奇跡の日
「支度はできたか?」
アルヴィスとシュバルツが話していた夜から一週間が経った朝。精霊の森の広場は慌ただしかった。シュバルツにより渡された肌にピッタリとつく首元まで襟のある肌着。腰巻きに。右肩がでるように刺繍の施された斜め掛けの布を巻いて足元まで隠す。そしてその上からフード式のマントをすっぽり被ったアルヴィスを沢山の精霊が取り囲み騒いでいた。
《アルヴィス様、似合ってる!》《素敵ーっ》《かっこいいっ》
シノ、エノ、ラノもその中に混ざりアルヴィスを褒めちぎる。アルヴィスが少し恥ずかしげに身じろぎすると呆れたようにシュバルツが溜息をこぼした。
「行くぞ、アル。」
「うん、みんな行ってくるね」
シノ、エノ、ラノを腰にある袋に隠れさせてアルヴィスは森の精霊達に別れを告げて、シュバルツが展開した薄く光る魔法の霧の中に身を投じた。
◇
アルヴィスが次に目を開けた時、目の前には見知らぬ世界が広がっていた、枯れた木々に紛れ、何とか生きている木。枯れかけた川に。高い壁に囲まれた国──そうアルヴィスとシュバルツが来たこの場所はシュバルツの契約者であるエメレラ王女がいるヨルゼ王国だった。
二人は空から見下ろし、初めて見る場所にアルヴィスが感動の声を上げると、シュバルツはそれを面白げに見つめ、地に降り立つ。
戦の名残か、木の中には燃えた後になっていたものもあった。所々にはよく見ると黒いシミがあり、それが血であると、何故かアルヴィスは理解する。
アルヴィスとシュバルツが川のそばを歩き門へと近づいてく。
《────さま》
アルヴィスはなにかの声を聞いた気がして振り返る。そこには枯れかけた川が存在するのみ。けれどアルヴィスはそこをただ見つめる。
《────様》
また、声がする。アルヴィスが向かおうとするとシュバルツが首を横に振った。歯を食いしばってアルヴィスはシュバルツに従い──ヨルゼ王国に入国した。
活気がある訳ではなかった。人はいた。だが誰もがやせ細り、目には光がない。食べ物を売っている場所は少なく、子供たちの手は枝のように細かった。
国の中央に泉があった。枯れた泉が。
少しだけ湧き出していた水を飲もうと必死に乳飲み子を抱いた女が石畳を棒で掘り返そうとしていた。
《───様》
アルヴィスは走り出す。後ろからシュバルツの声がした。だがもうダメだった。
初めて精霊の森から出た。初めて人間を見た。初めて外の植物を見た。でもどれも苦しそうで、今も耳元に微かに届くような声がする。アルヴィスは泣きそうになった。けれども必死に走った。
─────いつの間にか。フードは取れていた。勿忘草色の髪が風にゆれて舞う。乳飲み子を抱えた女は水を取られるのではないかと顔を上げて唖然とした。
ラピスラズリの瞳を涙で濡らしながら、勿忘草色の美しい髪を風に揺らしながら美しい顔をした少年──アルヴィスが自分を見ていた。それだけで女は唖然とした。
だが、それだけでは無かった。
「もう大丈夫。」
誰に言ったのか分からない一言だった。アルヴィスの背中を遠くからシュバルツが見つめていた。やりやがったと咎める視線もあるがどこか優しくホッとした様子であった
「おいで」
そう一言言った。それだけだった。なのにヨルゼ王国中から淡い青色の光がポツポツと溢れ出す。
「ねー…お母さん、あれなぁに?」
幼い女の子が母の手を握りしめ、聞いた。その間も視線は溢れる光に目がいっている。蛍火のようなか細く小さな光は鼓動するように光る。
そして、それは起こった。
《まってた》《やっと会えた》《我慢してよかった》《水精霊王様》
その光は軈て精霊の形になりそれは全てアルヴィスへと集まる。そして乳飲み子を抱えた女は気づく。少ししか溢れていなかった水が、どんどんと多くなり、自分の手を濡らしていることに。
「あーっあーあー」
胸に抱いた我が子が笑う。アルヴィスを見て楽しそうに。女はそれが嬉しくて堪らなかった。奇跡のように溢れる水に涙が止まらなかった。
そして顔を上げると少年が微笑んでいる。
自分に、そして集まる光に、全てが愛おしいかのように。
「水精霊王様!」
女が見惚れていると、ヨルゼ王国の国王が家臣や貴族を引連れて広場へとやって来た。女は慌てて泉から出ると跪く。
“水精霊王”その言葉の意味を知らぬものは誰もいない。シュバルツも溜息をこぼしながらアルヴィスの隣に立つ。
「シュバルツ様も……よく、来てくださいました」
泣きそうになるカルベルと、その胸に抱かれた美しい金髪に蒼眼を持つ可憐な少女は軽い音を立てて地面に降り立ち、シュバルツへ走りよる。
「バルー!」
シュバルツを愛称で呼ぶこの少女がシュバルツの契約者のエメレラ王女だとアルヴィスは気づいた。シュバルツが柔らかく微笑みエメレラを抱き上げてカルベルや、頭を下げ続ける国民達に紹介をした。
「この者が新しく産まれた水精霊王…アルヴィスだ。」
その言葉に、その声に、多くの人間は涙した。王は水精霊王が生まれた、耐えよと言った。耐えて耐えて飢えや乾きの恐怖に脅えながら生きてきた。恥も何もかもを捨て自分の守るべきものを守るべく行動してきた。
それがこの瞬間に報われたのだと。理解する国民の目からは自然と涙がでてしまうのだった。