06.闇を抜ければ闇
「なんでアシィヴは戦わないの?」
シャヒィンがいった。わたしは苦笑してそれに答える。
「痛いの、嫌じゃない? それにわたし、弱いし」
それからわたしは、いまいる砂浜から海の向こう、島の外へと目を向ける。西陽がわたしとシャヒィンの体を赤く照らしている。
わたしは?
おれは、だろう。
おれはバネッダ。バネッダ・ハウクであって、アシィヴ・パルプという名のブルースライムではない。
自分の体がスライムであることに、そして自分がアッシュであることに、おれは少し遅れてから気づいた。
ああ。これは夢だ。
シャヒィンとは、横に並んで夕陽を眺めているブルースライムのことか。彼女は、アッシュの友だちらしかった。アッシュの身の上話に出てきたような、出てこなかったような。
「アシィヴは弱くないよ」
「いやいや。そこはさすがに自分でもわかってるってば」
「だって昔、森でわたしを助けてくれたじゃない」
「またなっつかしい話を持ってきたわね……」
もう十年は前のことだ。わたしを姉のように慕ってくれていたシャヒィンが行方不明になった事件。シャヒィンをからかって遊んでいた悪ガキどもが森のなかに彼女を置き去りにしたまでならば、当人たちを叱ってシャヒィンを迎えに行くだけで済んだであろう事件。
突然の天候不良。大雨のなかで大人たちの手は島内の安全確保に回され、捜索隊が解散してしまったあの夜。明日の朝にならないと二次被害が起こるといわれても、当時子どもだったわたしにそれが納得できるはずもなかった。
幼いころから賢かったシャヒィンは、森の高い位置にある洞穴のなかでじっと助けを待っていたっけ。
「昔はムチャやってたなぁ。イタズラしてたし、喧嘩だってやってた」
「結構負けてたよね」
そういってクスクス笑うシャヒィンに、わたしは呆れてため息を吐いた。
「『弱くないよ』って、やっぱりお世辞なんじゃん」
「ううん、違う違う。たしかに喧嘩っ早いわりにあんまり強くなかったけど、でもわたしがいじめられてたとき、お兄ちゃんよりも先に助けてくれてた」
「ねぇ、逆にそれを黙って見過ごすスライムっている?」
「いないと思う。けど、それが大猪だったら話は変わるんじゃない?」
シャヒィンがいっているのは別の話。たしか六、七年前の出来事だ。野生の猪が島の作物を荒らしていたなかで、不運にも襲われてしまったシャヒィンを助けたときの、苦い記憶。
「わたし、シャヒィンを庇ってすぐに吹っ飛ばされてたんだけど」
「でもアシィヴがいなかったら、長たちが助けにきてくれる前に下手したら死んでたよ、わたし」
シャヒィンがにっこりと笑う。
「アシィヴのそういうところが、わたしは好き。いざってときにはちゃんと勇気を振り絞れるし、すごいことだっていっぱい考えつく……そんなスライムに、わたしもなりたいな」
「ま、欠片ほどの勇気しか持ってないからね。だから逆に使いどころってのを見極めてるのよ」
結局、わたしはわたしに対するアシィヴのその想いを裏切ることになった。決闘の成人儀礼を避け、皆に白い目で見られ、いつの間にかシャヒィンとの交流もなくなった。
あの欠片ほどの勇気を、わたしはどこにしまったのだろう。
無力で弱いわたしが、わたしは嫌いだ。
※
目を開け、自分の意識を確認する。五体を確認する。周囲を確認する。どうやら鍾乳洞らしき場所のようだ。
手足は動く。おれはバネッダだ。間違いない。生きている。滴り落ちる水滴と濡れた地面。ひんやりとした空間。順番に一つずつ、箇条書きでメモを取るように状況を整理していく。服は着ている。ナイフはない。ブーツに隠していた小刀はある。いまはいつだ。最後の意識は、ガイデルシュタインの声とともにあった。先ほどまで夢に見ていたアッシュは? 隠れていたはずのライアは? おれを襲ったガイデルシュタインは?
