残照に蜩が鳴く
セットが動き、舞台の上では時が遡る。
明治時代。華族の一族の当主後継を巡る諍いの後、という設定だ。
当主であった父親を亡くした男は母親の早い再婚に落胆し、酒を呷っている。
彼の中には父親の死への疑念があった。母親の再婚相手は、一族当主の座に納まったことになる。
『お兄様。そんなにお酒を呑まれては毒ですわ』
窘める妹の手を無言で掴み、男は引き寄せる。妹も大人しく男に身を委ねる。
『毒。毒。そうか。もしかすると父上は』
そう呟きながら男は妹と愛し合う。禁断の恋だ。
場面が変わり、男は暗い夜道を歩きながら時折きょろきょろと不安そうにあたりを見渡す。父親の亡霊が現れるという話を耳にし、彼は不気味な城壁まで足を運ぶ。果たして現れた父の亡霊から、男は父が母親の再婚相手に毒殺されたのだと告げられる。復讐を誓う男は最愛の妹と母親以外には真相を告げず狂気に陥った振りをする。やがて母親との密談を聴いていた家の執事を男は誤って殺してしまう。
ここで最初の場面に戻る。
男は母親と口裏を合わせ、偽装工作をして一族の別邸に逃げる。
だが翌朝、彼に伝えられた報せは、執事の息子が殺されたというものだった。
混乱に陥りながら、母親と妹に事の真相を確認しようとするも、迂闊に動くことは出来ない。そうする内、男が犯人ではないかという疑惑が、他ならぬ殺した筈の執事から生じ、追っ手が放たれる。ともかくも男を捕縛せよと。男は逃げる。殺した筈の執事からの追っ手から逃げながら、事の真相を探っていく――――――――。真相に辿り着いた男は死の縁に瀕しながら最期の台詞を絞り出す。
『雲が動いている。風が吹き、鳥が鳴いている。人がどのようにあろうと、万物はこのように、ただあるのだな……』
舞台が幕を閉じたあと、拍手喝采が大音量で鳴り響いた。再び緞帳が開いた時には総キャストと演出家、舞台監督、そしてコランダムの姿がそこにはあった。再び拍手が起こる。月長石たちは目線で頷き合って、その場を出た。廊下に出てここからは関係者以外立ち入り禁止と書かれた一線の前、門番のように立つ男に告げる。
「空閑家の者です。コランダムさんとお会いしたいのですが」
「――――少々、お待ちください」
月長石はほっとする。門前払いは喰らわずに済みそうだ。
数分後、コランダムが楽屋の一室から出て来た。月長石たちの姿を認めると微笑む。彼特有の、儚い微笑だ。
「やあ。舞台はどうだった?」
「凄かった。圧倒された。あんた、才能あるんだな」
思いの外、素直に賞賛したのは紫水晶だった。だが、月長石もその意見には同感だった。そして、コランダムに逢えた喜びが胸に湧き上がっていた。
「ここでは何だから、レストランで話そう。……君たちも来るかい?」
月長石たちがコランダムの言葉を怪訝に思い振り向くと、そこには金剛石と瑪瑙が立っていた。コランダムが彼らを敬遠したがっていることは明らかだったが、金剛石は余裕たっぷりに頷いた。
「もちろんだよ、コランダム。そして改めて賛辞を贈るよ。君の舞台は素晴らしかった。愚息の言った通りだ」
「……ありがとう」
月長石はここに来て大人の介入があることを少なからず不快に思った。金剛石は『矢車』が欲しいのだろう。青金石の遺した謎になど興味もないに違いないのに。だが、それからコランダム含めて七名はレストランに場所を変えて腰を落ち着けた。普段は饒舌な金剛石が黙して語らず、月長石たちに話をさせようという態度を示していた。
だから、月長石が口を開いた。
「コランダム。鉱石家の容貌の変化は、翡翠輝石の死と関係があるの?」
「うん。あるね」
コランダムはコーヒーを飲みながら首肯する。彼が月長石を見る目は優しく細められて、愛おしさが感じられた。
「どんな風に?」
「……青金石は翡翠輝石を喪った。そのことを、とても深く嘆き悲しみ、……恨んだ。国、時世、運命。それら全てを。その恨みの矛先は同じ鉱石家の人間へと向かった。呪いは容貌に、また、寿命に表われた。如何にも鉱石の名を冠するに相応しい容貌を与えられると同時に、鉱石家の人間はひどく短命になった。その、青金石の呪いとも言える強い想いの残滓を封じ込める媒体として、神職に就いていた鉱石家の人間と職人に依頼して、特別に作られたのが『矢車』だ」
