継承
月長石はそれから足繁く病院に通った。通院の際は必ず、着物を纏った。ある日、コランダムに洋装ももっと見たいと言われて、それからは着物と洋服の割合が同じくらいになった。コランダムがそのように希望を述べることは珍しく、月長石は彼の言う言葉なら何でも叶えたい気持ちだった。夏期講習が始まってからも、汗を流してから午後、病院に行った。蝉の声が相変わらずかしましく、まるでコランダムの余命僅かであることを囃し立てるようであるのが、月長石の気に障っていた。本当はそうではないことも、もちろん彼女は知っていた。蝉はただ、少ない命を懸命に生きているだけなのだと。綿麻の青い縫い締め絞りに檸檬色の帯を合わせ、若草の帯締めに紫の帯揚げ、深い青のとんぼ玉を帯留めにして病院に向かう。手には向日葵の花束の入った葡萄蔓の籠バッグ。病室の戸をノックして開けると、コランダムが移動式のプラスチック製の板に原稿用紙を置いて万年筆で書き物をしていた。
「コランダム」
「やあ、月長石。……怖い顔だね」
「安静にしていなければ」
「うん。でも、ちょっと思いついちゃったからさ」
コランダムが悪戯坊主の顔で舌を出す。
「コランダム」
「解った。もうお仕舞にするよ」
観念したコランダムは万年筆を置き、大人しくベッドに横たわった。全く気が抜けないと月長石は思う。コランダムは思っていた以上に童心を持った大人のようだ。
「向日葵だね」
「うん。切子硝子の花瓶も持って来た。活けるから待ってて」
月長石は籠バッグから花束と花瓶を取り出すと、籠バッグは椅子に置いて病室を出た。手洗い場まで行って花瓶に水を入れる。透明に透明の水がみるみる満ちる。半ばを越したあたりで水を止め、向日葵を活けた。病室に戻るとコランダムは窓の外を眺めていた。その輪郭は透き通るようで、今にも彼が「あちら側」に行ってしまいそうな恐怖を月長石に与える。月長石はベッド脇のサイドテーブルに花瓶を置いた。コランダムがこちらを向いてありがとうと言う。それから、改めて月長石の装いを上から下まで見つめる。いつもこうだ。コランダムは、月長石の姿を目に焼き付けておこうとするかのように、彼女を見つめるのだ。そしてそれがあながち間違いでもないのであろうことが、月長石を遣る瀬無くさせる。残された時間の短さを思い知らされる。
「生まれ変わったら月長石の帯留めになりたいな」
「……」
「君と一緒にあちこち出掛けて、君を見守るよ」
「元気になって、退院してからそうして」
「そうだね」
だがそれが叶わないことくらい、コランダムも月長石も承知していた。月長石は手で拳を作り力を籠める。その中に、コランダムの命を握り締めるように。憂いに沈む月長石の横で、向日葵の黄色だけが場違いな程に明るい光を発散していた。
「月長石、お帰りなさい」
「ただいま、蛍石」
「月長石、月長石」
「うん?」
「ちょっとこう、くるっと回って」
蛍石に乞われるまま、玄関でくるりと回ると、蛍石がほう、と溜息を吐く。
「やっぱり素敵」
「着付けしてあげようか」
「ほんと?」
「うん。約束だったしね」
月長石としても、何かしていたほうが、気が紛れる。特にこの、無邪気な少女が相手だと、心が和むのだ。月長石の部屋に二人で移動する。
「この季節だから、浴衣から覚えたが良いかな」
月長石は桐箪笥を開けてピンクに白い撫子が大きく染め抜かれた絞りの浴衣を取り出した。
「大切なのは衿と衣紋、前のおはしょりの三点。ここを決めれば綺麗に見える」
言いながら月長石は肌着姿になった蛍石の腰のへこみに合わせて補整のタオルをジグザグに畳む。
「浴衣が身体からはみ出さないように幅を取ること、胸元の余分な空気を抜くことも大事。帯のしだれ文庫は結び目を高い位置で。――――ほら、可愛い」
月長石が鏡台の前に蛍石を導く。月長石の選んだ浴衣は淡藤色の斜め格子柄の帯と合わせて、蛍石の可憐な雰囲気によく似合っていた。蛍石の目が輝いている。
「わあ、わあ、」
「みんなに見せておいで」
「うん!」
元気よく頷き、蛍石が部屋を飛び出したあと、着崩れを多少、心配しながらも月長石は微笑んでいた。そして、その微笑が消えたあとは、能面のように無表情になった。
緑柱石がコランダムの入院する病院を訪れたのは、その数日後だった。全体を緑系統の色で統一した和装。更紗調の模様を配した訪問着が緑柱石生来の威厳を否応なく高めていた。院内の人々は誰しも鉱石家の女王の姿に振り返り、或いは見惚れた。
「お邪魔するよ」
ノックの音と共に病室の戸を開ける。
「――――何をしておいでだい、コランダム」
「あ、緑柱石様、ちょっと待ってください。今、良いところなんです」
コランダムは相変わらず万年筆片手に原稿用紙に何やら書き込んでいた。その、青と赤の混じった頭を帯に差し込んでいた扇子でぴしりと叩く。流石にコランダムが手を止める。
「お前は自分の命を何だと思っているんだい」
「すみません……」
コランダムは最長老の叱責にもさして堪えた様子なく、頭をかりかりと掻く。緑柱石はそんなコランダムをじっと凝視する。原稿用紙の上に、コトリと灰色の宝石箱を置く。
「『矢車』だ」
「緑柱石様」
「否やは言わせないよ。これは、お前に継がせる」
「僕の余命をご存じでしょう」
ふんっ、と緑柱石が鼻を鳴らす。
「知ったことではないね。お前のことだから、どうせ金剛石か輝水鉛鉱あたりに譲れと言うんだろうが、私は決定を覆さないよ。お前が目の前にいるからにはね」
コランダムは青と赤の入り混じる双眸で緑柱石を見て、それから宝石箱を見た。
「そもそも、鉱石家の始祖は鉱山主として名を馳せた三名だった。彼らが、後に青金石、月長石、紫水晶と称されるようになり、格式高い存在と見なされた。私はねえ、コランダム。青金石が哀れで仕方ないよ。同時に、とても腹立たしくもある。彼女はもっと誇り高く、自覚を持って生きるべきだったのさ」
「故人を悪く言うのは、どうかと」
「……そうだね。私の愚痴だ。忘れておくれ、コランダム」
「『矢車』は、僕の選んだ人に受け継がせて良いですか」
「良いよ。持ち主となったからには、お前にはその権利がある。但し、ようく考えて慎重に決めることだね」
「はい」
しばらく、二人は沈黙し、室内には蝉の鳴き声だけが響いた。
「コランダム」
「はい」
「お前、本当に死ぬのかい」
「はい。僕はコランダムですから」
「――――莫迦な子だよ」
「すみません」
「あの子が、月長石が泣くよ」
「はい……」
「莫迦な子だよ」
緑柱石は繰り返すと、コランダムの頭を母のように掻き抱いた。蝉は変わらず鳴き続け、コランダムは目を閉じて母に似た抱擁に身を委ねていた。