知らないだろう
月長石たちは緑柱石の出してくれたスリッパに、恐縮しながら履き替えた。緑柱石の緑めいた眼差しが、月長石の脱いだ草履に向かう。月長石は螺鈿細工を施したエナメル草履を履いてきていた。脱ぐ時にだけ草履の天(足裏に当たる部分)に嵌め込まれた貝の輝きが見える粋な拵えである。ふ、と緑柱石が微笑して、それがまるで合格点を与えられたようだったので、月長石はほっと息を吐いた。八畳程の畳敷きの居間に通され、座卓の傍らに並んだ籐の座椅子に座るよう指示される。あえてであろう、ぬるめの緑茶が青磁の湯呑みで出された。縁側に続く硝子戸は開け放たれ、時折、風鈴の涼しい音が奏でられる。床の間には露草と月が描かれた掛け軸の前に、笹百合が青銅の花器に活けられていた。小たりと言えども全体が如何にも最長老の住宅らしく風雅である。緑柱石はゆったり上座に落ち着く。これに不平を唱える者はいない。
月長石はバッグとは別に持って来た紙袋を差し出した。
「これ、母が。レーズンバターサンドです」
「おやおや。気を遣わせてしまったね」
受け取り、緑柱石自身も緑茶を飲む。赤いマニュキアに、右手人差し指のダイヤとサファイアがふんだんに使われた贅沢な指輪が映える。唇を湿してから、緑柱石は赤い唇を開いた。
「それで、訪問の理由を伺おうかね?」
譲り合うような沈黙のあと、月長石が声を発した。
「一時期まで、鉱石家の人間は亜麻色の髪と瞳だったと聴きました」
「そうだよ」
「……なぜ、今のように変容したのですか」
「お前の父は話してくれなんだか」
「青金石の兄である、翡翠輝石が戦死したからだということ以上は」
「成程。あの子らしい」
「因果関係を知りたいのです」
紫水晶が身を乗り出した。緑柱石が目を細める。
「――――戦争だよ」
一言、憎々し気に緑柱石は言い放った。
「全ては戦争の悲惨のせいさ」
「翡翠輝石が戦死したから、何だと言うのですか」
「その言い方はいけ好かないね、紫水晶」
緑柱石の物言いは静かで、視線も険しくはなかったが、人の居住まいを正させるものがあった。
「お前たちは戦争を知らないだろう。どんなにむごく、辛く、苦しく悲しく、……そして虚しいものか。狂おしい恋情すらまだ遠い。今のお前たちに、詳らかに語ることは、私も気が進まないね。輝水鉛鉱の判断は、気持ちは、尤もなものさ」
三人の少年少女は黙り込む。
緑柱石の言葉には、戦争を知る者特有の重みがあった。それは聴く人間を圧するもので、軽々に口答えは出来ない。悄然とした彼らを見遣り、緑柱石がくすりと笑みをこぼす。
「まあ、せっかく来たのだ。コランダムのことであれば、少しは話してやれないこともない」
月長石は黙っていたが、頬のあたりに緑柱石の視線を感じていた。
「巫覡なのでしょう」
それはもう知っているとばかりに言う紫水晶に、ゆっくり緑柱石が頷く。
「そう。あれは、コランダムに生まれついた者は皆、巫覡なのさ。神秘の世界との感応を可能にする。だから、青金石の魂を慰め宥めることも出来る。けれど、その力は長い間、一つ所に留まると悪しき凝りを生じる。その余波は周囲の人間にも及ぶ。だから、コランダムがはぐれ者なのは、まあ、詮無いことではあるのだよ」
「どうして『矢車』をコランダムに?」
「繋ぎ止めたいと思ってね。その特質ゆえ、コランダムは孤独だ。いつまでも。『矢車』を継がせれば、少なくとも私との縁は揺らがないと考えた。だが、そもそも『矢車』は、それ自体が、持つ人間を孤独に追い遣る物でもあるから、私だけと繋がっても、コランダムは畢竟、寂しいだけかもしれないねえ」
「『矢車』には、どんな力があるのですか」
月長石の問いに、緑柱石は微笑みを返した。
その笑みは、自信や威厳とは無縁の、どこか頼りなく儚い、コランダムの笑みに通じるようなものに感じられて、月長石は胸を突かれた。
「守護の力。鉱石家の人間を、生き永らえさせる宝物。加えて一族を束ねる象徴とされるが、力の反動ゆえか先にも言ったように、持つ者を孤独にする」
