残り少ない命なのに
珪孔雀石がネットで申し込んで、舞台のチケットを四人分、確保してくれた。
黄玉に話すと黄玉も行きたがったので、彼の分も含め月長石、紫水晶、薔薇、黄玉の顔ぶれで観劇することになる。舞台初日にはもう夏休みに入っている。月長石は舞台を観に行く日を指折り数えて過ごしていた。緑子から最近、付き合いが悪いと嘆かれ、彼女と一緒に映画に行く約束もした。夏休みが近づくと生徒たちは浮足立つ。空は青と白に塗られ、蝉が我が世を謳歌している。気温が高くなってきたので、月長石たちの学校でも冷房が入るようになった。紫水晶たちが以前に通っていた学校ではなかったそうで、転校して良かった点だと彼らは言った。月長石は教室の窓の外を見る。今は緑に茂る桜の樹の、その葉の葉脈が光に透けて見える。人の静脈のようだと思う。
「ではみんな。夏休みを楽しんで。宿題はちゃんとやるように」
担任の杉本の一声で、クラスがわあ、と歓声を上げる。解き放たれた子供たちの喜びの声。きっと誰もが宿題のことはそっちのけで長期休暇のことしか念頭にないに違いない。薔薇が寄ってくる。
「明後日だな」
「うん」
「よくチケットが取れたよな。役者の顔ぶれ、結構、豪華だぞ。テレビで見る顔も多い」
「珪孔雀石は要領が良いから」
当初は刺々しい物言いで月長石に迫っていた薔薇の、やや丸くなった態度に、クラスメイトたちは注目している。余計な噂を立てられたら嫌だな、と月長石は思う。緑子の目など、輝いて、完全に誤解していることが窺える。月長石は嘆息した。月長石と一緒に帰る為に迎えに来た黄玉とも、薔薇は少し話しをした。最初は反目し合っていたが、今はそれなりに打ち解けているらしい。
「じゃ、明後日にな」
「ああ」
教室を出ると熱気がむっと押し寄せる。リノリウムの長い廊下が、どこまでもどこまでも続いているように見える。熱砂に住む人たちはこの極限の果てにオアシスを見るのだろう。幻の水と緑。
外は蝉がわんわんと鳴いている。月長石と黄玉は日陰を選びながら歩いた。桜並木の下には時々毛虫が落ちていることがあるので、注意しなければならない。
「蝉、よく鳴くね」
「嬉しいんじゃないか、地上に出られて」
「残り少ない命なのに」
「だからこそだろ」
そうなのだろうと月長石も思う。暗い地中で長い時を費やした蝉は、地上に出ると短命のさだめだ。短い生の中で、つがいを見つけ、命を次に繋げるのだ。歩いていると、引っくり返った蝉が落ちている。ジ、ジ、とまだか細く鳴いている。透けた翅が命の儚さを物語るようだった。
帰宅した月長石はまず入浴して汗を流した。白い木綿のワンピースを着る。ノースリーブなので涼しい。それから黄玉と、氷晶石が用意してくれたオムライスを食べた。氷晶石のオムライスは特別に美味しく、チーズと卵が溶け合い口の中で蕩ける。黄玉はお代わりをしていた。食べ終わると洗い物を手伝い、自室に戻る。冷房を予め入れてあったので涼しい。畳に寝転がると、深く息を吸った。目を閉じると暗闇に蝉の声だけが響く。そのまま寝入っていたようだ。窓をこつりと鳴らす音で目が覚める。起き上がり、目を擦って窓辺に寄る。紫水晶はTシャツにジーンズという恰好で立っている。窓を開けると慣れた様子で室内に上がり込む。いつも、紫水晶とこうして会うのは夜なので、昼間だと勝手が違う。夜の月のような容赦が太陽にはない。全てを明るみに晒し出す。
「そんな服も着るんだな」
「いつも着物な訳じゃない」
「戦闘服はもう良いのか。暑いもんな」
「明後日は着る」
「お前はコランダムと戦闘するのかよ」
「そういう意味じゃない」
「解ってる。言ってみただけだ」
紫水晶が軽く肩を竦める。少年の匂い。
黄玉もそうだが、この年頃の男子からは特有の匂いがする。汗と太陽の滲むような。コランダムにはもうないものだ。彼からはまた別種の清涼な匂いがする。それは特別で、独特だ。惹かれる要因の一つなのかもしれない。
