01.三日目・夜明け
おれはもうすぐ死ぬらしい。
しかも災厄を撒き散らして死ぬらしい。
静かな崖の上で、人の目に触れることなく死ぬらしい。
とても美しい夜明け前だ。
果てまで広がる大海が、少しずつ光を取り戻していく。陽光はやがてここからは見えない海岸線に到達し、地を伝って眼下の森をも鮮やかに照らすだろう。
そしておれは、太陽の光を浴びて死ぬ。
誰が悪いかといえばおれが悪いのだが、かといっておれ自身を責めるほど、割り切れはしない。
ぼんやりと思う。
なんて忙しい一生だったのかと。
もっとのんびりとした一生を送れば良かったのかもしれないと。
※
「ねぇ人間。あなた、名前はなんていうの」
「いまさらだな」
崖の端。体育座りのおれは眼前の風景から目を逸らして質問の主を見た。
液状生物。有性生殖が確認されている魔物群のなかでもきわめて特異な性質を持つ魔物で、研究によっていくつかのグループに分類されている。この青い個体は粘性が高く、おれの頭ほどの丸くしっかりとした形状を維持しているときもあれば、水たまりのように地面に広がることもある。このスライム自身の話によれば、固形に近いときには体の大部分を構成している水分の消費を抑えることができ、湿気の低い場所でも長時間活動できるのだという。
いまの形状は固形の丸型。ぬいぐるみのようなかわいらしい顔をした一頭身だ。
「名前を知ってどうするんだ?」
「墓石に刻んであげよっかなって」
右隣からの意地悪な口調。おれは口端を曲げた。
「名前を名乗るときはまず自分からだろ、スライム」
「あれ、いってなかったっけ?」
そういうとスライムは球状の固形状態から水たまりのような形状となった。さらにスライムは一瞬にして自身の粘度、もしくは硬度を変化させ、おれとほぼ同じ体格の人間型へと姿をかたちづくった。
「我はこの谷の守り神アシィヴ・パルプなり! 人間よ、いますぐここから立ち去れい! ってやったじゃん」
響き渡る声。そのゲル状の肉体のどこに声帯があるのかはわからないが、スライムはそう声を張っていった。身長を稼ぐために肉体の厚みが犠牲になり、スライムの人間型が風になびいているのが少し面白い。
「あー。はじめに会ったときか。適当な名前だと思ってた」
「なっ。おい人間、失礼ね。ほら、名乗ったんだから名乗りなさいよ」
「バネッダ・ハウクだ。改めてよろしくな、アッシュ」
「アッシュ? なにそれは、ってうわ」
薄いスライムが崖上の突風に吹かれた。粘性を増したらしいスライムは形状をまた水たまり状に変化させ、どうにか地面へビチャリと着地することに成功したようだった。
「危ないですね」
そう口にしたのち、改めてよろしくな、のタイミングで差し出していた右手を握ったのは、人間型を解除したスライムに代わっておれの横に座った一人の少女だった。人型ではあるがおそらく人間ではない。白い外套、被ったフード、黒のショートボブ。少し見た程度ではわかりにくいが頭部の左右、山羊や牛の角と同じような位置に隆起が確認できるからだ。そしてなによりも彼女のもっとも大きな特徴は、一目見てわかる文字通りの透明感である。
彼女は、浮いて、透けていた。
「この握手は?」
「ライアット・スウです」
「なるほど。じゃあライアだな。よろしく」
感触のない握手。
ファントムと呼ばれる魔物がいる。特殊な分類で、要はこの世に残る死者の魂だ。人間でも魔物でもなにかしらの法則のもとでファントムとなる者がいる。その多くは数週間で消滅してしまうが、なかには年単位で残存し続ける者もいるようだ。記憶の一部、もしくはすべてを無くしたファントムがほとんどで、ライアもおそらく生前の記憶の一部――少なくとも自身の名前について――を失ってしまっているのだろう。
おれの足元まで這ってきたアッシュが、自身の体を人の腕のように変形させ、おれを指さした。
「へいユー。アッシュとかライアとか、人間はそうやって名前を略すのが好きなの?」
「おれの趣味だよ。親しくなった気がするだろ?」
「初対面に近いのにそれはなんだかバカにされてる気がするんだけど……あ、じゃあバネッダも略してあげる」
「仲間からはベニーって呼ばれてたぞ」
「ふーん。じゃあバネね。よろしく、バネさん」
おれの話、聞いてたか?