おれはゆっくりと立ち上がった。
この洞窟を鍾乳洞だと推測したのは、その地形にある。天井から下がるいくつもの鍾乳石や鍾乳管、遠くの壁には松かさのような形状が棚田のように広がり、地面に手を置いてみればどこもひんやりとした水気が残っていた。
いまいる場所は洞窟の前後に比べて少しばかり天井が高い空間で、一本道ではあるがどちらに進めばこの洞窟を出られるのかはわからなかった。
洞窟の出入口から吹き込む風でも感じられれば良いが。
もともとどちらを向いて倒れていたのかもわからない。おれは二つの道を見比べる。穴の大きさは変わらないが、まずはどちらかに進んでみることにした。この洞窟はなかなかに広い。経緯はわからないがおれがここに入ることができている以上、先に続く道がおれより小さなものになれば引き返せば良いはずだ。
結果からいえばおれは一時間もかからずに洞窟を脱出できた。岩壁の隙間を縫うような狭い場所もなく、突然道が途切れることもなく、水に潜らなければいけない箇所もなく、出口がはるか頭上に存在しているわけでもなかった。
幸運なことが二つあった。一つは出口への道筋が示されていたこと。二つ目は、その出口への道筋が作られる原因と出会わなかったことだ。
洞窟の外は森林地帯で時間帯は夜、月の位置を見る限り、相当に時間が経っている。夜更けはとうに過ぎ、ふたたび日の出で空が白み始める直前といったところか。考えていた以上に長く気を失っていたらしい。すぐに状況を把握する必要がある。おれはもっとも洞窟の出口に近い位置までたどり着いていた道筋に感謝と追悼の祈りを捧げた。
道筋とは、死した人間たちだ。もとの容姿がわからないほどに喰い荒らされた者もいれば、体液だけを吸われて干からびた者もいた。なんらかの理由でここに連れてこられ、餌となったのだろう。
普段ならばこのように早急な確信を得ることはない。思い込みで真実を見誤ることを避けたいからだ。しかしこの状況におれは見覚えがあった。
ラスフェンの古城の地下牢。ガイデルシュタインのそれと酷似していたのだ。あの吸血鬼は捕まえた餌を縛らない。出口も閉じない。だが逃げようとすれば周辺を徘徊、監視している眷属に喰い殺される。苦痛を最小限に留めたい者は目の前の希望を放棄し、吸血鬼の餌となるのを待つ。その地獄を、おれは地下牢の生き残りから聞いていた。
ここはガイデルシュタインの隠れ家だった。傷を癒やし、再起を図るための、だ。だとすれば、ここにおれを連れてきたのはガイデルシュタイン本人なのか。
いや。
意識を失う前の最後の記憶。おれに向けられたガイデルシュタインの言葉。少なくともあの時点のガイデルシュタインにとって、おれに利用価値はなかったはずだ。でなければ――。
おれの思考は、そこで完全に止まった。
直前に考えたことを、もう一度思い返す。
そして、首筋に手を当てた。
まるで血が凍っているかのように肌は冷たく、そこでおれはようやく、自分の身になにが起こっているのかに気づいた。
夜だ。いまは月明かりがあるが、それにしては周囲が見えすぎる。洞窟のなかに明かりはあったか? おれはこんなに夜目の効く人間だったか?
異能や機器無しに洞窟の暗闇を進める人間がいるのか?
心臓が高鳴る。おれはなにも考えることなく走り出した。理由もなく走ったが、目的地はある。森林地帯の先。おれが死に場所として選んだ光の崖。アッシュやライアともしも出会えるならばそこの可能性が高い。
「あの洞窟はな、死体安置所だ」
おれはビクリと体を震わせ、足を止めた。森のなか、どこからか声が聞こえてくる。
「もとは洞窟を縄張りとしていたいくらかの魔物の住処だった。そこを明け渡してもらったというわけだ」
低く、恐怖を煽る声。ガイデルシュタインの声だ。
「なんの因果かバネッダ・ハウクはそこにたどり着いた。無意識のうちに吸血鬼が住みやすい場を嗅ぎ分けるとはな」
「吸血鬼……」
おれは眉をひそめ、口端を曲げた。
「眷属の間違いじゃないか?」
「眷属ならば、バネッダ・ハウクは上位であるガイデルシュタインに一切の抵抗ができない。肉体、精神を問わず、である。己の胸に手を添えて気持ちを問うてみよ」
眷属――吸血鬼が自身の血を分けることによって支配下においた生物――ではない? だがおれはこの吸血鬼に首筋を噛まれた。そして目覚めたおれには、人間ではありえない暗視能力を持っている。
「理解していない様子だな。ならば教えてやる。その身になにが起こったのかを」
ガイデルシュタインのその声とともに、おれの左肩に激痛が走った。失くしていたおれのナイフが、どこからか投擲されたのだ。
おれはすぐさまナイフを抜き、傷口を圧えた。おれは、そこではじめて一つの事実に気づき、目を見開いた。
痛みが収まらない。傷が塞がらない。
突風。周囲に現れる血の霧が、正面に一つの人影を作り上げていく。
