月長石とソメイヨシノ
自分を呼ぶ声に、月長石(ムーンストーン)は振り向いた。セーラー服のスカートのひだが揺れる。春の陽射しに、月長石の肩までのふんわりした髪が一部、虹色めいて光る。薄青い瞳は追いついてきた従兄の黄玉(トパーズ)を映している。黄玉の髪は黄色がかった短髪で、瞳は琥珀色だ。盛りを謳うように咲き誇る桜の花が、二人に降り注いでいた。空閑家の邸を出て、坂道を行くと桜並木に出る。ソメイヨシノの薄いピンクがはらはら、咲き誇りを過ぎて散り急いでいた。
そんな中、月長石は一枚の絵画のようだった。
黄玉は僅かに目を細め、そんな従妹の姿に見惚れる。
「先に行くなよ」
「黄玉が遅いのが悪い。陸上部の朝練は?」
「今日は休み。中間試験が近いからな」
「そう」
月長石はどんな時も物静かに話す。けれど密やかな声が相手に届かないことはなく、清澄な音色は聴く者の心を和ませる作用がある。月長石に歩調を合わせながら、黄玉は彼女の鞄を持ってやろうとした。だが、拒まれる。
「良い」
「お前、この間まで風邪ひいてたろ。心配だから持たせろ」
そう黄玉が押すと、月長石は引き下がって鞄を黄玉に渡した。
黄玉は頭上を見上げる。
「桜って残酷だよな」
「どうして」
「じりじり見せるまで待たせといて、散り際はあっという間だぜ。たまに人も連れてくし。何か、こええよ」
「黄玉、怖がり」
「うるせえ」
そう口で反駁したものの、月長石のくすくすした笑い声は余り聴かれるものではないので、黄玉は内心、喜んでいた。
「珪孔雀石は今日は?」
「午後から講義だってよ。気楽で良いよな。学士様は」
黄玉と珪孔雀石、そしてもう一人、蛍石という少女は、月長石の両親である輝水鉛鉱(父)と氷晶石(母)の擁護のもと、広大な邸に共に暮らしている。「鉱石家」と呼ばれた家の本家が途絶えて以来、分家が寄り集まり、暮らす慣習が根付いた。黄玉、珪孔雀石、蛍石の両親はそれぞれ多忙であり、今では実質上、鉱石家の当主となっている輝水鉛鉱に子供らを託しているのだ。年齢は月長石が十五、黄玉が十六、珪孔雀石が十八、そして蛍石が十四である。親戚でもある年の近しい子供らの仲は良好で、彼らは円満な生活を送っていた。
月長石はこの環境に満足していた。彼女の好むものは風に揺れる野花、稚い命であり、快い音楽や書物の文面だった。学校は正直、好きではない。喧噪と、荒い空気に揉まれて、埃まみれになる気がする。だから月長石は部活にも入らず、昼休みには図書室か音楽室にいた。時に黄玉が横にいる時もあり、活発な彼には退屈であろうにと、月長石には不思議であった。
お前が時々、飛んで行きそうで怖いから。
一度、理由を尋ねた月長石に、黄玉は真面目な瞳でそう答えた。月長石は飛ばない。飛翔する為の羽があればどんなにかと思ったが、彼女は髪と目の色が少し変わっているだけの凡庸な人間だ。図書室で本のページをめくりながら、その中の世界に意識を遊ばせる。本の中でだけは自由だ。誰にでもなれる。月長石の座る席は窓際で、張り出したソメイヨシノがよく見えた。はらり、と舞い落ちた花びらがページの上に留まり、月長石はしばらくその様子を愛でるようにじっとしていた。それからおもむろにページを閉じる。今、自分は桜の花びらを閉じ込めた――――密閉したのだ。いずれ誰かがこの本のページを開く時、花びらの嫋やかな遺体を見てどう思うだろうか。
そんなことを想像するとわくわくした。
やがて下校時刻になり、黄玉と一緒に月長石は帰途に就いた。
そんな二人の仲を噂する生徒は、当然いたが、二人共、相手にしなかった。月長石は徹底して無視して、黄玉は声を荒げて否定した。
月長石は帰宅すると、着物に着替えた。灰桜色の地に、花の丸文様の入った江戸小紋。艶やかな光沢の緻密な織り帯を締める。帯留めには紫水晶を使う。これらの品は母である氷晶石より譲り受けたものだ。頻繁に、月長石は着物を着た。洋服よりも、呼吸しやすくなるように感じるからだ。
「月長石、綺麗」
襖向こうからの声掛けもせず、襖を開けて蛍石が読書していた月長石を見て感嘆の声を上げた。月長石は微苦笑する。
この月長石より一つ年少の従妹は、自由に振る舞うが、それを相手に不快と思わせない。
「蛍石にも、今度着付けしてあげる」
「本当?」
「うん」
「シュークリームあるよ。食べる?」
「食べる」
「ちゃんと、ホイップクリームが入ってる」
「嬉しい」
月長石は従妹の無邪気さに笑い声を上げそうになった。十四歳とは、こうも幼いものだろうか。月長石はカスタードクリームが得意ではなく、市販のシュークリームでもカスタードクリームだけのものは受け付けない。それを知る蛍石の言葉だった。
家族揃っての晩餐は広間で摂る。
輝水鉛鉱が和やかに皆の一日の出来事を尋ね、氷晶石がご飯をよそう。
大学に入ってから忙しく、中々話せない珪孔雀石がキャンパスライフを面白おかしく語り、月長石は嬉しくなる。少し前まで珪孔雀石に纏わりついていた蛍石も嬉しいらしくにこにこ笑っている。黄玉は珪孔雀石にあとで花札をやろうと持ち掛けていた。氷晶石が多めに作った八宝菜も焼き豚、高野豆腐もすっかり育ち盛りの男性陣に平らげられた。
食事が終わった月長石は入浴し、浴衣に着替えた。寝間着の時もあるが、今日は紺地に白い桜が染め抜かれた浴衣を選んで着た。そのあと、珪孔雀石に勉強を教えてもらい、宿題を済ませてからは歓談した。
「学校はどうだ?」
「つまらない」
即答した月長石に珪孔雀石は笑う。切れ長の双眸が笑んで和む、珪孔雀石の表情が月長石は好きだ。
「そう言うな。気の合う友人の一人も出来れば、楽しくなるさ」
「黄玉がいるから良い」
「あいつだけじゃなくて。鉱石家の他に、友人を作れよ」
「しつこいよ……。一人はいる」
「誰?」
「……」
月長石は珪孔雀石が好きだが、こうしたお節介は苦手だった。珪孔雀石としては、一人、冷たく光る輝石のような月長石に、温かな世界を知って欲しい思いだった。この少女は美しいが、その美しさは閉ざされて、非常に内向的だ。もっと外の世界に出れば、と常々思っていた。その思いをくしゃくしゃと月長石の頭を撫でることで発散した。
珪孔雀石が部屋を去ると、月長石は布団を敷いて寝転んだ。
花冷えだろうか、少し寒くてすうすうする。
窓の戸締りを確認しようと立ち上がる。
この邸内にも桜の樹は多くあり、月長石の部屋の窓にも枝が近接していた。
窓硝子を見て、思わず声を上げそうになる。
両目が紫の少年が、月長石の顔を覗き込んでいた。