九州飛行機物語 ---会社のっとり編 ---
九州飛行機の新社長に就任した海軍将官は十八試局戦闘機の試験
飛行成功の報告を受けた。
プロペラが後方にあるユニーク姿の新型機体には違和感があったが
社長の地位獲得になったのだからそれも好ましく思えてくる。
新型機の試験飛行を重ねて完璧な仕上がりを待つほど時間は無い、
各都市が爆撃を受けてる現状では九州飛行機本社工場にも爆弾の
雨が降り壊滅する可能性は大きいのである。
先月 福岡の陸軍太刀洗飛行場に隣接した整備工場や機材製作工場が
米国のB-29大編隊による爆撃を受け再建を断念するほど被害を受けた。
陸軍は整備工場や爆弾倉庫を津屋崎に移し、道路に偽装した滑走路を
整備して秘密基地の整備を進めている。
福岡市内も爆撃で大きな被害がでている。九州飛行機香椎工場から少し
離れた空地にも爆弾が1発であるが落ちたようだ。
九州飛行機工場に爆撃が来る前に、試作機に大きな欠点が出ないなら、
試作機を一気に海軍の正式な局地戦闘機採用し、防空にあてる量産体制を
作り上げるべきだ。
そのため海軍の予算獲得に働きかけるのが自分の社長としての責務なのだ。
量産化の効率だけではない、1回の爆撃で工場が壊滅しないように機器の
分散化と防御壁、掩体壕の建設など軍事的条件も平行して考える必要がある。
創業者の渡邊社長が自ら指揮を取って戦闘機を作りたかったのは分かって
いる。平時であれば飛行機工場育成も兼ねて試行錯誤を見守るべきである。
戦局の押し迫った現在 時間との勝負が日本国の運命を左右するのを
黙っていることは出来ない。渡邊社長の力量では半年程度で戦闘機を量産
体制まで持っていく資金調達は不可能だろう。
本土決戦時 既存の軍用飛行場は米軍の爆撃で壊滅している可能性が高い。
九州飛行機の前にある国道3号線を臨時滑走路として使用できるように秘密裏に
整備し、特攻機や攻撃機の整備・燃料・弾薬の供給を供給できる体制まで
考慮すると、民間人の渡邊社長では不可能なことばかりである
海軍の予算獲得の為の折衝すべきスケジュールと出張日程調整を副官1命じ、
海軍省への要請書作成を副官2に命令し、工場長には量産体制に必用な予算
作成と建設・設備関係業者への部品調達日程作成を求めた。
多くの工員が徴兵で戦地に出ているので、穴埋めに付近の女学校の生徒達が
勤労動員で寮生活で集まっている。彼女等に航空機工場勤務の教育、食事や
生活指導も生産向上にはかかせない。やるべきことは多い
量産が始まると女学生は数万人規模になるので関係部署に連絡が必要だろう。
試験飛行は順調なようである、機首上げ操作時にプロペラの先端が地面に
擦ったので方向舵下方を延長し、補助車輪をつけることで解決できたようだ。
エンジン過熱の問題は空気取り入れ口の形状変更が必要だと聞いている。
早めの解決を期待できる報告を開発担当の鶴野大尉から受けた。
故障や被弾で、搭乗員が脱出するとき、後方にあるプロペラに身体が当たる
危険を防ぎ安全性を確保する為、操縦席からプロペラを爆破する起爆装置も
つけたようだ。細かな改善の積み重ねが新型機の性能向上になるのである
戦局はますます厳しくなり、不可侵条約を結んでいたソ連が対日宣戦布告を
行い、参戦した。満州ではソ連軍進入で混乱がおきているようだ。
米国の新型爆弾が広島・長崎に投下され、工場単位ではなく都市単位で
機能が壊滅状態になっているようすである
8/15 正午にラジオから天皇陛下のお言葉があり、敗戦が確定した。
十八試局戦闘機「震電」の量産はできなかった。
残念だがすべては終わった。
進駐してくる米軍に渡しては不味い機密書類や設計図などの焼却を命じ、
九州飛行機の解散業務に着手するしか仕事は残っていない。
米軍は九州飛行機を接収、併設した青年学校を宿舎とした。
試作機「震電」は研究の為米国に運ばれたようだ。
海軍関係者は職を離れることが占領軍であるGHQからの命令である。
海軍と九州飛行機の両方に最善を尽くしたつもりであるが 日本が米国に
負けた事は事実であり、従うしかない。
渡邊社長または渡邊一族のだれかが後任となると思う・・・・
九州飛行機本社の大半は破壊され、敷地のほとんどが航空自衛隊春日基地と
なった。九州兵器と九州飛行機本社の一部は元の渡邊鉄工に戻った。
九州飛行機香椎工場は香椎自動車工場と社名・業種を替えバス製造を始めた。
昭和28年に渡部自動車工業株式会社に社名変更
平成4年 西鉄バスから資金協力を得て佐賀県基山に工場移転したが不正経理
問題が西鉄に発覚、資金援助が受けられなり清算開始
平成13年 清算終了、九州飛行機の残滓は消えた。