エリーゼのために
緑柱石の依頼、もしくは命令の為ばかりでなく、その日から月長石はコランダムを自主的に捜すようになった。まず草原から戻り、劇団の座長にコランダムのことを尋ねた。だが返ってきたのははかばかしくない内容だった。コランダムは普段は物書きをしていて、居住を一箇所に留めずあちこちのビジネスホテルや旅館を転々としているという。そして人目に晒されるのを嫌う。今回も顔出しに難色を示したのだが、座長が説き伏せて無理に挨拶に出てもらったのだとか。二、三年の演劇の際にも来るかと訊くと、もう彼は来ないという無情な答えだった。薔薇は座長を質問攻めにする月長石を苦々しい目で見ていた。その視線は感じたが、月長石は構っていられなかった。
コランダムが今回に限って姿を現したのは、月長石に会う為だろうか。
石譲りの儀式は最初から決めていたことなのだろうか。
考え出せば疑問は尽きない。
翌日の昼休み、月長石は草原に足を運んだ。膝までないくらいに伸びた草が風に吹かれて緑の波を作っている。ざざざ、と心地よい音色だ。今日は晴天で、黒揚羽がふわふわ舞っていた。草原なのにきらきらした細かい砂塵が舞っているようでもあった。
「コランダムを捜しているのか」
不意に後ろから声を掛けられて驚く。
紫水晶だ。学校指定のブレザーを着ていると何となく違和感がある。
赤く窮屈そうなネクタイは紫水晶には似合わない。彼には自由で大らかなものが似合う。それでも緩めてシャツの釦も一番上は外しているところがせめてもの自己主張か。
「そう」
「惚れたのか」
「多分」
紫水晶の顔に名状し難い色が宿る。手近な樹の枝をパキリと折り取る。
彼の癖かもしれない。
「薔薇が言っていた。コランダムが、お前になら『矢車』を譲ると。石譲りの儀式をしたと」
「うん」
月長石は素直に首肯した。何の嘘偽りもない。
紫水晶がまた枝を手折る。さすがに注意しようかと月長石は思う。
「コランダムはもういい年だ。俺たちの親世代だぞ」
「知ってる。でも、会ってみた彼は青年みたいで、年齢をまるで感じさせなかった」
そう、月長石が驚いたのはそこだ。奇抜な髪の色抜きにしても、コランダムはせいぜい二十代くらいにしか見えなかった。美しく儚く、そして風に溶けてゆきそうだった。
物思いに耽る月長石を見ている内に、紫水晶の中に怒涛のように激しく猛り渦巻くものがあった。彼はまだその正体を知らず、自分のことながら薄気味悪いとさえ感じた。
「お前のピアノが聴きたい」
突然、紫水晶が話を変えた。月長石は動じず請け負う。
「解った。曲は?」
「『エリーゼのために』」
音楽室に向かう二人に、黄玉と薔薇、緑子が合流した。示し合わせた訳ではなく、自然とそうなったのだ。何かと注目を集める面々が連れ立って歩いているので、ギャラリーが増えて音楽室は満員だった。グランドピアノの白鍵と黒鍵の上を月長石の白い指が臆せず滑らかに動く。どこか哀愁を帯びたメロディーは女性が好みそうな浪漫を秘めている。紫水晶のリクエストに、月長石はやや意外な気持ちだった。
演奏が終わると誰からともなく拍手が贈られる。月長石は目立つことが好きではない。当分、この音楽室でピアノを弾くのはやめようと思った。
帰宅してからは試験に向けて勉強だ。いつまでもコランダムのことばかりを考えてもいられない。けれどシャーペンを動かす時、ふと彼の顔が浮かぶことがあって、月長石を困惑させた。
勉強が終わると、月長石は蛍石と共に氷晶石の料理の手伝いをした。氷晶石は試験勉強を優先させて良いのよと言ったが、月長石はこの凛として美しい母の手伝いをするのが好きだった。
甘塩鮭と大根、薄揚げの炊き込みご飯、漬物のみじん切り入りの出汁巻き卵、豚肉とブロッコリーのオイスターソース炒め、豆腐とわかめの味噌汁。
輝水鉛鉱と珪孔雀石、黄玉に女性陣も加わると、消費される食糧も少なくはない。作るのも骨だろうから、それもあって、月長石はなるべく氷晶石の手伝いをするようにしている。出来上がった料理を、料理映えしそうな器を選んで盛り、広間に運ぶ。炊き込みご飯は焦げたところがとても美味しく、鮭のほろほろした歯触りに大根の風味、薄揚げがそれらを引き立てて絶品だった。大量にあったご飯が見る間に減っていく。月長石は輝水鉛鉱にもコランダムのことを訊いたが、予想通り、行方は知らないとのことだった。ただ、石譲りの儀式の話をした時は、ひどく驚いていた。
