今は昔
鉱物は長い時を経ても美しくあり続ける。
そこには永遠という理想がある。
しかし人の身は、例え鉱物の名を冠しようとも、やがて絶える。
絶えないのは人の、想いのみである。
青金石(ラピスラズリ)が起きると、淡緑色の天蓋が目に入った。彼女は目を擦りながら欠伸して、緩慢な動作で寝間着から普段着へと着替える。普段着と言っても、彼女の家は旧家なので、その令嬢である青金石の服装も、自然、上質なものとなる。彼女は群青に白い鳥の柄が小さく散りばめられたシャツに、生成りの麻のスカートを選んだ。寒い冬の名残も遠くなり、春が今を寿ぐ季節である。赤い絨毯を踏みしめながら廊下を歩けば、兄の翡翠輝石と会う。青金石より二つ年上、十七になる翡翠輝石は、青金石を見ると穏やかな笑みを浮かべた。今日は学校も休みで、翡翠輝石は普段よりゆっくりしている。鉱石家特有の、亜麻色の髪と目は青金石と同じだ。ただ、青金石の目元が常に優しく和んでいるのに対して、翡翠輝石の目は切れ長でどこか隙のなさを感じさせた。
「おはよう」
「おはよう、にいさま。藍晶石おにいさまはまだお戻りでないの?」
そう青金石が翡翠輝石に尋ねると、彼は眉根を寄せて頷いた。
「戻らない。僕たちは鉱石家の人間として、いつどんな時でも相応の振舞いを求められる。藍兄上もそう思いながら戦っておられるのだろう」
時は昭和初期。
軍靴の音も高らかな時世には逆らえず、それでも家の格式ゆえに、鉱石家からは長男の藍晶石一人のみが徴兵された。二人息子がいるところに次男でなく長男が徴兵されるのは珍しく、これは藍晶石自身が強く希望したことであった。藍晶石は愛情深く、弟を庇ったのだ。聡明かつ鋭敏な鉱石家の人々は、先見の明によりこの戦争は負けるだろうと思っている。ゆえに、将来を嘱望された長男がわざわざ死地に赴くようになった経緯に、父である緑柱石は内心、打ちのめされていた。
食堂に行けば母の桜石も父の緑柱石も、もう着席していた。物資が乏しくなった昨今、それでも鉱石家にはまだ砂糖も米も小麦も、他食糧も入手出来る余裕も蓄えもあった。そうした環境ゆえに、青金石にはまだ戦争という実感が湧かない。少女特有の夢想する、あのふわふわとした感覚で日々を過ごしていた。
桜石が蓄音機を鳴らしながら編み物をしているところに、青金石は顔を出して、母の首に腕を巻きつけて甘える。桜石も心得たもので、編み物の手を休め、青金石をあやすように抱き締める。微かな嗚咽。
青金石が見ると、母は泣いていた。桜石が編んでいたのは、藍晶石のセーターだった。まだ気が早いように思われるその行為に、桜石の心情が如実に表われている。
母をこれほど悲しませる戦争というものが、青金石にはよく理解できない。理屈は知っているが、何だかいざ自分の身に起こると、戦争は、殊に勝ち目のないとも言われる戦争は、顔のない、黒くて大きく奇怪な化け物のようであった。青い空は青いままなのに、どこか異質の色を孕んでいるように見えた。
午前中の家庭教師による勉強も終え、青金石がベッドに転がり上を向いていると、密やかに翡翠輝石が室内に入ってきた。そのまま、青金石のすぐ横に寝そべり、青金石の手を握る。青金石は特に頓着することなく、兄のするままにさせる。兄が自分を好いているのは知っている。寄り添って生成された鉱物のように、翡翠輝石と青金石は近しく触れ合っていた。藍晶石も、戦地に赴く前は、よく青金石に触れた。これらの行為は兄妹の垣根を超え、乱反射する光を放つかのように思われた。
青金石のふっくらした唇を翡翠輝石が甘く食んでも、彼女は抵抗しない。それどころか、もっと、と小鳥が餌をねだるように唇を自ら進んで突き出した。翡翠輝石もまた、小鳥のように青金石の唇を啄んだ。兄妹の遊戯、もしくは悪戯は人目を忍んでこっそりと行われた。
