11.月下、光る目
穴から出てきた少女の身長はおれの腹部ほどまでで、先述の通りに褐色の肌と腰まで伸びた黒髪がまず目に入る。逆にいえばおれから見てその他の特徴的な部位はなく、つまり彼女は魔物ではなく人間の少女らしかった。
しかし処理が追いつかないほどに疑問点があった。
おれは考える。この少女と頭領の関係性がわからない。迷子を保護したというのがもっとも賢明な考えか。なぜならば彼女はそれなりに衛生的な衣服を身に纏っているからだ。しかもたとえば毛皮や草をまとめたような簡素なものではなく、麻織物のシャツにパンツとしっかりとしている。二者の様子を見てまず思い出したのはどこかの書物で読んだことのある「動物に育てられた人間の子」だが、ならば泥や土汚れを除いて清潔な衣服を羽織っている理由が説明できない。サーカスに所属する少女が仲間のライオンと心を通わせている映像のほうが上手くこれと合致しているが、相手は魔物で、しかも人間と敵対している魔物だ。
混乱するおれに、頭領は真剣な顔を向けた。
「わたしなりに言葉は教えてある。ここから逃してほしい」
「頭領……」
「パパ、けがしてる……!」
おれの言葉を少女が代弁してくれた。
頭領の胸から腹部にかけて、大きく裂傷が走っている。体毛を伝う血の量は相当なもので、このレベルの負傷では人間はおろか動物や通常の魔物ですら通常は動けないだろう。
「心配はいらない。ここから逃げる算段を整えた。彼らとともにここを降りるのだ」
「うん! 早く逃げよう!」
少女は素直に頷き、頭領が説明するまでもなく崖の側へと歩を進めた。しかし頭領がその場に留まっていることに気づいたのか、すぐに振り返って屈み込んだ頭領の横へと戻ってきた。
「いたいの?」
「痛くはないが、休息が必要だ。先に行ってほしい」
「やだ! パパもいっしょに逃げよう?」
おれは独り感心した。少女のなかで逃げるという行為はすでに確定なのだ。頭領が事前に話していたのか、この血生臭い気配を感じ取ったのかはわからないが、どちらにしてもきわめて聡明だ。
しかし、少女にもわかっていないことはある。
「頭領。この服の出処に心当たりがあるか?」
「姿を見た集落のシスターが置いていったものを拝借した」
「わかった。じゃあそのシスターを頼ることにする」
「思考が早くてなによりだ」
頭領は首を振り、文字通りの手当を施していた少女を近くから追い払った。
「行け」
「いやだ! いっしょに逃げなきゃ!」
「やるべきことが残っている。小僧、頼んだぞ」
「わかった」
おれは少女に近寄り、話すことなく一気に担ぎ上げた。不意をつかれて一瞬狼狽した少女だったが、すぐにおれの肩で暴れだした。
「いやだ! 離して!」
右肩に強烈な圧迫感と熱い痛みを感じ、おれは顔をしかめた。たとえば長槍や猛獣の爪が刺さったときに感じるそれに近い。
当たらずとも遠からじ。少女が思い切りおれの肩に歯を突き立てていた。少女の、いや、人間の咬合力とは思えないほどの圧力と鋭さにおれは驚いたが、それ以上に少女はおれの肉体に驚愕し、声を上げた。
「な、なにこれ!」
纏った外套に歯牙で穴を開けた少女はおそらく、スライム状の肉体が蠢いているのを目の当たりにしたのだろう。悲鳴に近い声を聞いたおれは、ならば好都合と右肩から右腕にかけてを半液状化し、少女の体をおれの肉体に沈ませた。おれの体に半ば食い込むようなかたちになった少女の自由を奪い、改めて頭領の側へと向き直る。
「この子の名前は?」
「名前などという概念は我々にはない。名前がないゆえの愛もある」
「わかった」
「だが……」
そこで一度口を閉じ、頭領は目を伏せた。おれはわずかな自由が残る頭部と両足でじたばた暴れ続ける少女を担ぎ直しながら、頭領がふたたび口を開くのをじっと待った。
「だが、もし人間として名が必要ならば、つけてあげてほしい」
「頭領がつけてやれよ」
「あいにくそれが思い浮かぶ種族ではない。さぁ、行け!」
「なにか来ます!」
ライアが叫んだ。気配が読めないライアでもそれがわかるほどの殺気と、もっと具体的に聞こえる地を蹴る複数の足跡。その音のほうを向き、頭領は咆哮を響かせた。
