銀梅花3
とくに誰からも咎められることがなかったので、僕はそれからもお嬢さまにお会いすれば度が過ぎないように気をつけながら言葉を交わした。
お嬢さまはとても気さくで人懐っこい方なので、ほんとうにきちんと節度を守って言葉を返せていたかは些か疑問ではあるけれど。
「やっぱりお嬢さまには、もう一度ちゃんと謝っておくべきなんだろうな……」
大切な縁談を潰すきっかけをつくってしまったのだから、謝って済む話ではないことくらい、よく分かっているけれど。
我慢強くて、何でも「平気」と答えてしまうお嬢さまは、たとえ僕が謝っても、やっぱり「平気」だと答えてしまうのだろうか。内心でどんなに嫌な思いをしていても……。
「ラウラス、いるー?」
ノックの音がしたかと思うと、振り向く間もなくドアの開く音がした。
「いるけど……、ドアを開けるのはせめて返事を聞いてからにしてくれないか?」
「ごめんなさい。気が焦っちゃって」
バタバタと部屋に駆け込んできたのは、この城の厨房で働いているエリダだった。
「今度はどこを怪我したんだい」
見たところ顔色は悪くないし、自分で走ってこられるくらいだから、それほど深刻ではないと思うけど。
「ここ! 指先! 包丁でスパッと切っちゃったのよ。もう血がっ!」
「エリダ……、きみは厨房で働くのは向いていないんじゃないかい? 他の仕事につかせてもらったほうが身のためだと思うよ」
先日も包丁で足を切ったと言って駆け込んできたし……。
いったい何がどうなって包丁で足を切るのやら。
本人が言うには、野菜を切っていたら包丁が抜けなくなって、包丁を抜こうと躍起になっていたら、包丁が吹っ飛んだということだったけど……。それが事実なら、かなり恐ろしい光景だ。
幸い、そのときの怪我もたいしたことはなかったけれど、もしも包丁が刺さりでもしていたらと思うと背筋が凍る。
「イヤよ。私は厨房で働きたいの。一日中洗濯してるのなんてまっぴらごめんだわ」
「洗濯じゃなくても、他にもいろいろあるだろう?」
「あるけど、私は厨房がいいんだってば。料理がしたいの」
「そう。だったら、少しでも早くエリダの調理の腕が上がることを切に願うよ。ほら、手を見せて」
エリダは二年ほど前にこの城にやってきて以来、よく怪我をして僕のところへ来るので、厨房働きにもかかわらず、すっかり庭師たちと顔なじみになっていた。
庭師の仲間たちはみんな「また来たのか」と笑うけれど、そのうち笑いごとではすまない怪我をするのではないかと、僕はいつも気が気じゃない。
「あのね、ラウラス。あなたに直してほしいものがあるんだけど」
「もの? 僕は簡単な傷の手当てや薬の調合くらいなら出来るけど、物を直すのはちょっと……」
「そんなの分かってるわよ。でも、そんなに難しい物じゃないからお願いしたいのよ」
「引き受けるかどうかは、物を見てからかな」
「分かった。明日にでも持ってくるわ」
僕が指先に包帯を巻いていく様子を見ながら、エリダはふいに咳払いをした。
「ところで、ねえ。ちょっと小耳にはさんだのだけど、ラウラスがお嬢さまの縁談をつぶしたって本当なの?」
思わず小さく唸ってしまう。
厨房働きのエリダまでその話を知っているということは、このブリアール城にいるほぼすべての人間が知っていると考えていいだろう。いったいどんなふうに伝わっているのかは、恐ろしくて知りたくもない。
「……本当だと思いたくはないけど、結果的にそれで大奥さまを怒らせてしまったのは事実だね」
「謹慎って、いつ解けるの?」
「さあ、いつだろう。見当もつかないよ。でも、たとえ謹慎が解けたとしても、レールティ家の人たちに顔向けできないし、僕としてはここを出ようかと考えているところなんだ。だから、エリダは冗談ではなく、本気で調理の腕を上げたほうがいいよ。いちおう、できるだけの薬は置いていくつもりだけど」
「出て行くだなんて、そんな寂しいこと言わないでよ」
「だけど、もしもエリダが僕の立場だったらどうする? 主家の大事な縁談をつぶしてしまって、そのまま居座れるかい?」
「う──ん……」
俯いてさんざん唸った挙句、エリダはぼそっと、だけど、はっきりと言った。「無理」と。
「だろう?」
誰だってそういう結論に達するに決まっている。きっと、大奥さまもそれで敢えて僕に出て行けとはおっしゃらなかったのだろう。
僕に自分から出て行かせるために。
それは大奥さまの、せめてもの優しさだと受け取るべきだ。




