さようなら
白い空間に月長石は佇んでいた。
ただ白いだけではなく、緑や青、赤や黄色、様々な色を内包したような白だった。ユトリロの白だと月長石は思う。コランダムが立っている。いつも通り、穏やかに。儚い微笑を添えて。彼は語る。
『雲が動いている。風が吹き、鳥が鳴いている。人がどのようにあろうと、万物はこのように、ただあるのだな……』
それはコランダムが手掛けた舞台の、主人公の最期の台詞だった。ふわりと頭を撫でられる。
『ありがとう、月長石』
コランダムが離れる。遠くなる。月長石の足は動かない。動くことが出来ない。その内、白い空間がべりべりと剥がれて、花びらとなって月長石に押し寄せた。花びらの海でもがきながら、コランダムの微笑を垣間見た気がした。
夢はそこで終わった。
コランダムの訃報が知らされたのは、その日の午前中のことだった。
月長石は両親に付き添われ、病院に行った。
コランダムの顔は、眠っているように安らかだった。もう動かないということが信じられない。通夜や葬式などの手配に大人たちが奔走する中、月長石はコランダムとの別れの時間を静かに過ごすことが出来た。蝉も今日ばかりはなぜだか鳴かない、不思議と静寂に満ちた日だった。ただ、夕暮れになると蜩の声が聴こえた。月長石は帰宅して、部屋の畳をぼうと眺めていた。心が麻痺したようで、悲痛はどこか遠い国にある。寂寞ばかりはしみじみと感じられて、茜色に滲む夕景にその感情を溶かした。一輪挿しに活けられた桔梗はまだ生気を放っている。あの花を、髪に挿されたのはついこの間のことなのに。星型の青紫は、楚々とゆかしく月長石の心に添うようだ。
それから数日、空閑の邸は線香の匂いが漂った。葬式には月長石も黒い喪服で列席した。金剛石や紫水晶らの姿もある。皆が一様に黒い服を着ていることが、何だか現実離れして月長石には滑稽に感じられた。火葬して、コランダムの白い骨を箸で拾い上げる時も、月長石は冷静だった。コランダムはもうここにはいないと、そう感じた。
「夢で、逢えるね」
ぽつりと落とした呟きに、周囲の人間は柔らかい皮膚を針で突かれたような痛ましい顔をした。それら全ては、月長石にとって些末事だった。月長石は真夜中、座敷に安置された骨壺の入った白い箱に、口づけた。部屋に戻り、生成りに僅かな花柄しかない浴衣に着替える。帯は白。そうすると月長石自身も死に装束を纏っているようで、そして本人はそれで良いと思っていた。それで良い。コランダムに近く在ることが出来るのであれば。やや病的な感傷に浸りながら、月長石はグワッシュ画を描いた。気持ちを紛らわせたかった。窓が鳴るまで、月長石は作業にひたすら集中していた。窓を開けると、紫水晶がとん、と室内に着地した。Tシャツにジーンズという軽装だ。
「紫水晶」
「うん」
「あの人、逝ってしまった」
「ああ」
「逝って、しまった」
「ああ」
頑是ない子供のように繰り返す月長石に、紫水晶は根気よく相槌を打った。悲しい紫の瞳で月長石を見つめる。慰めるという行為が彼には至難の業で、そしてこの場合、下手な慰めは却って逆効果と思われた。紫水晶は、コランダムが月長石の心も一緒に持って行ったと感じていた。死者には勝てない。きっと月長石は、この先ずっとコランダムを想うのだろう。そう考えると遣る瀬無く、腹が立ってきた。
「お前は莫迦だ」
「そうかもしれない」
「この、莫迦……」
「うん」
今度は月長石が紫水晶の繰り言に付き合う番だった。
「どうしてあなたが泣くの」
「知るかよ」
月長石は紫水晶の頬を拭って、その手を月光にかざし、煌めきを眺めた。愚直で正直でぶっきらぼうな紫水晶は、優しさを秘めている。彼は泣けない月長石の代わりに泣いてくれているのだ。月長石は紫水晶の、紫がかった髪を撫でた。そうして、しばらくの間、そのままでいた。