「生き永らえさせるってどういうことですか」
「全ては愛情と哀しみから始まっている。……少し喋り過ぎたかね」
「緑柱石様、教えてください」
「月長石。コランダムを捜しておくれ」
追い縋る月長石に、緑柱石は再度命じた。
風鈴が鳴る。
「捜しておくれ。きっともう、余り時間はない……」
バスに揺られる月長石たちは、それぞれの思惑に耽り無言だった。緑柱石は、結局、肝心なことには口を噤んだ。解ったことよりも、解らないことのほうが気に掛かり、三人の心をもやもやと乱す。時間がないと言った時の、緑柱石の表情を月長石は鮮明に思い出す。悲痛だった。一族の頂点に立つ、強く威厳のある女性が見せる表情とは思えない程。コランダムに逢わなければと思う。コランダムは初めて逢った時、月長石に傍にいることを望んだのだ。それはコランダムの孤独ゆえの渇きを癒す為だったのだろうか。それならば月長石はコランダムの傍にいたいと望む。彼と一緒に流浪するのであれば、何も寂しくはない。
やがてバスは待ち合わせたバス停に着き、三人は互いの顔を見つめ合った。このままでは感情が未消化であり、語ることで発散する必要性を三人共が感じていたのだ。電柱に蝉がくっつき、小さく鳴いている。
「どうする?」
「どこか飲み食いできるとこ行こうぜ。腹減った」
月長石の問いに薔薇が答える。紫水晶も頷く。三人はそれから、数分歩いたところにある和風レストランに入った。ファーストフードを選ばなかったのは、月長石への気遣いである。煌びやかな風貌の少年少女、とりわけ和装の少女に客や店員の目は釘付けになったが、それは仕方のないことだった。そもそも、人の視線を受け流すことに慣れた三人ではある。
月長石は和風定食の梅を選び、紫水晶はとろろ蕎麦とお握り、薔薇は天婦羅御膳を注文した。
「こうなったらコランダムだな。コランダムを捜すしかない」
「捜しても、答えてくれるかは解らないけど」
「お前がお願いすれば落ちるんじゃないか?」
薔薇のあけすけな物言いに、月長石はやや気を悪くした。それが月長石のものであれコランダムのものであれ、純粋な想いを茶化されたくはない。
「脚本書いてるんなら、劇団関係に片っ端から問い合わせるか。それこそ鉱石家の名前を有効活用して」
「コランダムは望まないかも」
「おい。お前が弱気でどうするんだ。さっきから、非生産的なことばっかり言うなよな」
海老天にかぶりつきながら薔薇が月長石に駄目出しをする。月長石は溜息を吐く。正直で率直なのは薔薇の美点だが、こんな時は疲れる。紫水晶がまっとうな少年に思えてくる。和風定食は刺身と野菜の煮物、山菜の炊き込みご飯に吸い物がついていた。氷晶石の作る食事のほうが美味しいと思いながら、それらを口にする。
「コランダムを捜す」
宣言したのは紫水晶だった。彼はもうとろろ蕎麦を食べ終え、お握りに箸を伸ばしていた。
「ネットでも鉱石家の名前でも、使えるものは何でも使おう。どこかで必ず、ヒットする筈だ」
思いの外強い紫水晶の主張に、月長石は目を大きくする。それから、頷く。
時間がないと言っていた、緑柱石の発言も気になる。そして月長石の中では、緑柱石の他の言葉も耳に張り付いて離れないのだ。戦争を知らないだろうと彼女は言った。むごさも、虚しさも知るまいと、それは人生の先達だからこそ言える重みある言葉だった。知らない。確かに、月長石は戦争の悲惨からは遠いところで育った。けれど緑柱石の物言いは、それが今にも影響を及ぼしているかのようだ。昼食を食べ終えた月長石たちは、当面の目標をコランダムの捜索に絞ることに決めて、解散した。空はまだまだ青く透き通り高い。家に帰り着いた月長石は、着物もそのままに窓辺に寄り掛かって座ると微睡んだ。耳には遠く蝉の声。
夢の中で誰かが謝っていた。
戻れなくて済まないと、謝っていた。
その響きは遣る瀬無く、月長石は謝罪など要らないのにと思った。