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作者: オソマ

途方もなく深く、静かな眠りから目覚めた時、彼女が最初に感じたのは頬の疼きだった。


普段嗅ぐことのない、(かび)くさく湿った匂いがした。ここは私の部屋では無い、そして恐らくビジネス・ホテルの一室でもないはずだ。何故なら天井で大きなプロペラが廻っていて、その回転に合わせて室内に光が乱反射して差し込んでいたからだ。そして私が寝そべっている床は、冷たく無機質な打ち放しのコンクリートだ。こんなトリッキーなビジネス・ホテルは恐らくどこにもない。


ホテルというよりは、どこかの刑務所の立派な独房といった方が良さそうだった。


昨日の、眠りに落ちた時(或いは気絶したのかもしれない)の記憶が定かでは無い。モヤが掛かったように、肝心なところが思い出せない。思い出そうとしても、記憶の抽斗(ひきだし)に何か異物のようなものが引っかかって、スムーズに取り出せないのだ。しかし、安モノの消しゴムで筆圧の高く、濃い文字を消した後みたいに、脳内には不明瞭だが、明らかな記憶の筆致が残っていた。細部までは読み取れずとも、そのおおよそは把握できる。どうやら、私の脳は昨日の一部始終を呼び起こすことを、意図的に拒否していた。

身体は「昨日起こったことを思い出してはいけない」という風に警告しているようだ。


「昨日起こったことは思い出してはいけない」


しかし、記憶という、ある種不確かな証拠に頼らずとも、この頬の疼きは「昨日起こった何か」をこれ以上なく私に報せようとしている。精神と身体の発するシグナルのギャップに、私は大きく戸惑った。


ともかく、今のこの混沌とした状況を整理しなければならない。怪我をしていないか、部屋の状況は、今は何時で何日なのか、そしてここは何処なのか。そして出来ることならば、今すぐにでも平穏無事な生活を取り戻すのだ。退屈でも平坦でも、確かな矜持があった私の慎ましやかな日常を


「出来ることであるならば」


服が血で汚れているようだった。恐らく自分の血だろう。薄暗い部屋で、血だらけで床に寝そべっているのだ。異常と言わざるを得ない。自分の部屋だったのが唯一の救いだ。首都高速の中央分離帯でトラックの轟音によって起こされていた可能性もゼロではない。


服についている血は、どうやら鼻血のようだった。他の箇所からも出血しているかもしれない、瞼に触ると刺すような痛みが襲った。どうやら目も殴られていたようだ、酷いものだ。女の顔だろうが情状酌量の余地と言うものがないのだ。赤ん坊だろうが女性だろうが老人だろうが、躊躇いなく殴ることができる人間とつい半日前まで関わっていたのだ、そう思うと冷や汗と悪寒が走った。


錨が付いたように重い身体を持ち上げた、まるで海底に座礁した沈没船の気分だ。身体中が軋み、動作が緩慢に為らざるを得ない。起き上がり、キッチンに歩いていくだけで、非常に沢山のエネルギーが必要だった。あるいは私の身体からエネルギーが枯渇しているだけなのかもしれない。


冷蔵庫から1Lの牛乳パックを取り出し、口をつけてそのまま飲みほした。口の端から牛乳が伝って溢れた。口の中がしみた、切れているのだ。構うものか、今の私には水分と栄養が必要だ。


部屋の中は薄暗かった、遮光カーテンの隙間から、橙色の光が遠慮がちに差し込んでいた。朝日なのか、夕暮れなのか、定かではない。しかし、そんなことは瑣末な問題だった。今の関心事は顔に出来た傷がどれほどのものかと言うことだ。それ以外の要素は、例えそれが時間という絶対的な概念であっても今の私にとっては不純物に等しかった。いかにそれが絶対的であろうともだ。


洗面台に行って顔を冷水で洗った。思わず飛び上がるほどの痛みが顔中を襲った。そのうち涙が出て来たが、血と一緒に洗い流した。口もゆすいだ。なるべく清潔そうなフェイスタオル(この間の福岡旅行で貰って帰ってきたアメニティだ、なんだかとても遠い過去のように感じられる)で顔を拭き、洗面台のライトを付けた。か弱い白熱灯の光だったが、目が痛んだ。まるで三日三晩閉じ込められた洞窟で、捜索隊のライトを浴びたような気持ちだった。この様子だと、少なくとも半日以上は気絶していたようだ。


徐々に光に目が慣れて来た。恐る恐る鏡を覗き込んだ。まるで、有罪を告げられた受刑者が裁判長の顔を重々しく覗き見る様に。


パッと目につくのは、右頬の赤色の大きな痣だった。擦過傷のようにも見える。しかし、それ以外に取り立てて外傷は見られない。右眼が若干腫れていたが、先程触った時の印象に比べると、幾分控えめな見た目だ。身体も随分大袈裟に反応したものだ。


