大人は秘密を持ちたがる
潮の香りがする。
寄せては返す波の音。強い日の光、ぴかぴかに磨き上げた硝子窓のような青空。
珪孔雀石の運転する車で、月長石たちは海に来ていた。もう海月が出始める時期なので、泳ぎはしない。波打ち際を散策などして楽しむ。夏期講習が終わり、正真正銘の夏休みを、月長石と黄玉、薔薇は手に入れた。紫水晶は三年ということもあり、模試などでまだ忙しいが、それでも遠出することで束の間の息抜きをしていた。蛍石はミントグリーンの、月長石は紫のノースリーブワンピースを着ている。彼女たちはビーチサンダルを履いて、貝殻拾いに勤しむ。紫水晶に薔薇、黄玉は浅瀬に足を浸け、時折、水を掛け合っていた。保護者役の珪孔雀石が車体にもたれながら、そんな少年少女を見守る。ゆりかもめや鳶などが空を舞っている。珪孔雀石はとりわけ月長石をじっと見つめていた。コランダムを喪った痛手から、まだ回復していないように思える。無理もない。月長石にとっての初恋で、亡くしてからまだ間もないのだ。瑪瑙たちとの遣り取りの一件は、珪孔雀石も聴いていた。そして、故人を軽んじる瑪瑙らの振舞いに憤った。月長石の怒りは当然のものだ。
「まだ何かある気がするんだよな」
砂浜にビニールシートを広げて、氷晶石が用意してくれた弁当のお握りを食べながら、薔薇が言う。鳶が上空からおかずを狙っているので警戒する必要がある。
「何かって?」
紫水晶が弟に尋ねる。
「大人たちさ。まだ皆、全てを話してはいないんじゃないか?」
「『矢車』の謎は解けただろう?」
「それだけじゃなく。青金石に関してさ。上手く言えないけど」
薔薇は勘が鋭い。彼が感じる違和感を、月長石も同様に感じていた。
「藍晶石の書いた日記があると、以前、輝水鉛鉱さんが話していたな」
ビールの缶を持ち、思い出したように珪孔雀石が言う。左手には唐揚げ。目線は鳶をじ、と睨んでいる。
「青金石の一番上の兄の? その日記はどこにあるの」
紫水晶の追求に、珪孔雀石は肩を竦める。
「解らない。別荘あたりが怪しいと、僕は睨んでるんだけどね」
「別荘」
「うん。今年は、色々あって避暑に行かなかっただろう?」
月長石は考え込む表情で、水筒に入れて来たお茶を飲んだ。違和感。そうだ。薔薇に指摘されて、月長石の意識の水面下にあったものがぽっかりと顔を出す。大人たちが一斉に口を噤み、語らない何かが、まだある。それはそうと気づいてしまえばどうしようもなく気に掛かるものだった。月長石は、ぴーひょろろと鳴く鳶の影を見る。大人は秘密が大好きだ。子供には解らないものだと決めつけて、皆で輪を作りその中に秘密を囲い込んでしまう。それが月長石には腹立たしかった。
「ねえ、月長石。大きなサザエの貝殻が拾えたね」
蛍石は無邪気だ。戦果を嬉しそうに握っている。
「残念だけどね、蛍石。それはきっと、ここに来た人が持って来て焼いて食べたものだよ。ほら、醤油の匂いがする」
珪孔雀石が言うと、蛍石は目を丸くして、落胆の表情になった。言うことないのに、と薄々察していた月長石は思った。今、笑えている自分が不思議だ。
コランダムは逝ってしまったのに。二度と逢えないのに、呑気に海になど来ている。海は一色ではなく、浅い青、藍色、紫、碧、紺色などが入り混じっている。その中にコランダムの色を探してしまう。もう逢えないと解っていても、彼を恋うる気持ちは少しも変わらず、寧ろ日増しに強くなるようだ。大人たちは一体、何を隠しているのだろうか。子供には早い、あっちに行けと追い払うように。理不尽だと月長石には思えた。
海から帰り、入浴を済ませて、さらりとした絽の着物に着替えた月長石は、輝水鉛鉱の書斎をノックした。応答がある。扉を開けると、父は柔和な笑顔で娘を迎え入れた。コランダムが亡くなってから、氷晶石も輝水鉛鉱も、月長石にひどく優しく接する。そのことがまた、月長石を泣きたい気持ちにさせた。喪ったものの大きさを嫌でも思い知る。
「何かな、月長石」
「父さん、藍晶石の日記って知ってる?」
すう、と輝水鉛鉱の表情から笑みが消える。
