容疑者1
部屋に入ると、甘い香りがした。
「フェルム……?」
トルナード男爵の遺体は床に倒れ伏した状態で、まだそこにあった。
思わず顔をそむけてしまう。
遺体なんて生まれてこのかた見たことがないというのもあったけど、それ以上に、男爵にすがりつく夫人の姿が痛々しくてならなかった。
「嘘よね? 疲れて眠ってらっしゃるだけでしょう? わるい冗談はやめて、早く起きてくださいな。いくら疲れているからと、このようなところで眠ったりなさらないで」
従僕から男爵の異変を聞いた夫人が弾かれたように広間を飛び出したものだから、私もとっさに夫人を追いかけてここまで来てしまったけど、呆然として突っ立っていることしかできなかった。
野次馬よろしく集まっている使用人たちも言葉を失くして、ただただ事態を見守っているだけだ。
「もう晩餐の時間ですよ。今日はお客さまが……グラースタ伯爵の妹君がいらっしゃっているのですよ。あなたも会いたがっていたではありませんか。ご挨拶しなければ」
「奥さま、離れてください。ここは我々に任せて、いったんお部屋にお戻りください」
私たちが駆けつけたとき、執務室にはすでに使用人らしき男が二人いた。五十代くらいの男と、三十前後の男。
従僕をはじめ、お城で客人の目に触れるような仕事に従事している男性使用人は、だいたいお仕着せの服を着ていることが多い。
だけど、部屋にいた二人がお仕着せでないところを見ると、たぶん家令と執事あたりだろう。どちらがどちらかは正確には分からなかったけど、三十前後の目つきの鋭い男のほうが、夫人を男爵から引き離そうと手を伸ばした。
ぼろぼろと涙をこぼす夫人は、男爵にとりすがって離れようとしない。
「トルナード男爵夫人……」
見かねてそばへ歩み寄ろうとして、思わず足を引いた。ぐにゅりと、まるで生き物か何かを踏みつけたような嫌な感触が私の足底を這ったのだ。
ぎょっとして足元を見ると、そこには無残に中身の飛び出たパイがあった。
なんだってこんなものがこんなところに?
そう思って、よくよく見れば、床には皿やティーカップが転がっており、紅茶か何かが毛足の長い絨毯に染みをつくっていた。
「奥さま、さあ」
目つきの鋭い男がトルナード男爵夫人の肩を抱くようにして半ば強引にその場を離れようとした、そのときだった。
「だ、誰です! ここに羽舞草など活けたのはっ!」
唐突にトルナード男爵夫人が叫んだ。
いきなりの大声に驚いて、みんなの目がいっせいに夫人の視線の先を追う。もちろん私も。
顔面蒼白になって唇を戦慄かせているトルナード男爵夫人の視線の先にあったもの。亡くなっている男爵が倒れているのとは反対の壁側におかれているサイドテーブルの上。
そこには黄色い花が活けられている花瓶があった。
たしかにあれはトルナード男爵夫人の言うとおり羽舞草という花で、切り花として一般的なものだ。うちの庭園にもあるし、お城のなかでも花瓶に活けられているのを時折見かける。
小さいし派手な花ではないから、脇役として使われるのがふつうで、この部屋にあるもののように羽舞草だけ活けてあるのは珍しいし、かなり美的センスを疑うけど。
それにしたって、今はそんな花の活け方に目くじらを立てている場合ではないはずだ。
現実から目を逸らしたいあまりに錯乱してしまったのではないかと、顔をしかめながらトルナード男爵夫人に視線を戻したら。
「奥さまっ、お気をたしかに!」
今度こそほんとうにトルナード男爵夫人は卒倒してしまっていた。