腕を組んだガイデルシュタインが、おれの目の前に現れた。
「そのまま圧迫していれば血は塞がる。傷の治りも常人よりは早くなっているはずだ」
「どういうことだ」
「こういうことだ」
いうが早いか、ガイデルシュタインは自身の首筋を手で払った。血の刃がその主であるガイデルシュタインの首筋を切断する勢いで斬り裂き、しかし次の瞬間にはなにごともなく傷が塞がっていた。
おれは目を見開いた。
傷は塞がっているが、首の白いジャボは切断されたままだ。本体が形成した身代わりのガイデルシュタインならば服ごと再生するはずで、つまり眼前にいるのは影のなかに隠れていた本体だということになる。そして――。
「まさか」
「そういうことだ。もらい受けたぞ、その不死の力!」
そういい、高笑いするガイデルシュタインを見て、おれは膝をついた。なんという失態だ。まさか力を奪える魔物がいるとは。力を魔物に奪われるとは。しかもこれは、ただの異能ではない。
「安心するが良い。ただ力を奪ったのではない。交換だ。吸血鬼としての力はバネッダ・ハウクに譲渡してある。せめてもの手向けというものだ……というのは建前でな」
「吸血鬼の力……」
「そうだ。本来の吸血鬼の異能は血を凍らせ、血を分けたものを眷属とするだけだ。だがこの異能はその副産物として、身体能力や自然治癒力をある程度向上させることもできる。不死の力を吸い奪うまではその肉体が無事である必要があったのでな。そのための交換というわけだ」
身体能力の向上。つまりこの優れた夜目は、吸血鬼としての暗視能力というわけか。
しかし吸血鬼が持つ異能がそれだとするならば。おれはもう一度、意識を失う直前の言葉を思い出す。
「状況はわかった。で、なにが目的で戻ってきた?」
「ほう?」
「あの別れ際、どうも今生の別れみたいな言葉選びだったが?」
ガイデルシュタインが鼻を鳴らした。細めた目をおれへと向けてくる。
「愚かではあるが同時に賢くもあるようだ」
「はぁ?」
なにをいっている。
疑問符を浮かべたおれのもとに、二羽の蝙蝠が飛来した。野生のそれよりも大きな盗血蝙蝠。
おれはその正体に気づき、その場から飛び退いた。
直後、蝙蝠たちが弾け、周囲に血液が炸裂した。
「避けたか」
「あいにくその手の爆弾には覚えがあってな!」
蝙蝠を破裂させ、内側に仕込んだ血を炸裂させる手榴弾の一種か。
「眷属か。嘘を並べるのが上手いじゃないか」
「嘘? なにをいっている」
そういうガイデルシュタインの周囲には、何十匹もの盗血蝙蝠が集っていた。
「眷属化は吸血鬼の能力だといっただろう。だがその蝙蝠は……」
「彼らは眷属ではない」
ガイデルシュタインがピシャリといい放った。
「ガイデルシュタインという存在に惹かれてきた魔物たちだ。そして勝利のためならば、喜んで死を選ぶ甲斐性も持ち合わせている」
おれは余裕を見せるために口端を曲げた。油断するとすぐに表情が固くなってしまうほどの威圧感と緊張感。
「そいつはすげぇや」
「魔王軍八傑ゆえ」
次々と襲いかかってくる爆弾蝙蝠に、おれは逃げるしかなかった。致命傷となるであろう攻撃を幾度となく避け、気づけばおれは森を抜け、光の崖への道を登っていた。
それはアッシュたちとの合流を狙ったものではない。蝙蝠たちの動きに対応して逃げ続けた結果の到着、つまり。
「誘導された……?」
「その通り」
悠々と崖先に舞い降りたガイデルシュタインと、背後の道を塞ぐ大量の蝙蝠たち。おれは取り落とさないようにしまっていたナイフを改めて抜いた。夜明け前の白い世界のなかで、ガイデルシュタインがまとう黒は強烈な威圧感を放っている。
「ここはいい。お前の悲鳴も仲間たちに届くであろう」
「お前……」
「わざわざ半日をかけて戻ってきた理由を問うていたな」
ガイデルシュタインがため息を吐いた。
「バネッダ・ハウクより一つ奪い損ねたものがあることに気づいたのだ。だがバネッダ・ハウクは欺けても、ガイデルシュタインは欺けない」
「……なにをいってる?」
「それを奪い、ガイデルシュタインのもとに来るであろう勇者たちの首を撥ね、古城を奪った者たちの命を奪い……復讐は完結する」
ガイデルシュタインがなにをいっているのか、おれにはまったくわからなかった。いまおれにわかることといえば、文字通り目の前に一日ぶりの死が迫ってきていることだけだ。
吸血鬼の異能の副産物は、メリットばかりではないだろう。おそらく、同じように吸血鬼のデメリットを背負うことになる。
ガイデルシュタインは他の吸血鬼と違い、耐性を持つことでいくらかの弱点を克服していた。しかしその耐性は、おれにはついていない。
陽光に当たればその身は溶け、銀で穿たれればその身は朽ちる。
ガイデルシュタインがわざわざ教えてくれたではないか。
おれの目の前に、朝日が登ろうとしていた。