「なぜそのことを?」
「珪孔雀石が言ってた」
「あれは藍晶石の個人的な記録だ。月長石たちが見るものじゃないよ」
やはり、日記に何かあるのだ。
薔薇の勘は正鵠を射ていた。月長石は拳を握り締める。青い着物には金色の月の刺繍が全体に施され、月長石を神秘的な雰囲気で包み込んでいた。輝水鉛鉱はそんな娘の様子に目を細くする。
「別荘に行きたい」
「……僕は忙しい。連れて行くことは出来ないよ。諦めなさい」
「珪孔雀石に連れて行ってもらう」
「月長石……」
輝水鉛鉱は痛ましいものを見る眼差しで娘を見る。鉛色の瞳には、悲哀があった。輝水鉛鉱は立ち上がると、月長石の前まで行き、彼女を抱き締めた。人生を歩き始めてまだ年数の浅い少女。人生の痛手を、刻み込んでしまった少女。まだ若木のように細く頼りない身体に、無数の傷がついている。傷は塞がることなく、血を流し続けている。
「月長石。コランダムのことは、避けられないことだった。僕はもう、月長石に悲しい思いをして欲しくないんだ」
「日記を読めば、私が悲しむと思うの」
月長石が低く、くぐもった声で尋ねる。
「いや。いや、僕は青金石の意思を尊重しているんだ」
「父さん。別荘に行く許可を頂戴」
輝水鉛鉱は娘の身体をやんわり放した。定められた流れというものはあるのかもしれない。コランダムが逝き、『矢車』の秘密は明かされ、そして今、月長石は最後の謎のピースに迫ろうとしている。なるべくならそっとしておいてやりたかった。輝水鉛鉱のその思いは、青金石と、そして翡翠輝石に対する感傷だ。それから輝水鉛鉱は机の抽斗を開けて鍵を取り出した。ずっしりとした、真鍮の鍵は、元々金色に輝いていたのが、所々、落剝している。その鈍い金色の鍵を、輝水鉛鉱は娘の掌の上に乗せた。
「別荘の鍵だ。珪孔雀石に連れて行ってもらいなさい」
「ありがとう」
「但し、約束しておくれ。別荘の中を捜しても良いけれど、それでも見つからない時は日記を諦めること」
「解った」
月長石が退室したあと、輝水鉛鉱は椅子に深く座り、頭を両手で支えた。人生に散らばる謎を全て明かすことは無粋だ。しかも、故人のごく私的な事情を明るみに出すことに何の意味があるのだろう。だが、月長石は何度となく青金石の魂と接触した。月長石に資格がない、とは、輝水鉛鉱にも言い切れないのだった。
「コランダム。君は早く逝き過ぎた」
輝水鉛鉱は低く呻いた。娘の心を奪った幼馴染は、今頃、どこにいるのだろうか。
静かな夜だった。
虫や鳥が鳴くことを遠慮しているような静謐さ。月長石は机の上に、輝水鉛鉱から受け取った鍵を載せて、自分の肌の匂いを嗅いだ。入浴しても、まだ潮の香りがするように思える。こつりと鳴った窓を開けると、もう自室に入るかのような自然さで紫水晶が入り込む。彼からも仄かに潮の香りがした。共に時を過ごした証に月長石はふと気持ちを和ませる。
「父さんから別荘に行く許可を貰った」
紫水晶が横目で金色の鍵を見る。
「やっぱり、日記は別荘に?」
「多分」
「俺の模試と英検がない日に合わせてくれ」
「一緒に来るの?」
「ああ。薔薇も」
「金剛石さんが許してくれるかな」
「大丈夫だろう。最近、かなり柔軟になってる」
「――――そう。良かった」
紫水晶の口振りから推測するに、もう彼は蔵には入れられていない。この先もずっとそうであれば良いと願う。ジャワ更紗で仕立てた浅葱色の帯に着けた、桔梗の花の銀細工を撫でながら、月長石は微笑む。紫水晶はその微笑から目を逸らした。月長石は、時々、コランダムのような微笑を浮かべる。透き通って儚い。だから、紫水晶は、月長石まで連れて行かれてしまうのではないかと怖くなるのだ。
「手を出せ」
「え?」
紫水晶に言われるまま月長石が手を出すと、桜色がぱらぱらと降った。
桜貝だ。
「これ、海で?」
「うん。お前にやるよ」
「……ありがとう」
月長石は桜の頃を思い出していた。
まだ何も知らなかった自分。コランダムに出逢うより前。
桜貝は電気の光を受けてきらりと光った。
絵:Irisさん。