変わらぬ想い
外泊の許可が出たとコランダムが告げた時、月長石は喜びと絶望を同時に感じた。それは医師による、余命僅かなコランダムへの、最後の恩情に違いないと考えたからだ。しかしそれを面には出さず、そう、とだけ返した。
「君のお宅に泊まっても良いかな」
「え?」
「輝水鉛鉱たちに訊いてみてくれないか」
「解った」
コランダムの申し出は月長石には意外なもので、彼女は病室を出ると廊下で、帯に差し込んでいたスマホを取り出し家に電話した。氷晶石は準備をしておくと告げて暗に許可の旨を伝えた。飢えているのかもしれないと月長石は思う。コランダムは両親を早くに亡くし、その性質もあり、各地を転々としたと聴く。そんな彼が、普通の家庭の温もり、営みに飢えていたとしても、それは不思議なことではなかった。
再び病室に戻る。
「お母さんが準備するって」
「良かった。折角だから、お宅に伺うまで、一緒にどこか行こう?」
「うん」
二人は検討の末、ありきたりだが近くの遊園地に行くことに決めた。病室の窓からは大観覧車の姿が見える。約束を交わして病院を出た月長石は、どこかふわふわした心地だった。恐らくこれが最後の輝きになる。コランダムと自分の。そして自分の青春の中の。
その夜、総柄の更紗小紋に、正三角形や二等辺三角形が重なる連続模様である「うろこ」柄で生成りの塩瀬帯を合わせ、濃い水色の帯締め、濃いピンクの帯揚げを合わせて精緻な銀細工の帯留めをした月長石は、机に向かいグワッシュ画を描いていた。心は虚ろで、作業に集中出来ていない。嘆息したところで、窓がこつりと鳴った。待っていたような気がする。月長石は立ち上がり、窓を開ける。いつもながら軽やかに紫水晶が入室する。
「今度、コランダムがうちに来る」
「へえ」
「泊まるの」
「良いかもな」
紫水晶が大人びた笑みを見せる。彼にもコランダムの生い立ちは伝わっているのかもしれない。遊園地にも行くのだと話すと、楽しんで来いよと言われた。
「紫水晶も泊まらない?」
「俺?」
紫水晶が驚きに目を瞠る。
「うん。薔薇も呼んで。金剛石さんたちの許可が出るなら。――――なるべく賑やかにしたい」
「考えとく」
ふわり、と笑んだ紫水晶は、出逢った当初の頃と比べて随分、物腰穏やかになった。精神的な面で、急速に成長している気がする。このようにして過ぎるのだ。少年の時も、少女の時も。月長石はそれを惜しむような、誇らしく思うような、複雑な心境に陥った。もう夜だというのに蝉が鳴いている。夜の蝉は悲しい。命を惜しむ懸命さが、伝わってくる気がするから。それはとりもなおさずコランダムの儚げな微笑に通じる気がするから。
コランダムを迎えに行った月長石は、ミントグリーンのシャーリングの入ったシャツに紺色のズボンを合わせ、グレーの、金色の金具がアクセントとなったバッグを肩に提げていた。コランダムは青いボタンダウンのシャツに、黒いスラックスだ。こうして見ると男性的な印象をより強く受ける。二人で病院を出る時、月長石の鼓動はいつもより早かった。炎天下、スワトウ刺繍の日傘を差して、コランダムと並んで歩く。そのことが、とても特別なことのように感じられた。
遊園地ではコーヒーテーブルやメリーゴーラウンドに乗って、ソフトクリームを食べた。そのあと、観覧車に乗り、はるか眼下の景色を見下ろして楽しんだ。
空閑家ではコランダムは歓待された。紫水晶と薔薇も、夕方には合流すると言う。よく金剛石が許可したものだと輝水鉛鉱が言って、月長石は実際、その通りだと思った。恐らく金剛石は、緑柱石がコランダムに『矢車』を渡したと踏んで、コランダムの機嫌を損ねまいとしているのだ。そうした俗事は切り離し、月長石はコランダムを庭に案内した。
「ほら、朝顔、撫子、桔梗に、向日葵。結構、見られるでしょう」
「うん。綺麗だ。氷晶石が世話してるの?」
「それと、私と蛍石が」
コランダムは月長石のどんな些細な話でも、目を細めて聴いていた。花を摘んでも良いかと訊かれたので、月長石が頷くと、コランダムは桔梗の花を一輪、手折り、それを月長石の髪に挿した。
「桔梗の花言葉を知ってる?」
「……変わらぬ想い」
「君に捧げるよ。僕の心と、そして『矢車』を」
「――――え?」
「『矢車』は鉱石家の至宝だ。月長石ならきっと孤独になることもない。月長石。受け取って」
