恋迷宮
コランダムだから、何、と、追及することは出来なかった。
コランダムの笑みは追及を許さないように悲しみに満ち、見ている月長石のほうが泣きたくなるようだった。青と赤の混じる不思議な双眸が自分に据えられている。それだけで、どこか満足してしまう自分を月長石は感じる。
そして、再び眠りに落ちた。
泣いていた。夢の中。
初めはコランダムの為かと思ったが、違う。彼ではない。亜麻色の自分の髪の毛が目に入る。母も泣いていた。父も、隠してはいるものの嘆いているのだと、月長石は知っていた。そして藍晶石も。
なぜなのか。
帰らなかったからだ。翡翠輝石が。戦地より生きて戻らなかった。
だから「自分」は悲しくて仕方ないのだ。理不尽だ。理不尽だ。一体誰が、何の権限があって、自分から最愛の兄を取り上げたのだ。
国か。時世か。運命か。
ならばそれら全てを「自分」は呪う。
この呪いは、嘆きは累々、受け継がれる。例え鉱石家の直系が途絶えても、その傍流にまで呪いの余波は及ぶだろう。「自分」は忘れない。この悲しみを。「自分」は忘れない。この怒りを。いつまでも。
それらはこの魂に刻みつけられる。
コランダムは憂い帯びた面持ちで眠る月長石を見守っていた。細いしなやかな指を伸ばし、触れようとして、思いとどまる。立ち上がり、踵を返す彼に声を掛けたのは輝水鉛鉱だった。
「コランダム。……行ってしまうのか」
「うん。輝水鉛鉱。氷晶石も、元気そうで良かった」
「うちに留まることは出来ないの?」
「出来ない」
氷晶石の懇願とも取れる提案に、コランダムははっきり拒絶の意を表した。黄玉も珪孔雀石も蛍石も、何とも言えない顔をしている。
「に……さ、ま」
月長石の寝言が、静かな室内にやけに大きく響いた。コランダムの眉間に皺が寄る。
「コランダム。『矢車』の効果が切れたのか?」
「違う。月長石は、青金石に共鳴してしまったんだ。彼女の、浮遊する嘆きに……。『矢車』は今も発動している。その証拠が輝水鉛鉱、君たちや僕だ。――――戦争は罪深い。だから、嫌いだ」
その言葉を最後に、コランダムは部屋から出て行った。
月長石はその後、しばらく寝込む日々を送った。不思議なことに、眠り、起きれば頬が濡れていることが多い。その癖、なぜ泣いたのか、夢の詳細はよく憶えていないことがほとんどだった。熱は彼女から気力と体力を奪い、倦怠感がつき纏った。病床に就く彼女を、両親や黄玉、珪孔雀石や蛍石が見舞い、寂しさはなかった。なのになぜか、胸に穴の開いたような感覚があって、そこを冷たい風がすうすう通るようだ。期末試験は日程をずらして受けることになった。
「風を通しましょうね」
そう言って氷晶石が月長石の部屋の窓を少しだけ開けておく。初夏の宵の空気は時に甘ったるく、時に清澄だった。ある夜、目覚めると紫色の宝石が二つ、顔の上にあった。意識が明瞭になり、それは紫水晶の目だと判る。氷晶石が開けておいた窓から入ってきたのだろう。以前、着ていた黒いパーカーを今は着ておらず、Tシャツの上に釦シャツを羽織っている。
「お前、案外虚弱なんだな」
「違う」
「これだけ寝込んでおいてよく言う。薔薇が物足りなさそうだったぞ」
「まさか」
久し振りに触れる紫水晶の、硬質な空気が今は好ましく感じられる。
「コランダムが来たって?」
「うん。黄玉に聴いた?」
「あいつしかお前の情報源ないからな」
「来てくれたけど、行ってしまった」
「あいつが風来坊なのはどうしてだろうな。俺は、コランダムがお前に石譲りの儀式をしたと聴いてから、お前の傍になら留まるかと考えていた」
「あの人は、何にも縛られないから」
「そういうセンチメンタルな理由だけじゃなさそうだけどな。お前も女だな」
「何だと思ってた」
月長石は可笑しくなって笑った。
「未確認の生命体」
「あはは」
月長石は今度は声に出して笑った。笑った積もりだった。けれど涙が流れた。紫水晶の困惑した顔を初めて見る。月長石は起き上がり、紫水晶の片頬に手を添えた。
「そう。貴方が紫水晶。私の知っている紫水晶とはだいぶ違うわ」
「……?」
「ねえ、紫水晶。コランダムを捜して頂戴。私は、彼なら翡翠にいさまの行方を知っているのではないかと思うの」
「何、言ってるんだ。お前」
「お願いよ。紫水晶」
月長石の表情は鬼気迫るものがあった。紫水晶の背中を冷たいものが這う。ぞっとした。
これは誰だ?
