04.偶然を信じる
赤道に近い小さな島。多くのスライムが暮らすその島には、性別を問わずおこなわれる成人儀礼が存在する。
内容は単純で、島のスライムをランダムに選出しておこなう決闘訓練だ。同種族かつ訓練とはいえ手加減は原則許されず、ゆえにぶつかりあえば負傷は必至で、しかも誰が相手であろうと勝たなければ一人前の大人としては認められない。
そんな島でアシィヴといえば、臆病者を意味する言葉だった。
わかっていた。この島では誰もがそうやって大人となった。社会の一員として認められた。それは敵を滅ぼす力を求められているのではなく、島を守る力を求められているのだとも理解している。
最初の相手は友人のムスキ・エルンダで、わたしは当日に腹痛を引き起こし、無事に棄権となった。このときは本当に腹痛を引き起こしていたし、家族もこれを残念がり、わたしを慰めてくれた。ムスキはわたしと同じく次の日程へ臨むことになったが、その決闘もわたしが腹痛を引き起こしたためにムスキは代役と戦うことになり、見事に勝利した。
ハンダン・マントラは近所に住む仲の良い女性で、わたしはよく「おばちゃん」などと呼んで懐いていた。この戦いの日は早朝から集落の外に出かけ、外出中に近くの森で迷ったなどといい訳をしたが、周囲の者たちのなかにはもう、真実に気づいている者も少なくなかったように思う。再戦の日は運良く風の強い日で、外部環境による影響を考慮して決闘は中止となった。
次に決まった相手はモハメド・ピーツだった。シャヒィンという仲の良い友だちの兄にあたる人で、彼はわたしが戦いたくないことに気づいていた。しかしそれでも掟は掟だといい、彼はわたしと戦うことを望んだ。彼は親切にも決闘の練習を開いてくれた。八百長とまではいかないが、練習と同じ動きを本番でも再現してくれると彼はいってくれた。
しかし当日、わたしは逃げた。棄権の理由はもう思いつかず、自宅に残るわけにもいかず、わたしは一日半の間、集落の外で意味もなく過ごした。ほとぼりが冷めるわけなどない。同世代のなかでまだ決闘に勝っていないのはわたしだけで、周りの目はきわめて冷ややかだった。
しょうがないじゃないか。練習中の組み手がすでに痛かったのだから。それにこちらから暴力を振るうのも、まったく気持ちの良いものではなかった。
自宅に戻ると家族から散々に怒られたが、わたしはなにもいい返せなかった。両親が一人娘のことを気にかけるのは当然だし、わたしは両親が他のスライムたちから責められていることを知っていたからだ。
それでもわたしは、できなかった。戦いとなると体が震え、頭が真っ白になるのだ。
その後しばらく、なぜか決闘の日時を知らせる便りは届かなかった。
わたしが島から追放されることが決まったのは、それから一週間ほどあとのことだった。
※
陽光がだんだんと森に射し込むようになってきている。太陽が東の崖を越えて、天頂に近づいているらしかった。
さて、そんななかで聞いたアッシュの語りをまとめるとこうだ。その語りが一段落したのを見て、おれは質問のための手を挙げた。
「それで、それに逆らわずに島を出たのか? 両親もよくそれを受け入れたな」
「ううん。実はね、これも成人儀礼の延長線上なの」
そういってアッシュは体内から小さな黒い岩石を取り出した。おれの爪ほどしかないそれは、アッシュによれば『黒の陽岩』と呼ばれる石らしい。
「黒の陽岩は、対になる赤の陰岩と引き合う性質を持ってるの。わたしはいま、外で見聞を広めるっていう儀式の途中ってことね。だからちゃんと時期がきたら、この石を頼りに里の仲間が迎えにきてくれるってわけ」
ふーん。おれはそう軽く返してから独り考え込む。
訓練ですら、ましてや島の知り合いが相手ですら戦えない子を、たった一人で島の外へ? いま世界的に魔物は凶暴化の傾向にあり、魔物同士で戦っていることもあるし、人間にとって無害とされてきた魔物についても危険と判断され、事前に討伐される事例も増えている。島だったから外界との連絡が取れなかった? いや、魔王は全世界に向けて宣告をおこなった。スライムたちも現在の世界情勢は知っているはずだ。
なにかが引っかかる。しかし結局のところ、これ以上おれがわかることなどはない。スライムの社会の文化といわれてしまえばそれまでだ。
「それじゃ、おれたちは追放仲間ってわけだ」
だからおれは、当たり障りのないことをいった。いまは深い追及は避けるのが無難だろう。
「嫌な仲間」
「あ?」
「はい質問です」
アッシュとおれの間に半透明のライアが入ってきて、おれたちは同じように仰け反った。