スライム腕の手が握手のかたちへと変わる。温く粘度の高い握手だった。
「短い付き合いだったがな」
「いいじゃんいいじゃん。一期一会ってやつよ」
励ますようなアッシュの口調に、おれは苦笑した。
「ありがとうな。最後の一日、もともとはゆっくり過ごそうと思ってたけど、たぶん独りだとヤバかったと思う」
「そう? それならよかった」
「『よかった』? なぁスライム……じゃなくてアッシュ。第一印象とだいぶ違う気がするんだが、もしかしてそっちが素か?」
「んー、さぁね。こういうとこ、わたしの甘さみたいで嫌いなんだけど」
「ぼくは甘さというより優しさだと思うんですけどね」
割って入ってきたライアの感想に、アッシュは照れたようにえへへと声を漏らした。
「ね、バネさんもそう思いますよね?」
「なんだ、本当にバネさんで確定なのか」
「違うんですか?」
「いいけど……まぁ、優しさって思ってたほうが気は楽だと思う。そんなに自分を卑下してやるなよ」
人間とスライムとファントム。この綺麗な谷で偶然出会った三者三様。では出会ってなにをしていたのかというと、ひとことでいってしまえば、なにもしていなかった。
※
おれは呪いを受けた。不死という力を受け取った引き換えに、三日後の朝に死ぬという呪いだ。自殺もできずに受呪者はこの世界で生き、そして死ぬ。ただ死ぬのならばまだ問題はないだろう。問題は、おれの肉体に不死とともに付与されたのが災厄であるという点だった。
災厄がなにを指すのかについてはわからなかったが、世界に害を為すなにかであることは間違いなかった。だからおれは孤独に死す道を選んだ。誰もいないほうへと流浪し、あそこからの景色はさぞ絶景であろうと遠目に見て思ったという一応の理由はあるものの、おれはまるでなにかに導かれるようにこの場所、光の谷へとたどり着いていた。
アシィヴ・パルプと名乗るスライムと出会ったのはそんなときだ。地上の楽園『光の谷』の門番を自称し、食糧を置いて立ち去ればお前は喰わずに赦してやるなどとのたまっていたが、さすがにおれが持っていた全食糧を渡すのは想定外だったらしく、先へと進むおれのあとをバレバレの隠密行動で尾行してきた。
そして見つけたこの崖は、東から登る朝日を見るにはうってつけだった。どうせ明日までの命だと寝るのを惜しみ、その美しいを風景を楽しんでいたおれだったが、ふと、おれは自分の境遇を話してしまった。魔物と戦ってきたおれが魔物と意思疎通を取り、さらに身の上話までしてしまうなどいつもならば考えられないことだったが、正直にいって外に心のうちを漏らさないと本当に耐えられなかったのだ。
死の恐怖そのものを明かしたわけではなかったが、もしかしたら伝わってしまっていたのかもしれない。話を密かに聞いていたらしいライアット・スウというファントムがそこに入ってきて、結局おれは最後の一日を魔物たちと過ごすというおかしな経験で占めることになった。
※
最期の刻は、近い。
「なぁ、アッシュ、ライア」
白む空を見たまま、おれは口を開いた。
「おれが死んだらどうなるか、話したよな」
「聞きました」
ライアがそういって頷いた。丸く硬めの形状となったアッシュも全身を使って同じように頷いた。
「それじゃあ、死ぬときはしばらく離れててくれ。なにが起こるかわからないからな」
「本当に死んじゃうの?」
「そうらしい。しかし、なんだな」
おれは軽く頭をかいた。それから、魔物たちに目を向ける。
「誰にも迷惑をかけたくないからここにきたのに、そいつに関しては失敗だった。なるべく遠くに離れていてくれ。巻き込みたくない」
「バネさん……」
眉尻を下げて目に涙をたたえているライアに、おれは苦笑してしまった。
「魔物だろうがなんだろうが、情が湧いてしまうのは良くないもんだ。でも、最期の一日が独りじゃなかったのは、助かった」
「ごめんね、なにもできなくて」
アッシュの言葉に、おれは首を振った。それから、ふと思い立って、口に出してみる。
「なぁアッシュ。初対面のとき、おれを喰うとかいってたっけ」
「あれはっ、お腹が減ったってのもあるけど、追い出すための言い回しだから! いまはそんなこと思ってないわよ!」
「お腹がいっぱいだから?」
「そうじゃなくて……」
おれはアッシュとライアの二体と目を順に合わせてから、口端を曲げた。
「もし、だ。もしおれが死んだあとにもおれの肉体が残ってるようなら、喰っていいぞ」
「いやだからね、バネさん……」
「マジな話だよ。この谷は森もあって動物も魔物もいる。割と食糧がありそうなのに腹を空かせてた理由は、アッシュを見ていればなんとなくわかる」
おれの言葉にアッシュは目を逸らしたが、そのあとすぐに表情を溶かしてしまった。
空腹にも関わらずに獲物と対話してしまうような変わった魔物だ。さらにお世辞にも戦闘力が高そうには見えない。スライムは水だけでも長時間生存できると聞いたことはあるが、それでも限界はあるだろう。初対面時の空腹がその根拠だし、アッシュの反応がその仮定を肯定していた。
「ライアもな。一緒に一日いただけだが、切迫してるのはお互いさまだろ」
ファントムは通常短い期間で消滅してしまうが、動物や魔物の魂とやらを喰らうことで寿命までの時間を延ばすことができるとどこかで聞いたことがある。魂がなにを指しているのかは知らないが、ファントムそのものであるライアならばわかるはずだ。
「あの、バネさん。ぼくは……」
「時間切れだ。離れてくれ」
ライアの言葉を遮って、おれは立ち上がった。体育座りで痺れた足を揉んでから、ゆっくりと崖の先の空と海へと歩き出す。
太陽が、登る。
「バネさん!」
叫んだのはアッシュかライアかその両方か。おれの瞳を、朝日が照らす。残念ながら走馬灯などはなさそうだった。
いや、本当に残念だ。
あの勇者たちと過ごす忙しき日々は、たしかにきつかったが、それなりに楽しかった。
いやいや。
最期に思い出すのがあいつらか?
わけがわからない人生だ。
静寂。
静寂。
おれの肉体を、朝日が照らす。
「バネさん、死んじゃった?」
おそるおそる後ろから近づいていたらしいライアとアッシュの側へと振り返ると、二体はびくりと体を震わせた。
「……死んでねぇ」
死んでなかった。
なぜ?