「パパ!」
おれはライアに合図をして崖へと走り出した。
「……生きろ」
吸血鬼の力としての聴覚が、頭領の小さな呟きをしっかりと捉えていた。
※
示された崖はたしかにおれでもなんとか降りられそうな程度の傾斜だった。傾斜は感覚と目算で五十度強。一歩間違えば真下へと落ちてしまうが、恐怖は角度よりも高さからくる。進めば精神的に楽になるだろう。
砂や礫はなく、生えている草も少ない。むき出しの黒い岩盤はでこぼことしていて、降りるには好都合だった。
右腕は少女を担いでいて使えないため、残りの三肢を使い、慎重に進む。ゆっくりしている余裕はないため、安全だと思われる場所では腹や背中で滑り落ちるように降りる場面もある。暗闇に包まれた下の様子は強化された五感でもはっきり見えるわけではないが、あと数十メートルというところだろうか。
頭領と別れてから少女が口をつぐんだのは、決して予想外のことではなかった。少女は少女なりに状況を理解している。
「だ、大丈夫なんですか。その……頭領さんは」
少なくともおれにそう耳打ちするライアよりは。
実際にメタルクローがどの程度の負傷まで耐えられるか、また行動に支障が出ないのかについてはわからなかったが、頭領がほぼ限界に近かったのはおそらく間違いなかった。たとえここで正しい治療を施せるとしても、迫る敵影は待ってはくれない。
だがその敵影を自分で止めたいという頭領の考えはなんとなくわかるし、少女をその場から逃したいという気持ちもまた然りだ。
しかし結果だけをいえば、頭領のそれらの願いは叶わなかった。
「そこで止まってはくれんかの?」
さっきまでおれたちがいた崖の上から、聞いたことのある声が届く。声自体に対する驚きはなかったが、わざわざ本人が出張ってくるのは予想外だった。
「夜目が効いているようでなによりだ、村長?」
「おかげさまでな」
おれはその声に困惑している様子のライアを先に行かせた。彼女は地形に関係なく移動できるから、降りる先の偵察役としては適任だ。
そうしておれは改めて上へと目を戻し、そこに立つ小さな人影――リンダ村長の赤く光る両眼を視界に捉えた。
「親が嘘つきなら子も嘘つきってわけだ」
「なんの話じゃ?」
村長の光る目はおれと同じだ。村長はおれと同じ吸血鬼の状態にあり、吸血鬼が血の能力で服従させる眷属ではない。吸血鬼は基本的に徒党を組むことはなく、ましてやかの八傑ともなればなおさらだ。だから村長の吸血鬼の能力は、おれと同じくガイデルシュタインから贈与されたものということになる。
なにが不死の呪いと吸血鬼の異能の交換だ。ガイデルシュタイン本人の吸血鬼としての異能は、他者に贈与しても手元に残るということだ。もちろんそれに限度がある可能性はあるし、たとえば贈与によってガイデルシュタイン本体に残る異能の残量や濃度といったものが――あればの話だが――減るなどという事実があるのかもしれないが、それは本人に問わなければわからないことだ。
「食事をいただいた件には感謝しているが、そうやって太らせたおれをどうするつもりだったんだ?」
「太らせる? いやいや。美味しく食べるお主を羨ましく思っただけじゃよ」
「……まさか味覚過敏か」
村長は鼻を鳴らした。
吸血鬼の特徴の一つに味覚過敏症状が存在する話を聞いたことがある。あくまでいくつかの創作上でしか確認されていない情報だが、吸血鬼は五感の強化による味覚の変化で通常の食事をほぼ摂れなくなってしまうらしい。限りなく無味無臭に近い食糧を不味く食べるか、それとも人間の血を吸うか。もっともそれらのデータに科学的な根拠はなく、おれ自身も普通の味覚を保っているためにすっかり忘れてしまっていた。
「だが村長がいった通り、おれはしっかりと味わったぞ。同じ境遇でなんの違いがあるんだ?」
「同じ境遇? バカをいえ。お主とワシはまったく違う。ガイデルシュタインさまの褒美を勝ち取るのはワシじゃ。お主のように同じ吸血鬼であることを察知できないほどの力しか持たぬ者にワシは負けん」
さて、今度はこちらがなんの話だというべきか。