顔の傷に比較すると、ブラウスは見るも無残に血に塗れていた。まるで豚の屠殺場で作業していたようだ。これはもう、捨てなければいけないだろう。綺麗な純白のブラウスだった、気に入っていたし、周りもよく似合っていると褒めてくれた。こういう服には中々巡り会えないものなのだ。大切に着ようと決めていた。こうなってしまっては、もはやどうしようもない。


ブラウスを脱いでとりあえず洗濯カゴに放り込んだ。次にキャミソールを捲り、身体の状態を確認した。しかしながら、どこにも傷や痣は付いていなかった。相変わらず、青白い運動不足の不健康な身体がそこにはあった。相変わらず乳房の左右のバランスはちぐはぐで、とりとめが無かった。絶対にブラのモデルは出来ない。しかし、肌はつるりとして滑らで、それだけが唯一の自慢だった。


思ったより状況は酷くない。洗面台に手を突き、大きくため息を吐いた。肺に一杯の空気を溜め込み、一気に吐き出す。これで私の身体はリセットされる。どんなに酷い状況でも、ある程度普段の状態まで回復へ持っていける。これは一種の儀式のようなものだったが、明らかに身体の状態は回復へ向かっているのが分かった。ため息の回数は多過ぎても少な過ぎてもいけない、適切な回数と言うものがある。彼女は長年の経験から、その回数をほとんど違いなく当てる事が出来た。13回、それが今回の答えだった。


もう一度顔を上げ、自分の顔を見据える。先程に比べて意識は格段に鮮明になり、現実を知覚し受け入れる準備が整っていた。


目に付くのはやはり、右頬の痣だ。綺麗な赤色をしている。混じり気のない、鮮やかな赤色だ。位置は右眼の下、ちょうど頬骨のあたりから、大きさは縦に2センチ、横が4センチ程度の楕円形だ。ちょうどハッピー・ターンぐらいの大きさだ。僅かな熱をもち、規則的に疼いた。強いて言うならば、自転車で転んで顔を擦ったと言う感じの痣だった。どう見ても殴られたようには見えない、更に言えば、外傷にも見えない。産まれた時からずっとそこにあったというような、妙な収まりの良さを感じた。口元のホクロとか、そういった類のものだ。それらより明らかに特殊で、象徴的な見た目をしているのは間違いないが、顔全体の印象に対して強烈な違和感があるかと言われれば、答えはノーだった。


その痣の他に、顔に目立つ外傷はやはり見受けられなかった。口元が若干切れているのと、右眼が少し眠り過ぎた時のような腫れぼったさがあるだけだ。青痣になっていたり、目が充血していたりはしない。


「大丈夫だ」と自分に言い聞かせるように言った。或いは、不特定多数の誰かに向けてそう言ったのかもしれない。私は大丈夫だ、問題はない。概ね順調に生きている、危ない所だったが、辛うじて生き残った。逃げ果せた(おおせた)のだ。想像だにしない巨悪から。


髪をゴムで結わえ、大きく伸びをした。凝り固まった身体が解れていくのを感じる。肉体的にも精神的にも私は快方へ向かっていた。この調子ならすぐに元の生活に戻れるだろう、右頬に大きな赤い痣が出来た事を除けば。


居間へ戻り、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、適当な食材を物色した。なるべく滋養のあるものが良い。ほうれん草に水菜、豚のベーコン、めざし、タマゴ、パプリカ、昨日作ったドレッシングとジャコと梅じそのサラダの残りなどが入っていた。


蛋白質を取らなければならないと思った。或いは身体がそう命令しているのだ。フライパンでベーコンを焼き、そこにほうれん草とバターを入れて炒めた。卵はスクランブルエッグにし、トーストを焼いてその上に載せた。


適当に盛り付け、黙々と平らげる。口の中が塩分や熱により弾け飛ぶような痛みに襲われたが、その痛みは今乗り越えるべき試練として自分の中で消化された。


その間もずっと右頬の疼きは止まない。


テレビを付けると、朝の情報番組が流れていた。ロクでもない構成の番組だった、10年前から何も変わっていない。ただ、番組のセットと出演陣が入れ替わっているだけだ。立川市の一家惨殺事件についての続報が流れていた、犯人の居所は以前掴めず、2万人体制での捜索が続けられていた。キャスターはそのニュースを神妙な顔つきで読み上げる。次のコーナーは占いだ。うって変わって、満面の笑みで占いを読み上げる。水がめ座は7位、ラッキーアイテムは赤のハイヒール。


変わらない朝だ、私の顔に見事な赤色の痣がある事以外、普段と何も変わらない朝だった。


家のすぐ側の幹線道路からは、運送トラックの走る唸りが聞こえてくる。社会の動脈は動き続けている。そして私の動脈もまた、確かに動き続けていた、緩慢な疼きを伴って。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 言葉選びが知的で、頭のいいひとの話を聞いているようなワクワク感がありました。 比喩表現も多めで満足です!特に“裁判長の顔~”がお気に入りです。 「大丈夫だ」からの取り留めのないポジティブ思…
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