桔梗の花の銀細工
本当に掛け替えのない人を喪った時、人は虚となるのかもしれない。月長石は表面上は変わらなかったが、心持はぼう、として、惰性で日々を送っていた。夏休みの宿題はもう済ませた。このあたりの抜かりのなさが、月長石は我ながら嫌いだった。もっと手離しで嘆き悲しみ、コランダムの思い出に浸ることが出来たならどんなに良いか。鏡台の前には灰色の宝石箱が置かれている。全ての元凶がそれのせいのような気すらしてしまう時があって、月長石はそんな自分を持て余していた。着物を着る習慣は変わらず、今日も、永遠に連続する様から吉祥柄とされて古くは「石畳」と呼ばれてきた市松文様の着物を着ている。江戸の歌舞伎役者、佐野川市松が好んで着た為、「石畳」は「市松」と呼ばれるようになった。洋服の柄で言えばフラッグチェックだ。その着物に桔梗と百合の柄、そしてパッチワークをあしらった紬地の帯、水色の帯締めに白の帯揚げ、桔梗の花の銀細工の帯留めを合わせている。桔梗の花は今では月長石の中で特別な花になった。コランダムから摘んでもらった桔梗は辞書に挟み押し花にしている。夜の海に揺蕩いながら、彼女は本を広げていた。内容は頭の中に入っていない。なぜ自分は生きているのだろうと考えていた。それは埒のない考えだったが、月長石の心は、ともすると逝ってしまったコランダムに添いそうになる時があった。
こつりと鳴る窓に立ち上がる。
紫水晶はコランダム亡きあとも月長石を訪ねてきたが、特に何を語る訳でもなく、ただ、月長石の傍らにいた。月長石はその行為に無言の慰撫を感じた。紫水晶は鏡台の前の宝石箱を横目で見た。細い息を吐く。表面上は変わらずとも、今の月長石からは覇気というものがまるで感じられない。コランダムと一緒に、彼女の魂の核の一部まで逝ってしまったように思えた。紫水晶は自分の手を見た。まだ成長途中の、大きくない手。月長石の嘆きを包むには到底、足りない。コランダムはなぜ逝ってしまったのか。けれど彼がコランダム足り得たから月長石は惹かれたのであり、そしてコランダムであるからこそ、彼は早世したのだ。それらの事象は動かすことの出来ない厳然たる現実だった。
「『矢車』を大事にしろよ」
「どうして」
「コランダムの形見だ。あいつは、お前に託したんだ」
「あの人は、どうして逝ってしまったの……」
月長石の薄青い目が、虚ろに紫水晶を映す。紫水晶は言葉に詰まった。言えることならいくらでもあった。けれどそのどれも、月長石の問いの答えではないと知っていた。月長石もまた、紫水晶の答えを期待してはいなかった。ただ、漏れ出た問いなのだろうと紫水晶にも解っていた。月長石は帯留めを撫でた。そこにコランダムがいるかのように、慈しむ手つきだった。紫水晶は責め、詰りたかった。コランダムを。月長石を。けれどそうしたところで何が変わる訳でもないことは、誰より彼自身が知っていた。
「今度さ、海に行こう」
「海?」
「うん。薔薇や、蛍石たちも一緒に」
「良いね」
紫水晶の提案に、月長石は微笑して応じた。その微笑はさながらコランダムを思わせるような、儚く透き通った微笑だった。
だから、紫水晶はそれ以上、何も言えなくなった。
その夜、月長石は夢を見た。
亜麻色の髪の少女が笑っている。
貴方もこちら側に来たのねと言って。月長石が首を傾げると、じれったいように、大事な人を亡くす気持ちが解ったでしょうと言う。彼女の笑みは歪だった。不快に感じた月長石の前で、次に少女、青金石は泣き出した。忙しない。
翡翠にいさまが見つからないのと訴える。
月長石は彼女の髪を撫でてやる。
コランダムの言葉を伝えた。
貴方のすぐ近くにいるよと。彼女はそれでも泣き続ける。かぶりを振って。見つからない、見つからないのよと繰り返す。
月長石には見えていた。
青金石の横後ろに立つ、亜麻色の髪の青年。
なぜ、青金石には見えないのだろう。こんなに近くにいるのに。