ガイデルシュタインの名前が出てくるまでは予想していたが、褒美とはいったいなんなのだろうか。眉をひそめるおれの表情を見たのか、村長が声を荒げた。
「呆けるな! その少女を狙っていたのがなによりの証拠ではないか! お前に褒美は渡さぬぞ!」
崖を猛烈な勢いで疾走してくる獣たちの気配に、おれは腰に差していた手斧を抜いた。落下ともいえる角度でこちらへ飛んできたメタルクローを受け流すように弾き飛ばし、すぐもう一体のほうを向く。
「はなせ!」
右肩でもがく少女を狙っているのならばなおさら離すわけにはいかない。おれは次々と襲いかかってくる魔物を避け、流し、逃げていたが、限界はすぐに訪れた。
眷属化したメタルクローがあまりにも多すぎたのだ。二十や三十というレベルではない。捌きれないと確信したおれはここをやり過ごす算段を模索したが、良い案がまったく思い浮かばない。
「なかなか素晴らしい動きじゃが、眷属化した部下を揃えていないのが仇になったな。それとも未熟者はまさか異能を使えんのか? んー?」
そう嘲笑する村長に注意が向いた瞬間、おれの右肩に激痛が走った。
顔をしかめて肩を見てみれば、大きな傷とともにそこを抜け出す影が一つ。拘束していたはずの少女が抜け出し、急斜面を無防備に転がり落ちていった。
「なっ! 離すな! 死んだらどうする!」
「知るかよ!」
少女の無事を確認するよりも、脅威を排除するほうが先決だ。もともと持っている異能と吸血鬼の身体強化で、向かってくるメタルクローたちを順に払っていく。
「くっ、バカな! 吸血鬼の力があるとはいえ、この数と互角とは
!」
「お生憎さま!」
おれは崖を跳ねた。一度目の跳躍で巨岩に、二度目の跳躍で一気に村長の数メートル下まで接近する。
三度目の跳躍よりも先に、おれは手斧を放った。悲鳴を上げた村長は頭を庇ってその場へと屈み込んでしまった。
眷属化。血を分けた者を意のままに操る異能。そう、所詮は操るだけだ。単純な命令ならば本人は関係ないが、戦闘の素人が戦闘の内容にまで口を挟もうとすればそうなるに決まっている。ガイデルシュタインとの差はここだ。
ナイフを抜く。村長の死によって眷属は止まる。
しかし。
おれの刃を、巨躯が止めた。ナイフだけではなくおれまで弾き飛ばしたその影の背に隠れた村長が引きつった笑みを浮かべた。
「はっは! どうだ! 俺は負けんぞ!」
おれはその影を見た。
どのメタルクローよりも大きく、どのメタルクローよりも傷が多く、どのメタルクローよりも血を流している。豊かで鋭い牙に、鋼鉄を纏った前足。その目は赤く光り、すでにただの傀儡と化してしまっているが、他のように村長の眷属であっても、その力そのものは生前と変わらないはずだ。
眷属と化した頭領が、月夜に咆哮した。
「そうだ! やれっ! やつを仕留めろ! 首を喰らい千切って……」
形勢逆転に全身で喜びを表現していた村長は、しかし最後までいい切ることができなかった。頭領の鉄の爪が、村長の首の右半分から右肩を裂き、吹き飛ばしたからだ。
天に向けて赤い血が噴く。即死せずにのたうち回る村長は、果たして幸なのか不幸なのか。傾斜を転がって頭領から離れていく村長を仕留めれば、頭領も止まるはずだ。
村長がなにかをいった。血にまみれ不鮮明になった言葉だったが、どうやら他の眷属には通じたらしい。一斉におれや頭領に向かってくるメタルクローたちに、おれは改めて覚悟を決める。急斜面を滑りながらもまっすぐに突撃してくる一体目をナイフと肘で叩き落としたとき、おれの安定がフッと崩れた。
しまった。
一瞬の油断。いや、油断すらなかったはずだ。ただブーツが滑っただけ。重心が崩れただけ。幸い傾斜が急というだけで、上手く転がれば問題はないだろう。しかしそれを追ってくるメタルクローは目視しただけでも三匹。体勢を立て直す前に組み敷かれたらどうすればよいのか。
考えていたおれの体が突然浮いた。背を掴まれ、何者かによってふわりと持ち上げられてから二秒ほど宙を舞い、おれは地面へと叩きつけられた。思い切り息を吐き咳き込んだおれを覗き込む小さな人影に、おれは驚いた。
「戻ってきたのか」
「あぶなそうだったから」
砂まみれの少女が冷静に答えた。