僕はコランダム
学園祭は盛況の内に終わった。
最終日には校内の片付けが行われ、祭りのあとの余韻が物寂しさとともに漂っていた。一学年と三学年で星を最も獲得したのは月長石とも紫水晶とも異なるクラスで、二学年では黄玉のお化け屋敷が最多の星を得た。クラスメイト全員に五百円分の図書券が配られ、黄玉は得意そうにそれを月長石に見せた。金額の多寡の問題ではなく、賞品として図書券を貰ったということが肝要なのだ。月長石は素直に羨ましいと言った。片付けが終わるとどこのクラスも大抵が、打ち上げに雪崩れ込んだ。月長石は疲れていたので早く帰りたかったが、クラスで薔薇と並びMVPとやらに勝手に選ばれた為、付き合わざるを得なくなった。学校近く正真正銘のカフェに繰り出し、甘味を食べた。薔薇も月長石と同じ理由で抜け出せなく、仏頂面でケーキをばくばく食べていた。二次会のカラオケは流石に遠慮した。
「みんな、お疲れ様」
帰宅して、父のこの声を食卓で聴いた時には、気持ちが緩み、月長石の口からほう、と溜息が漏れた。食卓には寿司が並んでいる。月長石や黄玉の奮闘を称えて奮発したらしい。黄玉は嬉しそうに寿司を平らげていった。ショックから立ち直った蛍石もにこにことして、月長石かっこよかったと言っている。中学校に写真を持って行って自慢するのだと言うのを聴いて、月長石は苦笑した。
食後、入浴を済ませて、着物を着る。もうこれは習い性のようなものだった。
変わり竪縞が爽やかな白大島に、臙脂色に辻が花模様を染めた名古屋帯を合わせる。帯締めは橙と白、帯揚げは薄青。祭りの後の気怠さが身体に残っていて、月長石は氷晶石から借りた生活雑誌を見るともなく見ていた。ぱんぱんに膨らんでいた風船が、急に空気を抜かれた感覚に似ている。
こつりと音がして雑誌を閉じる。
今日は来ないだろうと思っていた。立ち上がり、窓を開けると紫水晶が入って来た。
紫水晶が室内に降り立つと、外の空気が彼に付随してしめやかに侵す。緑や、他の雑多な気配の混じった空気だ。
「コランダムを見た奴がいる」
開口一番、彼は言った。
「どこで」
「うちの学校。学園祭の間、見かけたと。あの風貌だからな。目立つ」
「どうして来たんだろう」
月長石の呟きに、紫水晶が意味ありげな視線を遣す。
「お前がいるからだろう」
「紫水晶もいるからでは? 彼は貴方にも興味を持っていた」
「何考えてるんだかな。とにかく、まだこの近辺にいることは確かだ。捜すか?」
「捜す」
間髪入れずに月長石は答える。そしてふと、夢を思い出した。
「紫水晶。鉱石家に亜麻色の髪の人はいるかな」
「亜麻色? 鉱石家の人間の髪は大抵、派手だ。亜麻色はいないんじゃないか。……待てよ。昔はそうだったという話を聴いたことがある」
「誰から」
「忘れた。輝水鉛鉱なら知ってるんじゃないか」
「うん……」
紫水晶が眉根を寄せた。
「お前、顔色が悪いぞ」
「そうかな。疲れているからかも」
それから二人は学園祭に関する雑談をして、紫水晶は帰って行った。
コランダムを捜すと言っても、手掛かりはないに等しく、とりあえず月長石たちは近くの宿泊施設に片っ端から電話した。何軒か、コランダムを泊めたというところがあったが、いずれも、もう宿を出た後だった。まるで手からするりするりと抜け出るように、コランダムの足跡は月長石たちにとって歯痒いものだった。
学園祭の次には、学生たちに隙を与えないように期末試験が控えている。僅かな余暇の間、黄玉は陸上部に精を出し、朝練がある為、月長石は一人で登校した。放課後も部活があるので、月長石は朝夕、一人で登下校することになった。考えてみればそれが通常なのだが、黄玉のいない登下校は、やはり物足りないものがあった。