何か決定的な要素が、欠落しているのだ。青金石はそれを悟らないと、翡翠輝石には逢えない。月長石は詮方なく、青金石の髪を撫でた。泣き続けるいたいけな少女の髪を、ずっと撫で続けていた。翡翠輝石の視線を感じながら。
朝はいつものようにやって来た。
月長石は浴衣から花柄の木綿の着物に着替えた。色は鶯だ。帯留めは昨日と同じ、桔梗の花の銀細工。今日もじわじわと蝉が鳴いている。肌が汗ばんで、冷房なしで過ごすのはきつい。広間に行って朝食を食べ、氷晶石の横で洗い物の手伝いをした。招かれざる客がやって来たのはそのあとだった。
「『矢車』を渡して頂戴な」
横柄な口調で、顎をそびやかしながら、訪問の挨拶も省いて瑪瑙はそう切り出した。彼女の横には尖晶石と、尖晶石にそっくりだが、まるで異なる印象を受ける少女。
「お渡し出来ません」
月長石が静かだが確固とした口調で応じると、瑪瑙はまなじりを吊り上げ、拳で切り込み細工のテーブルを叩いた。
「小娘が! 紫水晶ばかりでなくコランダムにまで色目を使って。あの至宝はお前などが触れて良いものではないのよっ!」
「瑪瑙。月長石を侮辱することは許さない。君はコランダムの遺志を蔑ろにする気か」
普段は温厚な輝水鉛鉱が眉間に皺を寄せて憤慨している。
「泥棒猫はどこまで行っても泥棒猫ね」
「やめなさい、尖晶石」
窘めたのは、尖晶石に顔の造作だけはそっくりな少女だった。
「月長石。彼女は晶子だ。尖晶石の姉だよ」
輝水鉛鉱が娘に紹介する。月長石は合点が行った。緑柱石の言っていた『双晶』。穏やかで、良い子だと。加えて、緑柱石は彼女たちの名前のこぼれ話もしていた。元々、晶子のほうが「尖晶石」の名前だったのだと。だが、成長した妹が駄々をこねてその名前を欲しがった為、姉が譲り、今の二人の名前に落ち着いたのだ。月長石は晶子の気苦労を推し量った。妹がこれでは大変だろうと同情する。つまり晶子は、妹と瑪瑙のストッパー役を務める為に同行したのだ。
「瑪瑙。金剛石でさえ引き下がったのだよ。聴き分けるんだ」
「あの人は、氷晶石に遠慮しただけよ! 昔からそう。氷晶石には甘いんだから。金剛石も誑かされてるのよっ。母子して、汚らわしい!」
喚く瑪瑙は癇癪を起した子供のようだった。
ああ、寂しいのだと月長石は察する。彼女の愛する夫は氷晶石を想っている。
「いい加減にしないか、瑪瑙」
輝水鉛鉱が怒声を発したのと同時に、鋭い雨が瑪瑙と尖晶石の上から降り注いだ。雨は、ホースから放たれた水だった。
氷晶石が応接間の入り口に立ち、ホースを手にしている。彼女の表情はひどく冷たいものだった。ホースから放たれた水より何倍も。
「少しは頭が冷えたかしら」
「氷晶石……っ。この、野蛮人」
「貴方に言われる謂れはないわ」
炎のように苛烈なのが瑪瑙だとしたら、どこまでも冷徹であるのが氷晶石だった。どちらに軍配が上がるかは明らかだと見て取れる。
「瑪瑙、やめなさい。みっともないよ」
猛り狂っていた瑪瑙が、ぴたりと止まる。
金剛石が氷晶石の後ろから姿を現したのだ。瑪瑙の変化は劇的だった。彼女は夫の叱責を受け、幼い子供のようにおどおどした表情になった。
「私と一緒に帰るんだ」
「でも、貴方……」
「口答えかい?」
瑪瑙はぎり、と奥歯を噛み締めると、黙り込んだ。急に静かになった応接間に蝉の声だけが響き渡る。晶子は妹の肩に手を置いた。潮時だと瑪瑙も尖晶石も思わずにはいられない情勢だった。月長石の中、何かがぷつんと音を立てて切れた。彼女は勢いよく立ち上がると目を瞠る人々の間を駆け抜け、自室に向かい、また応接間に戻った。その手には灰色の宝石箱がある。月長石はそれを瑪瑙に投げつけた。きゃ、と短い悲鳴を瑪瑙が上げる。
「欲しいなら持って行けば良い。でもその代わり、コランダムを返して」
「月長石」
「返してよ! あの人を、返して――――」
静寂がその場を支配した。
誰も何も言わなかった。月長石は肩で息をして、瑪瑙を睨みつけていた。