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 フィーナは俯き、ただ膝頭だけを見つめていた。

「龍賊が出てきて襲われる夢。二週間前、くらいからかな。龍賊と闘ったのは、もう三か月も前のことなのにね。なんで今頃って自分でも思うの」


 何でもないこと。これは世間話。ちっとも私は傷ついていないし、大丈夫。そう、カイザードに思って欲しかった。

 でも、自分の想いとは裏腹に、指先は白くなるほど力が籠っている。


「おまけに殿下が龍賊の墓場に降りたいって言うものだから、久しぶりに龍賊の、骨だったんだけど……間近に見て臭いを嗅いだせい、かな。なんか……ここのところ、毎晩……」

 熱いものがこみあげてきて、喉を塞ぐ。

「毎晩?」

 続きを促すように、カイザードが囁く。

「……毎晩、龍賊に、殺される、夢を見るの」


 声は蜂の羽音よりも小さくなった。

 殺され方は色々ある。空中を舞うガーディアンから尻尾で弾き飛ばされたり、鋭い鉤爪で全身を裂かれたり、あの鱗だらけの巨体に押しつぶされたり。それは、いくら努力して訓練しても、異形の化け物には敵わないと思い知らされる夢だった。

 苦しくて、息が出来なくて。

 目が醒めた時にはいつも、ほっとするより喉の奥から叫びたくなった。

 私はこんなにも弱かったのか、と。


「夢なんか、起きてしまえば見ないじゃない? ほんと、くだらないよね。夢の中ならせめて、私が龍賊に完全勝利するところとか見せてくれたらいいのにね」

 俯いたまま、強がりを言う。

 それくらいしか、フィーナにできることがない。

 それがたまらなく悔しく、悲しかった。


 次第に夜、眠るのが怖くなった。

 でも、殿下の案内はフィーナだけに任された仕事。この繁忙期に、騎士となって一年と数カ月しか経っていない、何の実績もない人間ができることなど限られている。休むことはできない。

 だから無理にベッドに入って眠ろうとするけれど、うとうとするとすぐに龍賊が現れてフィーナを死へと突き落とす。


「記憶って、ショックなことがあると、いったん時間を置いて思い出すことがあるんだって。あのとき怒ってた騎士長が言ってた。私、龍賊に剣を折られときも、ガーディアンから落ちたときも、平気だったのよ。それなのに、今さら……」

 声が裏返りそうになって、咳き込んで誤魔化した。


 みっともなくて、嫌だ。こんな……完璧じゃない自分を、カイザードに見せたくない。

 カイザードの前では、いつも上機嫌で笑顔の女の子でいたい。

 何だって自分の力で掴んできたのに、夢の世界がコントロールできない。

 眠るだけのことが難しく、眠れない苦しさから次第に食欲も落ち、体重も減ってきた。

 どうにかしたいのに、どうにもならない。

 でも、その気の強さから「助けて」なんて、誰にも言えない。

 騎士団所属の医師に相談するのも、もう少し様子見をしている間に見なくなるかも、と思って躊躇ってしまっていた。


 曲げた両足をさらに強く抱き込んで、フィーナは腕の中に顔をうずめた。

「……私、もう一度、龍賊と戦わなくちゃいけなくなったとき、本当に使い物になるのかしら」


 用無しだ、と言われることが怖い。

 カイザードの傍にいられなくなることが怖い。

 救えるはずだった命を前にして、逃げてしまうかもしれない自分が怖い。


 ぴちちち……と小鳥の声と羽音が聞こえた。

 太陽が徐々に世界を照らし、明るくなっているのが顔を上げなくても分かる。半地下の世界にも光は平等に差し込むのだ。


 ふと、二人だけの空間に衣擦れの音がした。同時に、背中にぬくもりと感じ、それがフィーナの全身を包み込む。

「⁈」

 思わず頭を上げそうになって、その頭に置かれたのが誰かの……カイザードの顎だとわかって、動くことが出来なくなった。

 長い腕が後ろから回され、小さくなっているフィーナを抱きしめた。

 それはまるで壊れ物を扱うように優しく。むき出しの逞しい腕を伝って、カイザードの高い体温がじわじわと体の中に入ってくる。

 フィーナの体はすっぽりと、両足を投げ出して座るカイザードの腕の中におさまってしまった。


「俺のことは、椅子と思え」

「え? いす?」

 低い声と共に頭上に感じた吐息に動揺して、言葉の意味を掴み損ねた。

 同時に、カイザードがフィーナの額に手を置き、ぐいと自分の胸に押し付ける。

 爽やかな石鹸の中に、少しそれとは違う香りが混ざっていて、それがカイザードの香りだと理解したときには、カイザードによって、彼の両足を肘掛けにして座るフィーナが出来上がっていた。ちなみに、カイザードの逞しい腕はフィーナの細い胴に回っている。