その真ん中では笑顔のライアが肩のあたりで小さく挙手している。アッシュが続きを促した。
「島からどうやってこの谷まで来たんですか? あと、この島のことは知ってたんですか?」
「え? えっと、風の噂……かな? 地上の楽園って呼ばれてる場所……ここのことなんだけど、そういう話があって、どうせ島の外に出るなら行ってみたいなぁって考えてたの。そこは人間も魔物も優しくて、争いもなくて、あと景色がすごくて……」
「内情とずいぶん差異があるな」
「たぶん、魔王さまの影響だろうなぁって。でもさ、ちょっと不思議なんだよね」
アッシュの言葉に、おれは首を傾げ、理由を問うた。
「この場所が地上の楽園って呼ばれてる話を初めて外で聞いたの、わたしが初めて降りたところから近くにあった人間のバザーでなの。そのときはなんとも思わなかったんだけどさ、よくよく考えるとおかしいじゃん?」
「どこが?」
「島とかバザーからここって、結構遠いのよ。それなのにそんなピンポイントでわたしが欲しい情報が手に入るって変じゃない?」
「それは偶然なりカクテルパーティー効果なりいくらでも……ああ、なるほど」
おれは合点したが、ライアはアッシュの言葉の意図をまだ測りかねているようだ。
「運命だとかいい出すのかと思ったが、要するにその情報は意図的に流されたものなんじゃないかと疑っているわけだ。つまり、成人儀礼の代替物がここにあるといいたいんだな」
「これは運命なのよ!」
「運命だったわ」
思わず復唱してしまった。運命だった。わかったフリしてまったく合点できていなかった。
アッシュはおれなど意に介さない様子で目を輝かせはじめていた。
「ねぇ、知ってる? バネさんが死ぬ場所として選んだあの崖、わたしのお気に入りスポットだったんだよ。あそこ、絶景でしょ? ここにきて、ほかの魔物とかは怖いし、食糧もほとんど手に入らないけど、あそこからの景色を見ると癒やされて、力が湧いてくるの!」
やたらと早口になったな。
「ああ、おれはあやうくそんな場所を心霊スポットに変えるところだったわけだ」
「ごめんなさい、ぼくが幽霊なばっかりに……」
「いや、ライアはいままったく関係ない」
勝手に想像して勝手に落ち込んだライアに、おれは慌ててフォローを入れた。
「わたしがここにきたのも、バネさんやアッシュと出会えたのも運命! それってすごく素敵じゃない?」
「素敵だとは思うが、どうして急にテンションが上がったんだ……おい」
理由はすぐにわかった。アッシュが、口をなにやら動かしている。まるでなにかを咀嚼しているような素振りの彼女は、おれがそれを眺めていることに気づくと、慌てて不定形となって地面に延びた。
延びたはいいが、さすがに誤魔化すのが遅すぎる。
「なにを食べてるんだ?」
無言の返答。
「別におれにも食わせろとか、そういうんじゃないから」
そういってからどのくらい経っただろうか。アッシュが、少しずつ丸型へと戻っていく。
「えーっと、バネさんからもらった干し肉をまだ取っておいたのを忘れてただけでね?」
さっき石を取り出したときといい、どんな体の構造なんだ。水たまりになっているときにどう考えても干し肉よりも薄く延びていたはずだが、それがスライムの異能の力なのだろう。おれは深く考えないことにした。
「食べなくていいんですか?」
ライアが心配そうにこちらをうかがってくれた。
「腹は減ってるけど行動に支障は出ないと思う。『肉体に蓋をする異能』をもらってるのをおれも忘れてたよ」
「肉体に……蓋?」
「本来は体外に発露するタイプの異能を制御したり、代謝を抑えたりっていう異能でな。なにかあって古の災厄が途中で飛び出さないようにって施されたんだ」
アッシュとライアが顔を見合わせた。
「じゃあその異能のおかげでその古代の危ないのが体内に留まってるってことじゃないの?」
「その可能性は高いですよね」
「いや、この蓋で呪いを抑えることはほぼ不可能らしい。力としての強度が違いすぎるんだと。けど、たしかに可能性としてはありえなくもないのか……?」
仲間にいわれたままに可能性を排除していたが、たしかにいまおれが生きている時点でほかの仮定も大して信憑性が高いものではないか。考えは手広く持っていたほうがいいかもしれない。
「バネさんは、それを確かめにまた仲間のところに戻るんですか?」
ライアの言葉に引っかかりを感じ、おれは眉間にシワを寄せた。
「おれは戻る気はないぞ」
「え?」
「え?」
「え?」
なにそれこわい。
「帰るつもりならこんなところでゆっくりしてないし、さっさとここを切り上げて人里にでも向かってる」