初夏の柔らかな風が透けた糸を織るように繊細に過ぎてゆく。
今では緑陰となった桜並木の道を、月長石は一人で歩いた。
彼女が身体に変調をきたしたのは、期末試験を控えて再び黄玉の部活が休みとなった頃だった。
初めはただの風邪だと思っていた。
だが、それにしては熱が高く、布団から起き上がることも出来ない。食事も一切、咽喉を通らない。何より奇妙なことに、月長石の虹色に光る髪の毛が、亜麻色へとしばしば変化した。家中の皆が彼女を心配した。氷晶石は熱心に娘を看病したが、月長石が快方に向かう兆しはない。医師にも診せたが、首をひねるばかり。
「どうして今になって、月長石が。『矢車』は発動している筈なのに」
普段は物腰柔らかな輝水鉛鉱が焦りの色を隠さない。寝室で、苦渋の表情を妻にだけ晒す。
「『矢車』も万能ではないわ。青金石の想いに、何等かの形であの子が共鳴したのかもしれない」
「しかし、このままでは月長石は」
「…………」
月長石は熱に浮かされながら夢を見ていた。
とても愛しい人がいた。
いつも自分を見守り、愛してくれた。
けれどある日、その人はいなくなった。
月長石はその人の帰りを待ち続けたが、届いたのはその人の死の報せだった。月長石の心は闇色に染まり、嘆きはいつまでも絶えない。苦しくて悲しくて、一方で心は空漠に満ちた。
悲しみは、愛しさが強かった分、より一層深く、月長石を支配した。
目を覚ますと蛍石が泣きそうな顔で座り、月長石を見ていた。大丈夫だと声を掛けてやりたいのに叶わない。蛍石は、手に持ったブラシで、月長石の亜麻色の髪を梳き始めた。その感覚は心地よく、月長石の苦痛を慰撫した。
「ありがとう」
やっと礼が言えた。
蛍石はふるふると首を振る。今度は月長石の額に小さな手を置いた。火照った身体にひんやりとした感触。今、蛍石は自分に出来る範囲で月長石を癒そうと必死なのだ。そう思い至ると、愛しさが込み上げる。蛍石はしばらく、そのまま、月長石が再び眠りに就くまで動かなかった。
輝水鉛鉱は思わぬ来客に驚いていた。
月長石たちが必死で捜していた相手。
コランダムが玄関に立っている。青と赤に煌めく髪。同じく青と赤が入り混じった色の双眸。数年ぶりに会う幼馴染は、昔と少しも変わらない。
「月長石が病気だと聴いて」
コランダムはそれだけを静かに告げた。氷晶石は輝水鉛鉱より早く我に返り、尋ねる。
「貴方なら何とか出来るの?」
「そう思う。僕はコランダムだから」
謎めいた言葉も彼の口から出るとなぜかしら説得力があるから不思議だ。
氷晶石は月長石の部屋にコランダムを案内した。
眠る月長石は静寂の空気を纏い、今にもあちらの世界に連れて行かれそうで、氷晶石は恐怖した。コランダムは臆さず、月長石の枕元に座る。月長石の、亜麻色になった髪をさらさらと手櫛で梳いた。
「青金石。青金石。彼女は君ではないよ」
コランダムはそう言って、月長石の胸元あたりに手を置く。美しい青と赤の輝きが、円やかに月長石を覆う。光は膨張と収縮の繰り返しを続けた。氷晶石と輝水鉛鉱、それに異変を聴きつけて来た黄玉と珪孔雀石、蛍石の前で、その奇跡のような治癒は行われた。苦しそうだった月長石の呼吸が、次第に安らかなものとなる。コランダムは長いことそうしていた。やがて月長石が目を開ける。
彼女は自分が幻を見ているのだと思った。
「コランダム」
「うん」
「ずっと捜してた……」
「うん。知ってたよ。ごめんね?」
「もう、いなくならないで」
「それは約束出来ない」
「どうして」
コランダムは悲しそうに微笑んだ。
「僕はコランダムだから」