 初めての体勢、初めての言葉、初めての距離に、フィーナの頭は沸騰する。

「そっ、そんな、おそ、恐れ多い……!」

 思わず顔を上げると、目を丸くしたカイザードが次の瞬間、声を上げて笑った。

「っ、はは、お前、俺のことを何だと思ってるんだ」

 それは、とても、とても珍しい光景で。

 少し顰めた眉とか。薄く開いた赤い唇とか。細められた目の奥の灰色の煌めきとか。

 黙っていれば冷たく見える整いすぎた顔が、少し崩れただけ。

 それなのに。

 目が離せない。

 ずっとずっと、永遠に見ていたくて、出来ることなら宝箱に閉じ込めてしまいたい。


 でも、とりあえず……カイザードに笑われるなんて、そのままにはしておけない。

「もうっ、笑わないでよ! だって、カイザードを椅子にするなんて、そんなの、誰もやったことないでしょ」

「安心しろ。お前は軽いから倒れない」

 そういうことじゃないぃぃと思いながら、胴に回された腕を振りほどけなくてフィーナは赤面した。

 ぎゅっと丸まっていた体は蕾が花開くように解けてしまって、どう暴れてもカイザードの檻から抜け出せない。


 観念して、フィーナはおずおずと力を抜いた。

 カイザードの腕の力が、少し強まる。

 高い位置で結んだ髪の結び目が胸板に当たって痛いので思い切って紐を解くと、いっそうカイザードに頭を預けるかたちになって。

 カイザードの鼓動が、聞こえた気がして。

 温かな体温に包まれて、爆走した後のようだった心臓が次第に落ち着いてきて。


 ふっとフィーナが息を吐くのを待っていたように、鍛練場の端っこで、静かな声が耳を打つ。

「俺の生まれたゴミ溜めでは、夜になるとこうして寒さをしのいだ」

「ゴミ溜めって、もしかして西区……?」

 なんとかポジティブな言葉をかけたいけれど、思いつかずに小さい声で尋ねる。カイザードが頷く気配がした。

「西区の更に奥の奥だな。地面は土、屋根は布、壁も布、トイレはない。火を使えば何に引火するかわからないから使えない。ゴミの方がまだ値打ちがあると笑う奴らばかりがいた」


 想像することしかできないけれど、サーカスで集団生活をしていたフィーナよりずっと厳しい生活環境だったに違いない。火を使えない生活なんて、食事は、お風呂は、どうしていたのか聞きたいけれど、聞いても仕方がない気もした。

 カイザードはそこで生き抜いてきて、今、ここにいるのだ。


 この国の英雄と呼ばれる青年は、平坦な声で続ける。

「一年ぶりに足を伸ばしたら、相変わらず喧嘩と落書きとゴミ溜めの町だったが、皆の表情は悪くなかった。王太子が視察に来て、少しずつ変わり始めていると住人が言っていた」

「あの第二殿下のお兄さんってことよね」

「次期国王らしいな」

 フィーナはアレクシスの軟派そうな顔を思い浮かべ……すぐにカイザードの顔に上書きした。考えなくていい時間にわざわざ面倒な人の事を考えることはない。


 カイザードの心音が力強く、共鳴を促すようにフィーナの体に響いてくる。

 ほこほこと温かいカイザードの体温に、全身が守られているのを感じる。

 感情の波はいつの間にか凪いでいた。


 少しの沈黙が続いた後、

「話題作りは難しいな。お前みたいに、上手く喋るのは難しい」

 ため息交じりの声が降ってきた。

 顔を上げると、カイザードの灰色の瞳が、明るくなりつつある窓の外をじっと見ている。

 長い睫毛に触れられそうな距離にいて、その腕に囲われている今が、奇跡のようで。

 フィーナはくすりと笑った。

「話すのが上手い人は、カイザードじゃなくてもいいでしょ。私はじゅうぶんに今、楽しいし嬉しい」

 そう言って固い腕をぽんぽんと撫でると、お腹に回された腕にぐっと力が籠った。

 少しの沈黙が、心地よい。

 何か話題を探す気にもならず、二人は一つの影の中にいた。


 やがて、カイザードの形の良い薄い唇から言葉が零れた。

「……騎士でありたいのなら、戦え」



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