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涙が、溢れた。
声を殺して堪えようと思うのに、次から次へと雫は湧き出てくる。
どうしようもない気持ちを持て余して、でも、その光景から目をそらすことはできなくて。
「……だから、言っただろ」
後ろから、遠慮がちな声が聞こえた。
フィーナは振り返らなかった。振り返ることが、できなかった。
ただじっと、建物の向こうへと消えていった二人の影を探している。
「分不相応な恋なんて、やめちまえって」
隣に立つ気配がする。
長い腕が伸びてきて、フィーナの金色の頭をそっと抱き寄せた。
自分より頭一つ分背の高いガルシアの肩に寄りかかる。
感情とは遠いところで、温かい、と感じる。
少女の涙は止まらなかった。
瞬きを繰り返し、涙を散らそうとするけれど、その緑色の瞳からはとめどなく溢れてくる。
「……私のこと、馬鹿だって、思ってるでしょ」
声は、かすれていた。だらりと垂れた手は、涙をぬぐうことさえ思いつかない。
「ああ」
答えは低く、間髪入れずに返ってきた。
サイラシード騎士団所属フィーナ・オレガは、国の英雄カイザード・アレスに夢中。
城の人間で、その事実を知らない者はない。
「カイザード、どこに行くの? もし時間があれば、手合わせを」
「図書室」
「そっか。じゃあ、私も行こうかな。読みたい本、あるし。『モアレ博士の嘘』っていうのが面白いって友達から聞いたの。知ってる?」
「知らない」
カイザードは灰色の目を合わせることもなく、短く答えた。
だがそれだけでも、フィーナにとっては嬉しいことだ。
白に近い銀色の髪を首の後ろで結び、王騎士団所属の証明である紋章付きの紺色のマントを翻して歩く青年の姿は、その姿かたちの端正さから、遠くから見てもカイザードであるとわかる。
切れ長の目に、形のいい鼻、完璧にパーツが配置された美貌。
ただでさえ無口な上に愛想というものが皆無なため、直接話しかける者はほとんどいないが、彼と仲良くなりたいと思う者は後を絶たない。
フィーナは、そんな人々を、弱虫だと思う。
憧れの人が目の前にいて、どうして尻ごみをしていられよう、と。
熾烈を極めた龍賊との戦い、『オーラットの戦い』で、人間側、つまりサイラシード王国勝利の立役者となったカイザード。その隣を歩くだけで、こんなにも足に羽が生えているような気持ちを味わえるのに。
昼下がり。
王城の一画、騎士団本拠地にある石造りの長い廊下は、柔らかな日差しを受け、白く輝いていた。
ここは国中から集められた精鋭百人が共同生活をする場所だ。稽古から食事まで、ほぼすべてが行われる。
春は過ぎ、夏へと変わる季節の中、騎士団の規則でマントを羽織っているが、そろそろ着ているのも辛くなるくらいに暑くなるだろう。
ブーツの音を響かせて、中庭から騎士仲間のガルシアが大股で近づいてきた。
がっしりとした体躯、恵まれた長身の持ち主は、騎士の中でも一、二を争うほど上司の覚えと仲間の面倒見がいい。
ガルシアは不機嫌そうに、眉間に皺を寄せていた。
「フィーナ。鍛錬サボって、のんきに歩いてんじゃねえよ」
「あら、見てわからない?」
カイザードに合わせて足早に廊下を歩きながら、フィーナはついてくる落ち葉色の髪の青年を見上げた。
「私は忙しいの。暇だったらトリアンやサージの相手をしなさいよ」
癖のある金の髪を一つに結んだ少女は、不敵に笑った。
活き活きと輝く大きな緑色の瞳、可愛いと称される小さな顔と、細いが筋肉がほどよくついた四肢は、やんちゃで悪戯好きな猫のようだ。
ガルシアは額を押さえた。
「……一応聞くが、お前が忙しいのは、カイザードにくっついて歩いてるからか」
ちらりと視線を向けると、カイザードがようやく立ち止まった。
凪いだ視線を向けられ、ガルシアは「よう」と片手を上げた。カイザードは無言だ。一度剣を握れば、誰よりも機敏に動く男は、日常生活では究極の行動節約家なのだ。
代わりに、フィーナが得意げに胸を張る。
「わかってるじゃない。私はカイザードが好きだから、できるだけ行動は共にしたいの。それに、うちの騎士団の実技成績の順位を忘れた? ガルシアと手合わせをしても、私が勝つことは目に見えてるわ。それより、カイザードと一緒にいた方が有益だと思う」
「……この、ド阿呆っ」
ガルシアの雷が落ちた。
「お前がニ年前にこの騎士団で特別枠の女騎士になれたのは、その身体能力を高く買われたからだ。ただでさえ足元をすくわれやすいのに、悠長に隙を見せてる場合か!」
フィーナは片眉を上げた。
次の瞬間、ガルシアの襟首を掴み、身軽にその懐に入る。
ガルシアが止める間もなかった。
フィーナは自分よりも体格のいいガルシアに足払いをかけ、その大きな体をあっという間に地面に叩きつける。
どん、と鈍い音がして、何事か、と中庭にいた他の騎士たちが集まってきた。
「隙を見せてるのは、ガルシアの方じゃない? 私がこの騎士団に入りたかった理由のひとつは、カイザードの近くにいるため。誰にも、邪魔はさせないわ」
腰に手を当て、顎を上げて見下ろすフィーナに、不意を突かれたとはいえ投げ飛ばされたガルシアは文句も言えない。
肩をすくめたフィーナは、カイザードと一定の距離を取りつつ笑いかけた。
「さ、行きましょ、カイザード。図書館、図書館」
カイザードは何も言わず、ゆったりと足を踏みだした。
サイラシード王国は、宙に浮かぶ巨大な島だ。
世界にはいくつもの島が浮かび、はるか下には、果てしなく続く青い海が広がっている。自然、航空機が発達し、いくつもの島を定期的に運航している。
それが気に入らないのが、地の果てから現れた龍賊だった。その名の示すとおり、巨大な体、二本の角、背中には蝙蝠のような羽に、鋭い爪をもった龍だ。
龍賊はいくつもの飛行船を襲い、人を喰らった。
人を護るために、人が立ち上がったのは当然の成り行きだった。
国中の技師の頭脳を結集して作られた、“騎乗型飛行機”。
馬に乗るように円形の機械にまたがり、乗り手は空いた両手で剣を振り回せる。その剣の使い手として、国中から騎士が集められた。
“サイラシード騎士団”が結成され、今年で二百年。
その歴史の中で、ニ年前、龍賊がかつてない規模で王国を襲った。
多くの騎士が命を落とす中、孤軍奮闘して多くの龍を討ったカイザードは、英雄として国王から勲章を受けた唯一の男だ。