「青金石。藍兄上と僕と、どっちが好き?」
青金石は小首を傾げてにっこり笑う。
「選べないわ。お二人共、大好きですもの」
「悪い子だね」
翡翠輝石はくすくす笑うと、青金石の胸元をはだけさせ、花の印をつけた。
「花の色は、うつりにけりな、いたずらに」
「青金石はまだ幼い。そんな歌は似合わないよ」
「適当に詠んだだけよ、にいさま」
百人一首の小野小町の歌を口ずさんだ青金石は、また笑い、翡翠輝石の髪を優しく掻き遣った。
やがてその花の印をつけた翡翠輝石も、戦争に駆り出された。
国には、政府にはもう余裕というものがなかった。緑柱石は馴染みの政府高官に断固として抗議したが、時世が時世ゆえ諦めろという無情な答えをされた。
桜石は、二人分のセーターを編み始めた。
母の心は、これらを息子たちが着る時がまたきっと来ると信じて疑わない。
藍晶石が戻った時は、鉱石家に束の間、眩いばかりの幸福が満ちたようであった。
青金石は長兄に飛びつき、抱き上げられた。
心尽くしのご馳走が並び、藍晶石の無事を皆で祝った。
同じように翡翠輝石も戻るという希望を誰しもが抱いた。
けれど翡翠輝石は戻らなかった。
代わりに届いたのは、戦死の報告だった。
母の桜石が号泣し、青金石も藍晶石も泣いた。泣かなかったのは、父である緑柱石だけだった。弱いあれが悪かったのだと、殊更、厳しく言ってのけた。桜石がますます激しく泣いた。翡翠輝石の為に編んでいたセーターを抱いて涙した。空気を震わせるようなその泣き声は、青金石の心も震わせた。
だがある初夏の晩、水を飲もうと青金石が台所に行く途中、居間の縁側に座る緑柱石を見た。父の背中はやや丸くなり、悄然としていた。何を言う訳でもない。ただ、無音の嘆きが聴こえた。傾斜した背中が全てを物語っていた。よく見れば落ちた肩が、小刻みに震えている。季節に遅れた蛍が、緑柱石の周りを舞っている。その蛍の明滅は、逝ってしまった翡翠輝石の魂のようであり、緑柱石の想いの凝りでもあるようだ。青金石の頬を涙が滑り落ちた。そうだ、これが父だ。息子を亡くして平気な親がいるものか。青金石の胸が熱い思いで一杯になった。
そして青金石も部屋に戻り、泣き濡れた。大切な身体の一部が欠落したと感じた。
青金石は藍晶石に甘えて眠るようになった。藍晶石もそれを拒まない。今の二人は傷を舐め合う獣同士のようだった。
事実として、青金石は誰かに触れていないと、触れられていないと寒くて寒くて仕方なかった。それは夏でも例外でなく、そしてそんな青金石に、藍晶石は愛情深く接した。時に青金石は慟哭した。
「翡翠にいさま、にいさま、死んでしまうなんてそんな」
言っても詮無いことを、それでも言わずにいられないのが人である。藍晶石は歯を食いしばり、自らも涙を堪えながら青金石を抱き締めた。青金石の顔を埋めた肩が、熱い涙で濡れた。
青金石は父の勧めで見合いをした。これもまた娘の傷心を慮った緑柱石の親心ではあった。青金石は拒むことなく、見合いに臨んだ。
相手は大きな病院の跡取り息子だった。彼が喋りまくる間中、青金石はずっと黙りこくっていた。青金石の心はがらんどうとして、跡取り息子の言葉はとても虚しく空々しく聴こえた。足が地についてないようで現実味がない。その見合いは結局、破談となった。
煌めく思い出の世界に青金石は生きていた。目を開けている時より閉じている時のほうが真実だった。この想いばかりは、幾星霜も生き続ける。自分の身が果てても。
傾いた妹の心を、藍晶石は誰よりもよく理解していた。あらゆる災厄から青金石を守るように、藍晶石は心を砕いた。
青金石は戦後まで長く生き、独り身を通した。藍晶石も妻帯しなかった。
鉱石家の光は、影は、このようにしてやがて青金石が病で没して家が途絶えるまで細々と続いた。
表紙:美風慶伍さん