを亡くした今となっては尚更に。
「……青金石……」
話したい。語り合いたいと思った。そうして抱き締めてやれたならどんなにか。逃げるということは恐ろしい。恐ろしい枷を人に嵌める。後ろめたさは真っ白な布についた泥の汚れのように一生、消えることはない。コランダムの逃亡とは意味合いが違う。翡翠輝石もまた逃げるべきではなかったか。彼は国の召集に応じて、真っ正直に戦地に赴いた。そして悲劇は起き、『矢車』は生まれた。今という時代の得難さを月長石は思う。月長石は伏せていた面を上げて、庭に出た。燦々と降り注ぐ日の下、蝉が今日も元気に鳴いている。空は泣きたくなるように青い。テラスの横に井戸がある。枯れ井戸だ。危ないから近づかないように、子供の頃から言われてきた。何となく、足がそちらに向く。手前で止まる積もりだった。けれどその前に鋭い声が飛んだ。
「月長石っ!」
振り向けば怖い顔の珪孔雀石が立っている。
「危ないよ。近づくんじゃない」
「解った」
月長石は素直に引き下がった。こんなに血相を変えた珪孔雀石は珍しい。そのことが、月長石の中に小さな疑念の種を芽吹かせた。珪孔雀石の元に歩み寄りながら語り掛ける。
「珪孔雀石。珪孔雀石は、憎んだことがある? 逃げたことがある?」
「――――いいや。僕はそのどちらもないよ。幸運なことにね。青金石は、気の毒だった」
思春期の少女特有の勘で、月長石は気づいた。
珪孔雀石は青金石に恋をしている。