結婚生活12
なんとかパンを一つ食べると、それ以上はもう胸につかえて何も受け付けなかった。
「もういいわ。下げてもらえるかしら」
おかしなものね。ミルテのときはあんなにも美味しく食べられた小麦のパンが、今は硬くてぼそぼそしたライ麦のパンよりも食べにくくて、喉を通らないなんて。
「アイシャ、あなたはこの国の生まれなのですか?」
食事を片付けるアイシャを眺めながら、私はなんとなく気になったことを口にした。
「いいえ、違いますが。……何か、お気に障ることがありましたでしょうか……」
「気に障るようなことなんて何もなくてよ。ただ少し言葉のイントネーションが違うところがあったから気になっただけなのです」
「申し訳ございません」
頭を下げるアイシャの肩から癖のない艶やかな銀髪がわずかに流れ落ちる。
その様子を見ていて、ふと、私たちは夜空のようねと、ミリッシュと話したことがあったことを思い出す。
金髪の私は月で、銀髪のミリッシュは星のようだと。
同じ夜空の仲間で、仲良しねと話していたことが、今となってはとても虚しく思える。
「なぜ謝るのです? 私はとくに気分を害してなどいませんし、あなたが謝る必要などどこにもありませんよ」
本当に私は何も気分を害してなんていないのだけど、アイシャの恐縮ぶりを見ると、いきなり不躾なことを訊いてしまって悪いことをしたなと反省する。
……でも、よその国の人間を侍女として雇っているなんて珍しいわね。
ひとくちに使用人と言っても、上級使用人と下級使用人に分かれているもので、ラウラスがイデルのことをナリアート嬢と呼んでいたように、侍女というのは上級使用人にあたる。それなりに上等な地位の扱いだから、身元の怪しい人間は雇わないだろうし、いったいどういう出自なのかしら。
気にはなったけれど、初対面でいきなり深いことをあれこれ訊くのはあまりにも配慮に欠ける気がして、それ以上の質問を重ねることはやめておいた。
アイシャのほうも何も言わずに黙って食事を片付け終えると、そのまま私の着替えを手伝ってくれた。
昼間からほとんどずっと眠っていた私は、夜着に着替えてベッドに入っても、当然のように少しも眠気はやってこず、何度も寝返りを打っているうちに一睡もできないまま朝を迎えることになってしまったのだけど。
相変わらずの凍りついた空気の中で正餐を終えた私は、書庫を見せてもらおうと思ってレイルといっしょに廊下を歩いていた。
眼下に見える中庭からふと視線を前に戻すと、前方から見覚えのない女性が歩いてくるのが見えた。従者を連れているので、明らかに使用人ではない。
「あの方は?」
小声でレイルに尋ねる。
「シンディー・ルヴァリエ・デュ・レクカオールさまです。リオンさまの婚約者さまですよ」
ああ、なんだかまた面倒くさそうな人が出てきたわね。
レクカオール家といえば伯爵位のはずだけど、こちらに向かって歩いてくるご令嬢は傲然と顎を上げていて、道を譲ってくれる気配など微塵もなかった。
「はじめまして、デュ・レクカオールさま」
いちおう立場上、私のほうから声をかけないといけないので、仕方なしに声をかける。
できることなら関わりたくなかったけど、ここで無視なんてしたら大変なことになるのは目に見えているし、私も子供ではないもの。きちんと大人の対応をしなくてはね。
「はじめまして、エスカラーチェ子爵夫人。ずっとお会いしたいと思っておりましたの。お目にかかれて光栄ですわ」
そう言って、レクカオール嬢はにこりと笑った。癖のある豊かな金髪が目を引く女性だ。
「こちらこそお会いできて光栄です。リオンさまの婚約者さまですもの。これからどうぞよろしくお願いいたします」
まったく心にもないことを平然と言葉にしつつ、私が笑顔を浮かべて手を差し出すと、レクカオール嬢もゆっくりとした動作で私の手をとった。
〈近くで見るとますます野暮ったい子ね。親無しで育つと、こうも図々しくなるものかしら〉
「えっ?」
思わず声が漏れてしまい、私は慌てて袖で口許を隠し、作り笑いを浮かべた。
〈なぁに? おかしな子ね〉
私は完全にパニック状態に陥ってしまって、視線が右に左に忙しく動くのが自分でも分かったけど、どうしようもなかった。
どうしてレクカオール嬢の心の声が聞こえるの? 私の唇は今、レクカオール嬢に触れてはいないのに。
いったい何がどうなっているの?
「子爵夫人? どうかなさいましたの? 昨日も体調が優れなかったとリナベスさまから伺いましたわ。ですから、今日のお茶会にも子爵夫人は参加されないと……」
〈本当はちょっと頭がおかしくて表に出られないだけなんじゃない? 今まで社交の場にあまり出てこなかったのも、そのせいだったりして〉
……なに、この人。信じられないくらい、ものすごく失礼な人ね。
まさに頭から冷水を浴びせかけられたような心境で、パニック状態だった頭の中が一気に落ち着きを取り戻した。
内心は憮然としていたけど、顔には完璧な笑みを貼りつけ、私はレクカオール嬢から手を離した。
「デュ・レクカオールさまは、本日はお茶会で?」
「ええ。リナベスさま主催のお茶会は久しぶりで、とても楽しみにしていましたの。子爵夫人もご一緒できましたら嬉しゅうございましたのに」
「そうですね。またの機会がございましたら、ぜひ」
……私は、今日お茶会があることすら聞いていなかったけどね。
私の体調云々なんて関係なく、リナベスさまは最初から私を呼ぶつもりなんてなかったんでしょう。もういい大人のくせに、ずいぶんと狭量な人ね。
レクカオール嬢を見送ると、私はレイルのほうを振り返った。
「部屋に戻ります。書庫にはまた明日案内していただくわ」
お茶会があるということは、他にも来客がある可能性がある。私はお茶会に呼ばれていないし、今みたいに来客と鉢合わせになるのは、あまり良い状況とは言えない。
「部屋までは一人でも戻れますから、あなたはイデルを呼んできてもらえるかしら」
「承知いたしました」
頭を下げるレイルを残し、私は気持ち早歩きで今来た道を戻った。
今までとは違うことが起きている。何もしていないのに、他人の心の声が聞こえるなんて。
急ぎ、イデルと話をしなければ。