「どうして?」
「どうして?」
アッシュの問いにそのまま同じ問いを返す。
「もう十分旅は堪能したよ。一生分のスリルも味わった。勇者とともに世界を救うだなんて一大決心したことを後悔しちゃいないが、おれには派手なのは合わなかった。理由、こんな感じでいいか?」
「で、でも、不死なんでしょ? 死なないってことでしょ? しかもバネさん、人間離れした動きもしてたし……」
アッシュの声は先ほどまでと比べるとだいぶ細い。単純におれの考えが理解できない? いやいや。
「戦いたくないって思ってるにしちゃ、やけに積極的な考えなんだな」
「それはっ……わたしが弱いからで……」
俯いたアッシュを見て、おれは彼女の昔話を順に思い出していった。臆病者のアッシュとは、てっきりメンタルのこととばかり思っていたが。
「不死はたしかに無敵かもしれない。けどあくまでこれは呪いの副産物で、いつなにが起こるかなんておれにはわからない。世界を救った英雄として崇められてる真っ只中で発症したりしてみろ。おれは人類史に残る極悪人になるんだぞ?」
「じゃあ、バネさんはこれからどうするんですか?」
ライアの問い。おれはふむと顎に手を当てて考え込んだ。
そして、今日の朝日の直前、走馬灯の代わりに心に巡った考えを、ふと思い出す。
「『スローライフ』か」
「スローライフ?」
「ああ。世界から離れて、緩やかに平和に。そうだ。おれは、スローライフを送りたい」
これは心のどこかで燻っていた願いなのかもしれなかった。勇者御一行として世界を救う旅はたしかに魅力的だった。だが結局のところどこかで限界は感じていたのだ。そして同時に、おれはゆっくりとした生活に憧れていた。魔王を討伐するために世界が頑張っているのだからなどという理由で切り捨てていた願いだったが、こうやって俗世から離れざるを得ない状況が前提にあるのならば、皆もそれを望むことを許してくれるのではないか。
いまならば。
おれはそう思い、しかしそれがまだ先の先にある願いだということを、周囲にわずかに漂う死の臭いから理解した。
「アッシュ、おれにまた巻きつけ」
「急にどうしたの?」
「敵だ」
死の臭いとは、まったくのデタラメや個人の感想ではない。おれの肌を撫で、唇を湿らせ、毛を逆立たせる不快感。一度味わえば忘れることはないであろうこの殺気を、おれは知っている。
まさかと思った。
しかし眼の前に突如として無防備に現れたメタルクローを見て、おれは思わず大きなため息を吐いた。目線は少しも逸らさず、己の不運を呪ってみる。
「なにあのメタルクロー……?」
木々の間の一段高い開けた場所に一匹で立ち、こちらをじっと見つめている鉄爪の四足歩行。
地面からの草木と陽光不足ではっきりとは見えないが、おそらくあの赤い目は。
おれの注意が背後に移った。一瞬にして跳ねたおれは、着地も考えずに体を前に投げた。湿り気のある土の上を、マフラーアッシュとともに一回転半。その場に取り残されていたライアが、慌てておれたちの側へと浮遊した。
おれたちが立っていた周辺に突如として集うブユの大群の羽音とその異様な光景に、アッシュとライアは目を見開いて悲鳴を上げた。ブユの黒い塊はやがて柱のように形成され、ブユばかりであるはずのその蠢く柱から、何匹ものコウモリが飛び出した。
盗血蝙蝠。おれはそのコウモリが動物ではなく魔物であると知っている。その飼い主を知っている。
ブユが一瞬にして四散した。黒の柱のなかから、一人の、いや一体の魔物が姿を現す。細身の長身にまとう漆黒のマントとジュストコール。黒と金の混じった長髪に病的にまで白い肌。薄暗い森のなかで赤く光る二つの眼。拡散せずに周囲を旋回していた数十匹のブユと三匹のバンバットは、その魔物の呼気を浴びただけで落下し、動かなくなった。
いや、違う。
彼らはまた、そのうちに動き出す。
「ガイデルシュタイン……」
「覚えていてくれて光栄だよ」
低く、本能的に人間を怯えさせるような、それでいて惹きつけるような低音。口のなかでわずかに発した声さえ、この魔物には筒抜けである。研ぎ澄まされた五感は、獲物のわずかな気配さえ察知する。
「ああ、なるほど」
いざ対面してみると、アッシュの気持ちもわからなくはなかった。
「これが運命ってやつか」
「否。これは運命ではなく必然だ」
おれの言葉に魔物は短く答え、自身が持つ鋭い牙を見せるようにニカリと笑みを浮かべた。
魔王軍八傑。吸血鬼・ガイデルシュタイン。
かつておれがカナンたち勇者御一行とともに倒した敵が、いま目の前に立っている。