「金剛石さんが欲しがっている筈」
「放っておけば良い。現在の所有者は僕だ」
コランダムはそう言って、月長石の髪をさらりと梳いた。青と赤の混じる輝きは、静かに月長石を見つめる。一陣の涼風が吹いて、二人の髪の毛をそよりと撫でた。縁側に座る月長石とコランダムに、氷晶石がカルピスを出してくれた。それを飲みながら、二人は庭の花々に目を楽しませつつ、会話に興じた。夕方になると紫水晶と薔薇が表からやって来て、大学から帰った珪孔雀石も加えて邸内が一気に賑やかになった。それぞれが汗を流し、食卓に着く。客のいる晩餐は豪勢だった。冬瓜と挽き肉のそぼろあんかけ、牡蠣の酒蒸し、新鮮な刺身の数々に、小松菜と海老の出汁煮を冷やしたもの。ご飯は茸の炊き込みご飯だ。大人陣は日本酒を呑みながら、子供たちはめいめい、飲みたいものを口にしてご馳走に舌鼓を打った。
食事が済んだあとは、波模様で淡青色の絞りの浴衣を着た月長石の部屋で蛍石、黄玉、珪孔雀石、紫水晶、薔薇、コランダムの顔触れでカードゲームをして遊んだ。コランダムは意外に心理戦に強く、大抵のゲームで勝者となった。芋羊羹と冷えた緑茶を飲みながら、ゲームは遅くまで続いた。やがて蛍石が目を擦り、眠そうにしていたのを見た珪孔雀石が、お開きにしようと言い、コランダムも紫水晶も薔薇も、供された客室に向かった。この、日輪のように眩しく輝かしい時間は、きっとずっと、自分の中に残る。月長石は確信した。それはこの上なく幸福で、そして悲しい確信だった。夏の夜特有の、澄んで潤んだ空気は、秋とは異なる感傷を催させる。襖をノックする音に返事をすると、コランダムが入って来た。
「もう少し月長石と一緒にいたくて」
「うん」
その気持ちが何より嬉しく、二人で何を話すでもなく、ただ夜の深海に揺蕩っていた。コランダムの纏う空気はどこまでも静謐で清澄で、月長石はその空気に心を委ねた。机の上には桔梗の活けられた一輪挿しがある。電気を豆球のみにすると、薄闇が広がり、秘密の逢瀬めいて、その癖、郷愁めいて、二人を包む。やわやわとした月光が、窓の近くにのみその存在を主張していた。コランダムが、月長石が眠るまで傍にいると言ってくれたので、月長石は布団を敷いて横たわった。何を話すでもなく、時間を共有することの贅沢を月長石は感じた。そうして、気づくと安らかな眠りに落ちていた。
夢の中、ぽつんと一人、寂しそうな少女が立っている。彼女は、あなたばかり、と月長石を責める。私のにいさまは帰って来なかったのに、と。翡翠にいさまを返して頂戴、と。月長石は、それは出来ないと静かに答える。少女にも、それは解っているのだと思いながら。同時に、彼女の魂が安んじることを心より願った。青金石の魂は、このままだと悲し過ぎる――――。
翌日、紫水晶と薔薇は帰って行った。月長石も、コランダムを病院まで送った。その際、庭に咲く花々を伐って持って行った。コランダムが良い思い出に包まれていられるようにと。
「月長石。もし、青金石の魂に触れることがあったら、伝えてあげて。翡翠輝石は、君の近くにいると。ずっと、これまでもそうだったんだ。変わらぬ想いのまま、いたんだと」
「解った」
月長石はコランダムの言伝を請け負った。病院を出る。今日は貝殻虫と藍で染めた一等、特別な着物を着ている。そうでなければいけない気がした。昨日の思い出を反芻する。翡翠輝石が変わらぬ想いでいるのであれば、自分もまた、同じようにこの想いを抱いて生きて行くのだろうと思えた。コランダムを、青と赤の輝きを抱えて、生を送るのだ。桔梗の花の青紫は可憐であると共に一途でいじましい。道の向こうに陽炎が見える。揺れている。月長石はしゃがみ込まなかった。彼女の矜持がそれを許さない。凛然と立ち、道の向こうを見据えていた。
日は高く天にあり、月長石のこめかみから汗が伝った。蝉が相変わらず盛大に鳴いている。解っている。自分は去り行く夏。コランダムは枯れゆく森。そのさだめは変わることはない。コランダムの命運は間もなく尽きる。なのに世界は変わらないのだ。円滑に営まれるのだ。月長石は今であれば、青金石の気持ちが解る気がした。奪われて。不条理に。理不尽に。恨まないほうが不思議なことなのだ。だから、『矢車』は生まれた。至宝はたった一人の少女の涙の結晶なのだ。