心にぽっかり穴が開くとは、こういうことを言うのだろう。コランダムが逝ってからの月長石は、寂寞を持て余し、惰性で日々を送っていた。あんなに儚い人だったのに、その喪失は大きな痛手だった。自分の中で、彼の存在が如何に大きかったか思い知らされる。思えばコランダムを知った時から、彼を追って追って、彼のことばかりを考えていた。いなくなった今でも考えている。一緒に食べたソフトクリームの味や、皆で興じたカードゲームの楽しさ。月長石は庭の花々にホースで水を遣っていた。まるでホースが剣で、彼女は何かと戦っているようだ。思い詰めた表情の娘を、氷晶石が心配そうに見守っている。
金剛石の訪問はその日の午後だった。彼は喪に服する意味もあるのであろう、地味なスーツに身を包み、応接間のソファーに座ると長い脚を組んだ。
「『矢車』を渡してもらおうか」
死者を悼む口上を省き、金剛石が単刀直入に切り出した。輝水鉛鉱の顔がしかめられる。
「君はコランダムを惜しんではいないのか」
「もちろん、惜しんでいるとも。彼は才能があった。もっと長生きしたならば、更なる傑作を世に送り出したことだろう。だがそれと『矢車』は別だ」
「僕は持っていない」
「解っている。緑柱石様はコランダムに託した。そしてコランダムは恐らく、お宅の月長石に『矢車』を贈った筈だ。困ったものだな。一族の至宝を恋人へのプレゼント代わりにされては。彼は配慮に欠けていた。私は金剛石だ。至宝を受け継ぐに最も資格ある立場にいる」
「……金剛石。『矢車』は、純粋な想いの結晶だ。緑柱石様もコランダムも、そして月長石もそれを承知で引き受けていた。君は資格があると言うが、僕にはそうは思えない。君は、あれを背負うには余りに世俗に心を移し過ぎている」
憤慨するかと思えた金剛石は、意外に静かだった。数秒、沈黙する。彼は何か探し物をしている風情だった。道に迷い、途方に暮れた子供を輝水鉛鉱は連想した。
「そうだ。それが、私という人間だ。なぜか、そのようにしか生きられない……。輝水鉛鉱。私は、君たちと戯れていた子供の頃に戻りたいと、時に考える。他愛なく無邪気だった幼い頃に。私にも解らないんだ。どこで、道を違えてしまったのか」
「『矢車』なら、差し上げます」
不意に月長石の声が割り込んだ。彼女は応接間にいつの間にか入り込んでいた。灰色の宝石箱を金剛石に差し出す。
「私は、コランダムが生きていてくれたならそれで良かった。至宝なんて要らない。ただ、彼がいてくれたなら、良かった…………」
金剛石が月長石の顔と宝石箱を交互に見る。彼は逡巡しているようだった。やがて、ふ、と笑んだ。
「嘆きの海に沈む無垢なる姫君。今は引き下がろう。私が言えた義理でもないが、故人からの贈り物は、もっと大切にしなさい」
そう言い残し、金剛石は応接間を出て行った。輝水鉛鉱が気遣わし気な視線を娘に向ける。月長石の手から宝石箱が滑り落ちる。『矢車』が箱から飛び出して床に転がる。月長石の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
「――――月長石」
月長石の肩が震えている。輝水鉛鉱は立ち上がり、娘のもとに駆け寄った。
「コランダム。コランダム。嘘だと言って。逃げているだけだと言って。本当は。――――本当は生きているのだと、そう言って」
娘の泣き声が輝水鉛鉱の胸を抉る。彼は『矢車』を拾うより、嘆く月長石を抱き締めることを優先した。コランダムが死んで、月長石が泣いたところを初めて見た気がする。泣かなかったのだ。いや、泣けなかったのだ。悲しみが深過ぎて。父と娘、二人だけの応接間に少女の泣き声だけが響く。輝水鉛鉱はコランダムを恨めしく思った。彼は早く逝き過ぎた。娘の心を奪うだけ奪い、消えてしまった。もしも彼らが出逢わなければ、月長石の嘆きもなかっただろうか。そんな詮無いことを考え、それから首を振る。いや、そんな「もしも」は意味がなく、どうあってでも二人は出逢っていただろう、と。応接間の開け放した窓から風が吹き込んで来る。床に落ちた『矢車』が、所在なさそうにぽつんと転がっていた。輝水鉛鉱も思う。『矢車』より何より、コランダムこそが大事だった。彼の存在は、命は掛け替えないものだった。なぜ逝ってしまったんだ、コランダム、と、胸中で幼馴染に問いかける。輝水鉛鉱の中のコランダムは、微苦笑しているような気がした。