狂騒曲
クラスで自習時間を作り、学園祭の出し物について話し合う。
自習時間は教師がこの為にわざと作ったものだった。黒板の前、実行委員がそれぞれ各所にかかる費用を板書していく。
「生徒会と執行委員会から正式に許諾を得ました。それぞれ、係の人はこの金額に基づいて準備を行ってください」
「学外に出ても良いぞ。許可する」
教師が鷹揚に付け加える。
内訳を見てみると、やはり執事服やメイド服のレンタル代が高く見積もられていた。月長石と薔薇、他、執事とメイドの役を割り振られた生徒たちは学園祭当日、改めて衣装をレンタルしに行くことになる。総勢八名。お菓子や飲み物を作る生徒たちは学園祭前日と当日が勝負だ。学園祭は三日に渡り行われ、役割に囚われず、手すきの人間は手が足りてないところをフォローするという融通を効かせるよう暗黙の了解があった。月長石はレンタル業者に掛け合い、三日間、衣装を貸し出すことが出来るか検討してもらった。レンタル業者の店長の母校ということもあり、特例として許可を取り付けた旨、月長石がクラスの生徒たちに告げた時には歓声が上がった。緑子はお菓子作りの腕を生かして、クッキーやブラウニーを作る班だ。教室内を装飾する布を、手芸品店で買うことになり、当日まで出番のない月長石と薔薇がその係に選ばれた。教師に改めて許可を得て、学外に出る。
薔薇の口数が少ないのが月長石の気に掛かった。
初夏の爽やかな風が夏服のスカートを揺らしていく。
薔薇も夏服でシャツに赤いネクタイを合わせたシンプルな服装だが、これが様になるのが彼という少年だった。手芸品店は学校から大きな通りを真っ直ぐに抜け、商業ビルが林立する向こう、三本の道を横断したところにある。
「薔薇。何かあった?」
「……紫水晶が蔵に入れられた」
「――――いつ」
「一昨日」
道理でここ数日、紫水晶が訪ねてこなかった訳だと、月長石は得心した。
「怪我してるの」
「青あざがな。少し」
「酷い。どうして?」
「母親のヒステリーと、親父の気紛れ。いつものことだ」
「金剛石さんが殴るの?」
「いや、家つきのボディーガードにやらせる」
もっと性質が悪いと月長石は眉をひそめた。
紫水晶はそんな不条理にずっと晒され耐えてきたのか。それは自分を憎みたくもなるだろう。月長石は暗澹とした気持ちになった。
日頃から手芸品店に縁のない二人は、店員に尋ねながら、それらしき布を見繕っていた。
「天鵞絨地のほうが、雰囲気が出ると思う」
「莫迦。予算を見ろよ。どう考えても足が出る」
「そうか……」
結局、黒い綿と赤い綿の生地を数メートル、カットしてもらい購入した。
黒い布は教室に備え付けのカーテンもあるので少なくて済む。薔薇が布を抱えて二人、店を出る。雰囲気作りの為に余った予算でサンキャッチャーも買った。これは月長石が持つ。
淡く儚い青空に、楠の新緑が映えている。
その時、月長石の視界に青と赤の色が見えた。
遠くからでも判る儚い微笑、透き通るような美しさ。
コランダムがビルの合間に立っていた。月長石を見ている。月長石は駆け出した。コランダムは微笑んだまま。どこか悲し気に。その悲しみを払拭したかった。触れたいと願った。触れて欲しいと。
だがあと数メートルというところまで近づいた時、コランダムは身を翻した。そして透明人間のように消えてしまう。月長石は肩で息をしながら、美しい人の面影を目で探した。ぐい、と肩を掴まれ振り返ると、薔薇が険しい顔で立っている。息が荒い。
「何なんだ。いきなり走り出して」
「コランダムがいた」
「え、」
「あと少しで触れられたのに。逢えたのに。消えた。どうして」
月長石は歯を食いしばる。薔薇はそんな月長石を複雑な目で見ている。
「逢いたくないんだろ。あんたには」
思いがけず、自分で考えたものより冷たい台詞が薔薇の口から出た。薔薇自身、言い過ぎたと思った。だが、紫水晶は月長石のことが好きなのだ。コランダムより、紫水晶のほうを月長石には気に掛けて欲しかった。月長石は俯き、そうかもしれないと小さく呟いた。薔薇の胸がちくりと痛んだ。二人はどちらもどこか悄然とした空気を纏い、学校に戻った。
その夜、月長石は紫水晶の訪れを待っていた。祈りに等しい気持ちで。確実に会おうとするのなら、学校で彼のクラスを訪ねれば良いのだが、何となくそれは気が引けた。紫水晶が嫌がるような気もした。
淡い藤紫の小紋。左胸にワイングラスの小粋な刺繍が施されている。帯は黒に、大輪の花のような丸文様。帯締めと帯揚げはミントグリーンで統一させる。
文庫本を開き机に座り、紫水晶の訪れを待った。
外は今にも泣き出しそうな空模様だ。星も月も姿を隠す。コランダムのように。コランダムはなぜ、姿を見せ、そして消えたのだろう。月長石の心を知り、戯れているのだろうか。月長石には大人の遊戯はよく解らない。文庫本を置き、立ち上がると窓を開ける。湿った空気が部屋に忍び込む。それを深く吸って、吐く。気づけば月長石は、さくら、さくら、と小さく歌っていた。もうその季節は過ぎたのに。時を巻き戻そうとするかのように。そうだ。恐らく自分は巻き戻したいのだ。コランダムに逢えたあの日に。そして紫水晶と初めて逢った日に。紫水晶をどうにか救ってやりたい。あの、孤高な少年を。そして同じく孤高なコランダムに再び逢いたい。思考はマーブル模様を描き、月長石は庭の下草を踏む音を聞き逃していた。