「…………青金石は翡翠輝石と本当に仲が良かったのね」
「そうだね」
「成程、『矢車』にはそんな曰はくがあったのか」
金剛石が移動して初めて口を開く。
「嫌だわ。気味の悪い」
嫌悪に顔を歪めたのは瑪瑙だ。紫水晶は両親の存在を強く恥じた。今の話を聴いて、他に感じるところはなかったのだろうか。
「だからね、金剛石。『矢車』は一族の命運を担う鍵として、然るべき人間が持たなくてはいけないんだよ」
「私にはその資格がないと?」
コランダムがかぶりを振る。
「ううん。ただ、『矢車』を持つ者は孤独に陥りやすい。だから気を付けて」
「ご忠告、感謝するよ。――――コランダム。改めて、今日の舞台は素晴らしかった。『ハムレット』を下敷きにした斬新なミステリー。そしてね、コランダム。私は青金石の心に気づいてしまったよ。君もそれを半ば狙っていたのだろう? 姫君たちは気づいてないようだが」
「そうだね。正直、気づいても、気づかなくても良いと思った。今は今だし、故人の秘めた想いを、無理に暴く必要もない」
そう言ったコランダムは、心臓を押さえる仕草をした。そのまま倒れ込む。椅子も倒れてガターンという音がした。
「コランダム!」
慌てて駆け寄る月長石たちに対し、金剛石の対応は冷静且つ迅速だった。彼はスラックスのポケットからスマホを取り出し、救急車を呼んだ。月長石はどうすることも出来ず、ただコランダムの頭を膝に乗せて、無意味に髪の毛を梳いていた。青と赤の輝きはこんな時にも色褪せることなく、月長石の指の間を通り抜けて行った。
救急車には金剛石と月長石が同乗した。
搬送先の病院で、医師とてきぱき話を進める金剛石の存在を、月長石は初めて有難いと思った。煩雑な手続きを終えた頃には黄昏が迫っていた。長く君臨した太陽が、夜に居場所を譲り渡す前触れ。病室の窓からは橙とラヴェンダーの暮色が見えた。ベッドに横たわるコランダムの顔色は透き通るように青白い。
「心臓が悪いようだね」
月長石に椅子を譲った金剛石が呟く。月長石も医師の話を聴いていた。――――長くはあるまいということも。
「月長石。私は所用を思い出した。あとは任せて良いかな?」
「はい」
「ではね。コランダムによろしく」
金剛石は右手をひらりと振って病室を出た。蜩の声が聴こえる。
「……所用を思い出したなんて嘘だね」
「コランダム、目が覚めたの」
「うん。みっともないところを見せたね、月長石。金剛石が、珍しく気を遣ったみたいだ」
病室全体が残照を投影して美しい色合いを見せていた。
「……緑柱石様が、時間がないと言っていた。コランダム。それはこういうこと?」
「うん。巫覡であるコランダムは、異界との仲立ちをする力を持つけれど、その引き換えに短命なんだ」
「『矢車』の力は、」
「発動しない。あれは青金石の想いを封じる為だけの物だから」
月長石の目の前が、真っ暗になった気がした。
「死んでしまうの、コランダム」
語尾は微かに震える。自分で自分の言っていることに現実感がない。
コランダムは答えない。あの、いつもの微笑を唇に刷いたまま。月長石は彼に手を伸ばした。握り返される。顔を近づけると、コランダムのほうから口づけた。生まれて初めての口づけは海の味だった。
病院からタクシーで戻った月長石を、氷晶石が抱き締めた。黄玉と金剛石から聴いたらしい。驚くことに金剛石は氷晶石に月長石のアフターケアを勧めたのだ。沸かされていた風呂に入り、浴衣に着替える。紺と赤の金魚が描かれた浴衣だ。今日はとても夕食を食べられそうにない。月長石は布団を敷き、横になった。こつこつ、と、いつもより控え目な音が窓を叩く。緩慢な動作で起き上がり、窓を開けると夜を背負った紫水晶が入り込んだ。紫色の双眸は、いつもと変わらず輝いて綺麗だ。月長石は彼のTシャツを両手で握り締めた。顔を俯けて微動だにしない。紫水晶も動かない。彼らはその体勢のまま、長い時を過ごした。