26 風邪を引いた話 1
フィーナはベッドの中でごろりと寝返りを打った。
ずっと寝ているので背中が痛い。熱のせいで頭がぼーっとする。おまけに鼻が詰まっていて息が苦しい。
風邪を引いてしまった。
フィーナは秋から冬への季節の変わり目に体調を崩すことがあって、経験上、一日、二日寝ていれば治るとわかっている。
一応、騎士団所属の医師の診察を受けて「風邪ですね。騎士長には報告しておきます」という言葉を貰った。
体調不良を長引かせて他の人に迷惑はかけるのは本意ではないから、こうして大人しく寝ているのだけれど。
時間の経つのが遅く感じ、せめて本を読むとか筋トレをするとか、有意義なことをしようと思いつつ……思うだけで終わってしまう。
「あー、退屈……」
呟いた声は、しんとした部屋に溶けていく。
窓から差し込むカーテン越しの光さえ眩しくて、フィーナは枕に顔をうずめた。
とんとん。
窓の外が完全に夜の色へと塗りつぶされた頃。
遠慮がちに部屋のドアがノックされた。
「フィーナ、起きてる?」
くぐもった声は、休んでいる者の邪魔をしないような気遣いに満ちた密やかさがあった。
声の主は、同じ寮に住む女性だ。騎士団の掃除を担当している。
浅い睡眠から目覚め、ぼんやりと天井を見上げていたフィーナは、机の上の時計を見てさっと体を起こした。
そして部屋を横切り、ドアノブを捻ると頭を下げる。
「セシルさん、ご面倒をおかけします」
「ああ、違うの。晩ご飯を持ってきたんじゃなくてね」
目の前に立つ小柄な女性は、いつもの気の弱そうな顔で微笑んだ。
この使用人寮は元々、料理人や掃除人など、騎士団に関わる女性が住む寮だった。
騎士は本来、騎士団本拠地の敷地内に寮が与えられる。しかし、男子寮の中に女性初の騎士となったフィーナを一人放り込むわけにもいかず、一人のために新たな建物を建てるわけにもいかず、ひとまずこの寮がフィーナの住む場所として与えられた。
話に聞くと騎士寮より部屋が狭いらしいのだが、雨風がしのげ、ベッドがある。
フィーナにとって何の不自由もない住処だ。
「具合はどう? 熱は下がったかしら」
セシルはフィーナより十歳くらい年上の女性だ。
優しい人で、使用人寮の中では異質な存在であるフィーナを何かと気にかけてくれる。
今日も、医師を呼んだり、ご飯を運んでくれたりと自身の仕事の合間に細やかに動いてくれた。彼女は、「命を張って闘う騎士様にできることはこのくらいだから」と笑って言うけれど。
大事にしたい人だとフィーナは思う。
「熱はまだ、あるみたいです。でも、そんなに辛くはないですよ」
エプロン姿は、仕事帰りだろうか。
ひっつめにした赤茶色の髪が、一日の疲れを表すように幾筋か流れ落ちている。
少しでも心配をかけたくなくて元気よく返事をしたものの、鼻声なのが残念だ。
それにしても、晩ご飯でなければ何の用だろう。
不思議に思いながらじっとしていると、上目遣いに瞬きをするセシルと視線がぶつかった。
「まだ顔が赤いわ。やっぱり一日寝たくらいじゃあ、本調子じゃないわよね。ああ、無理をさせてしまうかしら……」
最後は口の中で呟いて、セシルは繰り返し手のひらを握っては閉じた。
その普通ではない様子に、フィーナはきょとんと首を傾げる。
「どうかしたんですか? 退屈だなあとは思ってましたけど……」
時間としては、食堂で晩ご飯を食べているか、共同の風呂を使っている時間だ。それなのに、わざわざ奥歯に物が詰まったかのような物言いをしに来て、この様子。
尋常ではない何かが起こったのだろうか。
……しかし、霞がかった頭では上手く警戒へと頭が切り替わらない。
セシルは突っ立ったままのフィーナを前に、躊躇いがちに口を開いた。
「実はね、あなたに届け物が来ているの。でも、無理をして談話室に来てもらうのは悪いかしらと思っていたところで」
「行きます。取りに行くくらい、大丈夫です」
何を警戒すべきかはわからないけれど、とにかく、何かを警戒しなければならないのだ、と何故か思ってしまって。
セシルの言葉が終わらないうちに承諾していた。
即答したフィーナに、セシルはほっとしたように微笑んだ。
「きっと、びっくりするわ」
確かに、びっくりした。
使用人寮の談話室は、寮の住人達が交流をするために使う部屋だ。
寮の玄関を入ってすぐ右手にあり、それほど広くない部屋には古びたテーブルと椅子が三組と、ソファが置かれている。花柄のお洒落な壁紙は、数代前の掃除人が自分で張り替えたと聞いた。
花の活けられた花瓶や手作りのクッションは、少しでもこの場所を居心地良くしようと工夫してきた住人達の軌跡だ。
寮の住人達はよく、食後や風呂上りにまったりとお喋りをしたり、軽食を持ち寄ったり、簡単なゲームをしているらしい。
が、フィーナはあまり利用したことはない。騎士、という立場に彼女達が委縮してしまう場面が何度かあったからだ。
その、談話室の古びた椅子に。
紺色の制服姿のカイザードが座っていた。
「カ、カイザード……?」
入口に立ってその姿を認めた途端、フィーナは知らず声が零れていた。
腕組みをして目を閉じていた青年は、ふっと顔を上げると同時に立ち上がった。
すらりとした長身に端正な容貌。そこにただ立っているだけで目を奪われる完璧な存在。
