ロミオとジュリエット
人一人を捜すという困難を、月長石たちは思い知ることになった。宿泊施設に電話しても反応はなしのつぶて。劇団関係にもそれらしい影は見えない。意図的に、コランダム自身が月長石たちに自分の居所を知られないよう動いているのではないかと勘繰るくらいの手がかりのなさだった。季節は夏本番を迎えようとしている。月長石たちは打つ手ないまま、じりじりと過ぎる時間に炙られている感覚に陥った。コランダムが自らの意思で姿を隠している可能性は、月長石の心を削った。それはとりもなおさず月長石に会いたくないという意思表示にもとれるからである。もうすぐ学校は夏休みに入る。月長石は時間が経つのを何も出来ず看過するしかなかった。
氷晶石の夕食作りを手伝っている時、或いはこの母ならば鉱石家の謎を教えてくれるのではないかと、月長石は淡い期待を抱いた。ブロッコリーを洗う氷晶石に声を掛ける。
「お母さん。鉱石家は、昔は亜麻色の髪と瞳だったのでしょう」
「そうよ?」
「どうして今みたいに変化したの」
ざあ、と流していた水道の水を、氷晶石が蛇口をひねって止める。月長石にも似た薄青い目が娘へと向かう。
「青金石が嘆いたからよ」
「解らない」
「とても大事な人が亡くなるというのは、一つの世界の消滅にも等しいわ。どんな不可思議なことが起きてもおかしくはない」
「『矢車』は、何」
「一族の至宝。青金石の、……」
そこで氷晶石は言葉を切り、口を閉ざした。沸騰した鍋の湯にブロッコリーを入れる。
「青金石の?」
氷晶石は湯を見つめていた。まるでそこに質問の答えがあるかのように。
「ねえ、月長石。物事を全て明らかにすることだけが、正しい訳ではないわ。そっと秘めておくほうが、良い時もある。もう今は亡い故人の心を暴き立てても、得られるものはそうないと私は思う」
ぐつぐつと煮立つ湯の入った鍋を持ち上げ、ざるにブロッコリーを上げる。月長石はアンチョビを台所鋏で切っていた。こうすると汚れものも少なくて済む。切ったアンチョビをブロッコリーの薄く切った茎と和えて食べる。輝水鉛鉱たちには良い酒の肴になるのだ。茎より上はマヨネーズとケチャップを混ぜたソースにつけて食べる。
「お母さん。私。コランダムが好き」
氷晶石の双眸が、娘に向かう。そう、と彼女は呟いた。
「それなら尚更、昔のことはそっとしておきなさい。恋愛感情は繊細で、余人が立ち入るべきものではないから」
「何の話?」
「何でもないわ」
嘘、と月長石は思った。今、母は話の核心に触れることを言いかけて、それに気づいて誤魔化した。けれど、これ以上の追求は無駄なことと思われた。氷晶石は一度こうと決めたことは覆さない。彼女が娘に対して口を噤むべきと思ったのなら、それまでなのだ。月長石は黙って、氷晶石が切ったブロッコリーの茎をまとめて硝子鉢に入れ、アンチョビと一緒に和えた。
夕食作りの手伝いを終えた月長石は、珪孔雀石の部屋を訪ねた。もう大学の講義を終え、帰っている筈だ。部屋の扉をノックすると返事があった。扉を開けると珪孔雀石は机の前に座り、読んでいた本を机上に置いたところだった。
「ごめんなさい。邪魔した?」
「いや、構わないよ」
青みがかった黒髪をさらりと揺らして、彼は月長石の懸念を退けた。珪孔雀石の部屋は地球儀、月球儀、世界地図から古代の化石、石の標本、果ては西洋の甲冑までもが所狭しと置かれて座る場所の確保に苦労する。それを見越した珪孔雀石が、ぐい、と床を占めていた物を押し遣り、クッションを置いた。
「近頃の月長石は探偵団にでも入ったかのようだね」
微笑みながら言う珪孔雀石には、訪問の理由もあらかた察しがついているのだろう。
「知りたいことがある。昔の、鉱石家について」
「残念ながら僕では力になれないな。興味ないことでもあるし」
珪孔雀石は物腰穏やかで優しいが、自分の追い求めるところでないものには全く関与しようとしない。学究的であり、その意味においては非常に学士に向いていた。院まで進んでそのまま、研究職に就きたいという希望も無理からぬところである。月長石が心持ち項垂れると、珪孔雀石は水色の双眸を細めた。
「だけど、コランダムについてなら、違うかもしれない」
「え?」
「捜しているんだろう、彼を」
「うん」
珪孔雀石が机上のノートパソコンをとんとん、と人差し指で叩いた。
「青い髪と赤い髪。その特徴を持った青年を見たというツイートがあった」
「――――どこで」
「ここから電車で二駅向こうの街中。無断で写真まで撮られてるよ」
月長石が示された画面を見ると、確かにコランダムらしき青年の画像が映っている。プライバシーの侵害だと思いつつ、月長石は画面を食い入るように凝視した。
「この街には劇場が、あった筈」
「そうだね」
光明が射したように感じた。月長石が礼を言うべく珪孔雀石を見ると、彼は複雑な表情を浮かべていた。
「月長石。コランダムに関わるのは、止めたほうが良い」
「どうして」
「何となく。男が姿を隠す時には、相応の理由があるんだ。それならその意思を尊重してやるのが、本当は正しいんだよ。僕は月長石が可愛いから余計な真似をしたけれどね」
「それでも、私はコランダムに逢いたい。訊きたいことがある。それだけじゃなくて、純粋に、彼に逢いたいの。珪孔雀石」
珪孔雀石が憂いがちに笑んで、月長石の頭を撫でた。
「僕の小さな月長石は、いつの間にこんなに大きくなったんだろう。一人前の女性の目をして、恋情を語る。……行っておいで、月長石。コランダムは、逃げながら、その実、君を待っているのかもしれない。僕の言葉は矛盾しているけどね」
西向きの珪孔雀石の部屋の窓からは、橙の夕日が射し込んでいる。微細な塵がその光の中を舞って綺麗だ。月長石は珪孔雀石の言葉に頷くと、ありがとうと言って部屋を出た。
それから、コランダムが目撃された街にある劇場に電話した。二週間先に、舞台の予定があるとの情報を得る。脚本家の名前までは明かされなかった。だが月長石は確信した。コランダムだ。
その夜、ベージュ地に更紗模様の付け下げを月長石は着た。濃紺地に、青のラメ箔糸の正倉院文様の袋帯を合わせ甘さを抑える。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を読んでいると窓が鳴った。来ると思っていた。紫水晶は最近、頻繁に顔を出す。彼は果敢にも両親に鉱石家の謎について尋ねてみたそうだが、けんもほろろに追い遣られたそうだ。窓を開け、紫水晶が入ると閉める。
紫水晶が机に置かれた本を目敏く見つけ、鼻を鳴らした。
「甘ったるい話を読んでるんだな」
来るなりこの憎まれ口だ。だが月長石も慣れた。
「古典の名作」
「間抜けな男女の笑い話じゃないか」
「言い過ぎ。コランダムの手がかりが掴めた」
「――――居場所が判ったのか」
そこで月長石は、珪孔雀石によってもたらされた情報と、自分の調べたことを紫水晶に話した。紫水晶は無表情で黙って聴いていた。もっと喜ぶかと思ったので、月長石は彼のこの反応に戸惑う。
「いよいよご対面か」
「そう」
「月長石」
名を呼ばれ、これが初めてまともに紫水晶から呼ばれたのではと月長石は思う。
「俺は多分、お前が嫌いじゃない。……笑い話だ」