「鉱石家の名前を使え」
唐突に紫水晶が言う。
「脚本家に会わせろと言っても、普通は無理だろう。ましてやあんな大がかりな舞台だ。鉱石家はあの舞台の出資に絡んでる。断られることはない筈だ」
珪孔雀石がチケットを易々と入手出来たのは、そのせいでもあるのだろうか。月長石は考えながら頷いた。
「うん。ありがとう、紫水晶」
「別に」
紫水晶はそっぽを向く。素直ではない。月長石は内心、苦笑しながらソーダを持って来ると言って部屋を出た。暑い中、ここまで来た紫水晶の咽喉が乾いているだろうとの配慮からだ。
舞台に行く前日の夜、月長石は中々寝付けなかった。今日は紫水晶の訪れもない。それを寂しいと思う自分が、月長石は意外だった。
翌日は入道雲の威勢が盛んな夏日和だった。
月長石は青い絽の着物に若草の帯を締め、水色の帯締めと帯揚げ、硝子の果実を象った帯留めを合わせた。蛍石が素敵だと言って褒めちぎり、自分も行きたかったとしょんぼりしながら言ったので、慰めるのに骨を折った。舞台の内容は大人向けなので、まだ蛍石には早いと思ったし、コランダムのいる世界に、蛍石を触れさせることは気が引けた。コランダムのいる世界、即ちひんやりと澄んで冷たい孤独。
黄玉も、いつもよりきちんとした身なりをしている。釦シャツに、紺色のスラックス。舞台は昼の部だ。朝食を摂り、出るまでの時間を持て余した黄玉と月長石は、学生の鑑のように夏休みの宿題をした。やがて時間になると、月長石はスワトウ刺繍の施された白い日傘を持って黄玉と家を出た。輝水鉛鉱にはコランダムによろしくと言われた。見守る父親の目だった。
最寄りの駅の改札口で、こちらもいつもよりきちんとした恰好の紫水晶と薔薇らと落ち合い、切符を買って電車に乗り込む。電車の中は冷房が効き過ぎて寒いくらいだった。やがて目的の駅に着くと電車を降り、劇場までバスに乗る。バス中にはやはり舞台目当てであろう人が多くいて混んでいた。月長石は帯が崩れないようにするのに必死にならなければならなかった。
劇場は独特の外観をしていた。
一見するとバベルの塔のようだ。遊び心あることで知られる建築家が設計したもので、中は至ってシンプルで、すり鉢状になった客席が舞台を囲んでいる。舞台空間を一歩出ればレストランや物販もある。新進気鋭のデザイナーたちによる作品が展示してあるスペースもあり、作品は購入出来るものもあった。月長石たちは混雑するレストランで昼食を食べ、いよいよ舞台に向かった。チケットを出すと半券を切られ、入り口の扉を提示される。
月長石たちの席は丁度、観客席真ん中あたりの、見通しの良い場所だった。
月長石、黄玉、紫水晶、薔薇の順で座る。紫水晶はコーヒーを、薔薇はコーラを買って持ち込んでいた。
「ええと、どんな内容だっけ」
開演前になって黄玉が月長石に問いかける。
「シェイクスピアを元ネタにしたミステリー。誤って殺人を犯した犯人が偽装工作して逃亡を図る。でも、殺した筈の人間は実は生きていて、別の人間が死んでいると知り困惑する。精神的にじわじわ追い詰められる犯人である主人公の心理劇、という感じ」
「うわ、きついなそれ」
「静かに。始まる」
舞台が始まることを知らせる音が鳴り、緞帳がするすると開く。
男が蹲っている。
彼の前には赤い血だまり。胸にナイフを突き立てられ仰向けに倒れている人物がいる。シルエットからは男女の区別がつきにくい。それを狙った照明の当て方がされている。
『殺すだなんて。ああ。俺は何ということをしてしまったのだろう』
主人公の男は狼狽え、罪深さに慄きながらも震える手で偽装工作をする。
彼の心情を表わすように黒々とした樹影の小道具が設置されている。それに照明が当てられたり外されたりする。それもまた、男の不安な精神状態をよく表現している。月長石たちは始まってすぐ、舞台に引き込まれた。