同じ騎士団の仲間であり、オーラットの戦いでこの国の英雄と呼ばれるようになったカイザードは、フィーナにとって永遠の憧れであり、恋する相手だ。
その、恋する相手があっという間に距離を詰めて来て。
「ちょっと、ちょっと待って。本当に、ごめんっ」
フィーナは急いで身を翻した。
しかし、逃げようとしたその手をすかさずぐっと掴まれる。
「どうした」
熱いカイザードのてのひらに、反射的に振り返る。
そこにあったのは、至近距離でフィーナを見つめる怜悧な瞳。誤魔化しなど許されないと、勝手にこちらが思ってしまう、静かな眼差しだった。
フィーナは、あっという間に白旗を上げた。
「……っ、だって私、髪がぼさぼさで、鼻も詰まってて、声も変だしっ」
ぼーっとした頭ではとっさに誤魔化すということが思いつかず、フィーナはやぶれかぶれで叫んでいた。
いつもは高い位置で結んでいる金髪は、櫛を通していないのでいつもよりさらに癖が強く、からまっている。鼻にかかった声は自分でも聞き慣れず、顔はむくんできっと不細工。着ている物だって、しわしわの麻の部屋着だ。
カイザードがここにいるなんて、思わなかった。
荷物を取りに来るだけだと思ったから、気軽に部屋から出て来たのに。
そういえば、セシルは「届け物が来た(・・)」と言っていた。いつもなら気づく、その些細な引っかかりに気づかなかったなんて、一生の不覚だ。
「フィーナはフィーナだろう」
首を傾げるカイザードは、無表情ながら心底不思議そうだ。
「そうだけど……っ」
カイザードにはいつだって完璧な自分を見てもらいたいのだ。
それなのに、今の自分は完璧とはほど遠い。
ほど遠いにもほどがある。
「問題ない。暴れるな。熱が上がるぞ」
カイザードはそう言うと、フィーナの腕を引いて元の椅子に戻った。そして少女を隣の椅子に座らせると、目の前にあるテーブルの上を指し示した。
白い円卓の上には、小振りなブーケやお菓子の紙袋が置いてある。
「騎士達から見舞いの品を預かってきた。ガルシアが、届ける役目は俺が良いと言うから」
この国の英雄を使い走りにできるのは、ガルシアと騎士長くらいだ。
さすがガルシア、良い仕事する……! と呆然とした顔をしたままフィーナは心の中でぐっとこぶしを握る。
事前に連絡がなかったのが惜しいところだが、カイザードが問題ないと言ってくれたからもうそれは考えないことにする。うん、問題ないってことにしておいて。
「これは、誰から?」
ず、と鼻を啜ってフィーナは尋ねる。
頭がふらつくけれど、我慢できないほどではない。
返ってきた答えは簡潔だった。
「知らない」
無表情のカイザードに、フィーナは「なるほど?」と微笑んだ。
カイザードは人を覚えない。騎士だということは紺色の制服を見て判断しているようだが、個人に関しては無関心だ。
フィーナのお見舞いの品を用意してくれた誰かを、覚えようとするわけがなかった。
「……駄目だったか」
低い声にはっと顔を上げれば、わずかに眉間に皺が寄ったカイザードが、窺うようにフィーナを見ている。
まるで高貴な大型犬が叱られるのを待つかのよう。
少女は大きく首を振った。振りすぎて、頭がくらくらするくらいに。
「ううん、全然、駄目じゃない。駄目じゃないわ! 勤務時間外に、わざわざ足を運んでくれてありがとう、カイザード」
差し入れをくれた人は後日、ガルシアに尋ねようと思いながら、精一杯の笑顔を向ける。
フィーナにとっては、カイザードが一番。
お見舞いの品をくれた誰かさんには申し訳ないが、ガルシアがカイザードをこちらに寄こした時点でこうなることは決定事項だ。ガルシアもおそらくそれを承知していたはず。
「体調はどうだ」
短い問いに、フィーナはちょっと感動する。
フィーナのことなど眼中になかった頃のカイザードを思うと、格段の進歩だ。
少女は鼻を擦って、微笑んだ。
「熱はまだあるけどお薬はもらったし、大丈夫。それに、カイザードが来てくれたんだもん。元気が出たわ」
カイザードがふっと身を乗り出し、その言葉に嘘がないのを確認するかのようにフィーナの顔を覗き込む。
その距離の近さにフィーナは意識が遠のきかけて、はっと踏みとどまった。
「ご、ごめん。あんまり一緒にいると風邪がうつっちゃうね。贈り物、届けてくれて、ありがとう。じゃあ、部屋に戻るね」
カイザードの顔を見られて嬉しい。
一日寝ていたご褒美だと思えるくらいに、心底嬉しい。
でも、カイザードに風邪をうつしたら、後悔してもしきれない。
本当に今日は、思考力が落ちているらしい。
いつもなら、会った瞬間に「大好きなカイザードに風邪がうつってしまう、危険だ、早く部屋に戻らなきゃ」と思えるはずなのに。
フィーナは慌てて椅子から立ち上がった……と、椅子の脚につまずいて、体が傾ぐ。
本当に、いつもはこんな失敗はしないのにと、悔しささえ感じながらフィーナはなんとか踏みとどまろうとたたらを踏んだ。
そのとき。
するりと長い腕が伸びて来て、斜めになったフィーナの体を救い上げた。
「あれっ? えっ?」
気づいた時には、カイザードに縦抱きにされていた。
筋肉の張りを感じる腕一本でフィーナを支えるカイザードは、平然と椅子に座りなおす。
二人分の体重を受けた椅子が、ぎしりと鳴った。