口調も表情も、普段の月長石とはまるで違う。別人のようだ。
月長石は言うだけ言うと、糸が切れたように布団に倒れ込んだ。所々、虹色に光る不思議な髪がふわと広がる。一瞬、月長石の髪全体が亜麻色に染まったように見えた。そう言えば黄玉は月長石の髪が寝込んでから亜麻色になったと言っていた。亜麻色……。学園祭最終日、月長石が訊いていた。鉱石家に亜麻色の人間はいるだろうかと。いないだろうと自分は答えた。けれど、昔は亜麻色だったとも。金剛石や瑪瑙なら何か知っているかもしれないが、彼らが自分の問いにまともに答えてくれるとは思えない。ならば輝水鉛鉱ではどうだろう。不法侵入が知れるところとなってしまうが、どうせ遅いか早いかの問題だ。構わない。紫水晶は月長石の部屋を出ると、広大な邸の中、輝水鉛鉱の姿を求めて徘徊した。ところが、赤い絨毯の敷かれた廊下で、まず行き会ったのは黄玉だった。
「何やってんだ、お前?」
「……輝水鉛鉱に訊きたいことがある」
ばつの悪い思いで、単刀直入に告げる。
「何をだ」
当然の問いを黄玉は口にする。観念した紫水晶は、仔細を語った。亜麻色の髪の話は元々、黄玉からも聴いていたことだった。黄玉が難しい顔になる。顎をしゃくった。
「ついて来い。輝水鉛鉱さんの書斎はこっちだ。作業中じゃなきゃ入れる」
「作業?」
「グワッシュ画を描いてるとこに行ったら怒られる」
「…………」
紫水晶の耳に、それはとても鉱石家の人間らしい行為に思えた。金剛石も瑪瑙も、貴金属、宝飾店を多く経営しているが、自分で宝石のデザインをしたりはしない。全て人任せである。月長石の両親と、金剛石たちのこの落差、違いはどうだろう。紫水晶は何かに負けた気がして、唇を噛んだ。
輝水鉛鉱は作業中ではなかった。但し書斎で集中して書き物をしていたようで、ノックの音に気づかれるまで少し掛かった。輝水鉛鉱は紫水晶の不法侵入を咎め立てしなかった。黄玉と共に部屋に招き入れ、最近は金剛石や瑪瑙から不当な暴力を受けていないかと尋ねさえした。紫水晶が頷くと、ほっとした笑顔を見せる。そして話はくだんの亜麻色の髪に移った。輝水鉛鉱は物思う表情で、しばし沈黙した。
「ある一時期まで、鉱石家の人間は、亜麻色の髪と瞳が特徴だったんだよ」
「一時期?」
「青金石が亡くなり、鉱石家の本流が途絶えるまで。戦後の話になるね」
「――――知らなかった」
「僕たちのように、髪や瞳が特徴的な人間が生まれ出したのはそれからだ」
「なぜ」
「……翡翠輝石が死んだから」
「翡翠輝石?」
「青金石の二番目の兄だ。徴兵されて戦死した」
不可解な表情の紫水晶に、黄玉も同調する気持ちだった。
「因果関係がさっぱり解らない」
輝水鉛鉱の顔が翳りを帯びる。
「知る必要のないこともある。今、僕の口から言えるのはここまでだ」
大きな声でも強い声でもなかった。けれど、静かな輝水鉛鉱の口調に、紫水晶も黄玉も断固としたものを感じて、それ以上を追求することが出来なかった。
にいさま。
違う。
コランダム。
いいえ、にいさま。翡翠にいさま。
どこにいるの。
逢いたいのに姿が見えないの。
違う、違う、違う、違う。
私が好きなのは。
「コランダム」
月長石は自分の声で目が覚めた。髪の毛の先がまた亜麻色になっている。頬も濡れていた。一体、自分はどうしてしまったのだろう。知らない人間が、自分の中に巣食っているようだ。遣る瀬無い切ない声に引き摺られる。自分の命を助けたコランダムは、この現象の正体を知っていたのだろうか。