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夜の鳥

 月長石は目を瞬かせた。紫水晶の言葉の意味が、よく咀嚼出来なかった為だ。紫水晶は出会った当初に比べると、随分友好的になっている。それが嫌いでない、という言葉に結実したのだろうか。どこかで、夜の鳥、(ふくろう)のような鳴き声がする。なぜ、嫌いじゃないことが笑い話になるのだろう。だから月長石も、正直に思ったことを返した。


「紫水晶。私も貴方のこと、嫌いじゃない」

「……そうか」


 月長石が言うと、紫水晶は脱力したような表情になった。

 彼が帰ってから、月長石は浴衣に着替えて寝床に入った。何もおかしなことはなかった筈なのに、どうにも違和感がある。そう言えば薔薇は紫水晶が月長石に気があるようなことを言っていた。まさか、と思い、月長石は自分の思い上がりを嗤う。夜の鳥がまだ鳴いている。コランダムのいるであろう街に思いを馳せる。彼は今、何をしているだろう。

 月長石は藍色の空間を漂っていた。藍色は好きだ。けれど、自分が求めているのは違う色だ。深い緑。その色を探して月長石は翼をはためかす。いつの間にか月長石の背中には真っ白な翼が生えていた。そういうこともあるのだろう。月長石はさして疑問に思わず、更に飛翔を続ける。泣き声が聴こえる。聴くだけで胸が痛むような哀切な声だ。翡翠にいさま、どうして、と。ああ、戻らなかったから悲しいのだなと月長石にも見当はつく。どんなに嘆いても彼と共に過ごした時は戻らず、帰ることも出来ない。だから、彼女は泣いているのだ。月長石にはそのことがよく理解出来た。意識が藍色に溶ける。翼はどこ。嘆きの海にもがれたのかもしれない。声はまだ聴こえる。花の色は、うつりにけりな、と詠んでいる。涙声で。百人一首。小野小町の歌だ。花が朽ちるようにいずれは衰える自らの容色を嘆く歌。恋しているのだなと月長石は察する。まだ年端も行かない少女の声が紡ぐ音色は、一途で、そしてどこかしら狂気をも孕んでいるように思えた。


 紫水晶が自室に窓から戻ると、待ち構えていた人物の影がゆらりと揺れた。


「姫君との逢引きはどうだった? 紫水晶」

「――――父さん」


 金剛石はゆったりとした上質の部屋着を身に纏い、腕組みして佇んでいた。その在り様が、紫水晶に魔王という言葉を想起させた。冷たい銀色の眼光が紫水晶を射抜く。


「最近、随分と勝手な真似ばかりしているようだね」

「そんな、ことは」

「そう。けれどね、紫水晶。『矢車』に関することならなおざりには出来ないよ? 緑柱石様はコランダムに『矢車』を継承させるお積りのようだ。コランダムの居場所を、お前は知っているのか?」


 紫水晶は実の父を恐れ、憎んでいた。何度も暴力を振るわれ、過酷な状況に晒され、彼は絶対的な恐怖の帝王だった。ゆえに銀色は紫水晶が最も忌避する色だ。金剛石はじっと息子の返事を待つ構えだ。このままだとまた蔵に入れられるかもしれない。紫水晶の背中を嫌な汗が伝う。なぜだろう。物心ついた時から、父である金剛石も母である瑪瑙も、息子たちに愛情を示すということが露程もなかった。身の回りの品は一級品を選ばれた。紫水晶がいる自室も、八畳と広く、木材がふんだんに使われ、壁に至っては珪藻土(けいそうど)という念の入れようだ。机もローテーブルもベッドも、大型テレビも。全て、物質的には恵まれていると言って過言ではないのに、そこにひとかけらの愛情も見出せないのはなぜなのだろう。


「紫水晶。質問に答えなさい。それともまた、蔵に入りたいのかな?」


 紫水晶はからからに乾いた口を動かした。


「二駅先の街にいるようです」

「なぜ?」

「舞台が、そこで」

「ああ、そう言えば劇場があったな。滞在場所は」

「そこまでは……」


 金剛石が舌打ちして使えない、とこぼす。紫水晶はとにかく、目の前から早く父が去ってくれることばかりを祈っていた。そうしてその願いは叶えられた。金剛石はそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。紫水晶は大きく息を吐いて、ベッドに倒れ込んだ。いつもこうだ。金剛石との遣り取りには、心身の力を根こそぎ持って行かれる。部屋の扉が控え目にノックされる。今は誰にも会いたくない気分だったが、紫水晶は返事した。薔薇が心配そうな顔で入ってくる。金剛石が紫水晶の部屋で待ち構えていたのを知っていたのだろう。