気づけば紫水晶がそこにいる。
「季節外れの歌だな。桜はとうに散ったぞ」
いつも通りの紫水晶の憎まれ口に、月長石はほっとする。そして、彼の目元の青あざに胸を痛める。手を伸ばしても、紫水晶は拒絶しなかった。青あざにそっと触れる。
「痛かった?」
「慣れてる」
「気づかなくてごめん」
「お前のせいじゃない」
この時にはもう、月長石は紫水晶のぶっきらぼうな言葉の向こうにある繊細な気質に気づいていた。
「コランダムに会ったって?」
「うん」
「よく解らない奴だな。お前に会いたいのか会いたくないのか」
「…………」
月長石は微笑んだ。
その微笑が思いの外、寂しいものであったので、紫水晶は怯む。自分に出来ることはないと思った。口を突いて出たのはまるで整合性のない言葉だった。
「俺はお前が嫌いだ」
「知ってる」
月長石は何を今更、と言うように小首を傾けた。虹色めいた光沢を放つ髪の毛がさらりと揺れる。実際のところ、紫水晶は月長石が嫌いだった。その憎悪は蔵に入れられるたび、暴力を受けるたびに増幅する。けれどいざ月長石に会うと、その憎悪が鳴りを潜め別の感情が頭をもたげる。紫水晶はその感情の正体を知らない。
「だからきっと、コランダムもお前が嫌いなんだ」
紫水晶は自分がなぜこんなことを言うのか解らない。案の定、無表情でいることが多い月長石が、今ははっきりと傷ついた表情を晒している。嗜虐的な快感を、紫水晶は覚えた。そしてそんな自分を嫌悪した。
言葉で撃ったのは紫水晶なのに、まるで撃たれたかのように、彼は後ずさると、夜闇に消えた。月長石は引き留めなかった。心のひび割れに必死で耐えていた。
学園祭当日。
校門に学園祭の文字が大きく躍り、風船がいくつも結び付けられている。天気の懸念は杞憂だったようで、祭りに相応しい快晴だった。そこかしこに立つ生徒がビラを配り、自分たちの出し物に客を呼び込んでいる。いつもは校舎にない私服姿の一般客たちに、生徒は祭りムードの盛り上がりを感じる。
蛍石は淡い緑のワンピースを着て、珪孔雀石に手を引かれていた。
「月長石、どこかな」
「1のBとあるよ。二階だね。行こう」
珪孔雀石も鉱石家のご多聞に漏れず端整な容姿の為、蛍石と合わせて人目を引く。彼はサックスブルーのシャツにジーンズを合わせていて、そのさりげない服装でも女性に注目された。階段を上り、月長石のクラスに向かっていると、金剛石と瑪瑙の夫妻に鉢合わせした。珪孔雀石は金剛石とは何度か顔を合わせたことがあるが、瑪瑙とは初対面だ。だが、金剛石が連れている女性で橙色めいた髪をしていることから、瑪瑙と類推した。警戒する珪孔雀石に、金剛石はにこやかに近づいた。
「やあ、珪孔雀石。それに、蛍石のお嬢さん」
「こんにちは」
蛍石は金剛石たちに怯えて珪孔雀石の後ろに隠れる。
「君たちも月長石たちを見に来たのかい? 僕と瑪瑙もそうだよ。瑪瑙。こちらは珪孔雀石と蛍石だ」
「初めまして」
これ以上ないほど素っ気なく、瑪瑙が挨拶する。彼女の髪と同色の瞳は冷ややかで、高慢な光を湛えている。
「初めまして。珪孔雀石です」
「ねえ、そちらのお嬢ちゃんはお口が利けないのかしら? それとも礼儀がなってないの? 両方?」
ちらりと蛍石を見た瑪瑙が意地の悪い口調で言う。蛍石がびくりとする。
「人見知りなんです。勘弁してやってください」
「人見知り、ねえ……。鉱石家の人間ともあろう者が、不作法なこと」
「瑪瑙。そのくらいにしておやり」
意外にも金剛石が妻の執拗な追及を止める。珪孔雀石は複雑な心中ながらもほっとした。
月長石のクラスのカフェは盛況だった。黒と赤の布で覆われた教室内には物憂いクラシックが流れ、白い布を被せた机の上にシフォンケーキやクッキー、コーヒーなどの飲み物が並んでいる。室内を行き来する生徒は完璧に執事とメイドに成り切っていて、珪孔雀石たちと金剛石たちに「お帰りなさいませ」と告げる。完璧なゴシック調のカフェだ。月長石と薔薇は中でも目立つのですぐに見つけられた。月長石は黒い執事服に身を包み、首にはループタイを着けている。念の入ったことにループタイにはムーンストーンがあしらわれていた。薔薇は濃紺の、裾の長いスカートのメイド服で、軽く化粧がしてあり、完全に華のある美女と化していた。二人は客に大人気で、一緒に写真撮影を、と頼まれている。金剛石はくっく、と咽喉の奥で笑った。瑪瑙も真っ赤な口紅を塗った唇を皮肉な形に歪めている。珪孔雀石は月長石に近づく。金剛石たちから離れたいという思いもあった。
「月長石」
室内に入った時から珪孔雀石や金剛石たちに気づいていた月長石は微妙な表情だった。
「珪孔雀石。いらっしゃい。蛍石。大丈夫? 欲しいものがあったら、何でも注文しておいで」
月長石の蛍石に対するいつもの甘さが出る。蛍石は涙目だった。
こくんと頷き、ポーチからスマホを取り出す。
「月長石。一緒に写真、撮って」
月長石は苦笑して、良いよと言った。