月長石は食後、入浴を済ませて着物に着替えた。木版摺更紗。水に映る森の緑のような印象の、墨、青、辛子色などの配色をアクセントとした着物だ。クリーム色の帯を合わせて優しく仕上げる。帯揚げは鶯色、帯締めは橙。部屋に戻り窓の外の夜景を見れば、桜の骨と見紛う枝々の間に星が寂し気に点々と散っていた。今夜の月は遠く小さい。机に向かい試験勉強をしていると、こつりと窓が鳴った。やはり来た。
月長石は立ち上がり、窓を開ける。紫水晶が断りもなしにひょい、と部屋に入り込む。
「お前、いつもそんなに着飾ってんの? 苦しくない?」
「着物は私の戦闘服だから。着慣れれば平気」
「俺と戦闘してるのかよ」
「最初の頃の貴方はそうせざるを得ない感じだった」
「じゃあ今は?」
「ただの習慣」
紫水晶は肩を竦めて畳に胡坐を掻く。
「貴方は試験勉強は?」
「とっくに済ませた」
月長石の通う高校は進学校だ。そこに編入出来るくらいの実力があるのであれば、中間試験も容易いものなのだろう。
「試験が終われば学園祭の準備が始まる」
「学園祭か。かったるいな」
「うちのクラスはメイド・執事カフェになる予定」
「好きだなあ。今時の奴って」
「紫水晶、お年寄りみたい。ちなみにメイドと執事は性別が入れ替わる」
「――――――――はあ?」
「薔薇は嫌がってた」
「そらそうだろ。あいつ、昔から母親に玩具にされて女装させられてたから」
「似合いそうではある」
「確かにな。それで、お前が執事か」
「そう」
「それも似合いそうだな」
破顔した紫水晶は、黒いパーカーのポケットから紙切れを取り出した。
「つい先日までコランダムが宿泊してたホテルの連絡先と住所だ。行くか」
「行く」
紫水晶が似合う夜だと月長石は感じた。黒い夜の中、粉砂糖のように星が散り。桜の過剰な妖しさ甘さは鳴りを潜めている。清新な紫が溶け込むに相応しい夜だ。
週末、月長石は紫水晶と黄玉と共にコランダムの宿泊していたビジネスホテルに向かった。ホテルは高校の近くのビジネス街にあり、小ぢんまりとしながらも清潔な佇まいだった。
「何でお前まで来るんだよ」
「それを言うなら何で紫水晶がコランダムを捜すのかって話だよ」
文句を言った紫水晶に黄玉が返す。月長石は黄玉にも演劇の夜の出来事を話していた。それから月長石の周囲に警戒するようになった黄玉だが、今回もボディーガードよろしくついてきた。ホテルの支配人に話を聴く。
「お電話で申し上げた空閑月長石です。コランダムさんのことでお話、伺えますか」
支配人は空閑の苗字に背筋を正した。予め輝水鉛鉱からくれぐれもと頼まれている。このホテルは輝水鉛鉱が大株主となっていた。月長石を小娘と侮ることは許されず、また、月長石には生来、そう侮らせない気品が備わっていた。
高価そうなスーツに身を包んだ肉付きの良い支配人は、月長石たちを応接室に通すとお茶を出して記憶を辿る目つきになった。
「コランダム様は業界では知られた方ですので、我々もプライバシー保護の為、他のお客様たちにコランダム様の滞在を知られないよう、気を配りました。あの方は何と言いますか浮世離れされていて、今回の仕事が終われば次には旅館に泊まるようなことを仰っておいででした」
「その場所は」
「近隣、としか」
「彼の使っていた部屋に入ることは出来ますか」
「はい。幸い、今は空き室ですので。ですが清掃係がもう何度も入っている筈ですので、めぼしい手掛かりは得られないものかと」
「構いません」
案内された部屋は広大な邸に慣れた月長石や黄玉、紫水晶にはかなり狭く感じられるものだった。室内をぐるりと見渡してみるが手掛かりらしいものはない。すると黄玉が鉛筆で備え付けのメモ帳の一番上のページを塗り潰している。テレビドラマの見過ぎだろうと月長石は思ったが、黄玉の動きがふと止まった。
「おい、これ、どういうことだ?」
鉛筆で黒く塗られた中、「尖晶石」という文字が白く浮き出ていた。