「紫水晶。大丈夫か」

「……あんまり」

「父さんに『矢車』のこと、訊かれたのか」

「ああ、あとコランダムの居場所。月長石が手掛かりを掴んだ。電車で二駅先の街にいる」

「本当か」

「うん。劇場があるだろ? そこの舞台の脚本をコランダムが書いてるだろうって」

「行くんだな」

「行くよ」

「――――月長石と話したのはそれだけ?」

「それだけだ」


 紫水晶は強めの口調で言い切った。薔薇の赤い目には疑惑が宿っている。昔からこの弟は勘が良いのだ。だが紫水晶は、疲れたからもう寝ると言って、言外に薔薇に退室を望み、薔薇も引き下がった。スウェットの上下に着替え、ベッドに潜り込む。月長石には通じなかった。紫水晶の遠慮がちな告白が。生来、天然気質と言うか、鈍いのかもしれない。それとも、コランダムのことで頭が一杯で、他に気を回す余裕がないのか。どちらにしろ紫水晶は自分の玉砕を覚悟した。



 コランダムはホテルの一室で、舞台の脚本に手を加えていた。出演する役者それぞれの個性を考えて、言い回しを微妙に調整する。夜も遅いが、コランダムは深夜のほうが作業が捗るほうだった。ノートパソコンに向かいキーボードを打つ。そして首をひねり、仮脚本に貼った付箋のページをめくる。思案して、再びキーボードを打ち始める。完璧な仕上がりは早いほうが良い。役者たちにも演じる都合がある。コーヒーを飲み下し、作業を続けながら、コランダムの頭の片隅には月長石の面影があった。台本にも月長石たちの存在が影響を受けている。一区切りしたところで、うん、と腕を伸ばし、息を吐いた。今頃、月長石はもう眠っているだろう。どんな夢を見ているだろう。〝関連する〟夢でなければ良いが。不意にコランダムの身が強張る。身体をくの字に折り曲げ、数秒、何かと戦うように沈黙する。コランダムにとっては長いその時間が過ぎたあと、彼は再び息を吐いた。


 翌日、棚引く薄雲が青空に彩りを添える朝。来客があった。コランダムは困惑する。客は金剛石だった。ホテルのロビーで、彼は悠然とした態度でシャンパンを呑んでいた。朝からの飲酒に、抵抗を覚えない性質らしい。金剛石はコランダムの姿を認めると笑顔になった。その笑顔は純然たるものではなく、謀略の気配がした。または王侯の冷然として人を見下す視線。


「やあ、コランダム。久し振りだね」

「……そうだね、金剛石」

「顔色が悪いが大丈夫かい?」


 この男に人を気遣う真似が出来るとは思わなかったなとコランダムは金剛石の銀色の双眸を見る。青と赤の混濁、それと銀色が対峙する。尤も、その気遣いも上辺だけのものだろうが。


「心配ないよ。昨日、夜が遅くて」

「ああ、そうかい。それなら良かった。ところで姫君たちが君がこの街にいることを知っていることは、君、気づいてないだろう」

「月長石が?」

「うん。捜してるみたいだよ。ずっと、君を」


 そんな場合でもないのにコランダムの胸に喜びが湧く。月長石が自分に逢いたいと思ってくれている。しかしそうと予想しながら、コランダムは彼女たちの目から逃れ続けた。そうする必要があったからだ。もう時間がない。月長石を傷つけることは出来ない。そうでなくても彼女は青金石の影響で随分、苦しんでいる筈だ。


「緑柱石様は君に『矢車』を譲るお積もりのようだ」

「僕は要らない」


 間髪入れず、コランダムは答える。

 金剛石がにっこりと笑う。望む返答だったのだろう。金剛石が『矢車』を求めていることは容易に察しがつく。


「じゃあ、私が頂いても構わないのだね。だが緑柱石様も頑固な方だからな。君から、緑柱石様にその旨、言ってくれないだろうか」


 図々しいなとコランダムは思った。昔から金剛石は唯我独尊の権化だった。

 だがコランダムは黙って顎を引いた。金剛石の笑顔が一層、華やかになる。

 この男を父に持つ紫水晶と薔薇が気の毒でならなかった。


「金剛石。君は『矢車』が何か知っているのかい」

「鉱石家の至宝だ。持つ者は実質、鉱石家の当主と目される」


 何を今更、という顔で答える金剛石に、コランダムは心の中だけで苦笑した。

 そうだろう。そんなものなのだろう。

 彼は知らないのだ。『矢車』が生まれた経緯を。

 戦時中に咲いた悲しい恋がその端緒なのだとは。




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