結婚生活10
ゆっくりと瞼を押し上げると、一面に薄紫色の花が描かれた天井がぼんやりと目に映った。
あれは薫衣草かしらと、まだどこか靄がかかったような頭で考える。
「目が覚めましたか?」
声がしたほうに顔を向けると、エスカラーチェ子爵がいた。
私の枕もとに椅子を置き、心なしかホッとした表情でそこに腰かけている。
「ごめんなさい。わたくし、とんだ醜態を……」
気絶する直前のことを思い出して、私は思わず目を伏せた。
不可抗力だったとはいえ、我ながら本当にとんだ醜態をさらしてしまった。穴があったら入りたいくらいだ。
今ならブランケットを頭からかぶって隠れたいくらいだけど、それは目を覚ました私を見てホッとした表情を浮かべた子爵に対して失礼な気がして、なんとか我慢した。
「そんなこと気にしなくて構いませんよ。大丈夫ですか」
「ええ。もう平気です。本当に申し訳ありませんでした」
あんなに痛かった胸も、今はもう何ともなかった。頭だけが少しクラクラするけれど。
右のこめかみあたりを押さえながら、ゆっくりと上体を起こそうとすると、子爵が手を貸してくれた。
ほんとにこうしていると、エスカラーチェ子爵ってふつうの親切な人でしかないのよね。
今も私を心配してそばについていてくれたみたいだし。
とはいえ、卑怯な手段で私と結婚したことはなかったことにできないし、けっして忘れたりしないけど。
「あの……、子爵さまはずっとこちらに?」
「いえ、ずっとというわけではありません。仕事もありますので、ときどき席は外していましたよ」
ん?
仕事でときどき席を外して……? それって、ときどき席を外して戻ってきても私が眠っていたということよね?
「すみません、私、どのくらい眠っていましたの?」
そういえばと、慌てて部屋を見まわす。
部屋が明らかに薄暗かった。窓にはカーテンがかかっていて、太陽の光がまったく感じられない。
反射板やクリスタルが付いていて煌びやかな光を放ちそうなシャンデリアに火が灯っていないのは私が眠っていたからだろう。今は壁に据えつけられている燭台の灯りだけが部屋の中を照らしていた。
お城の中というのは窓からの採光による明かりが大きいので、日が暮れるとけっこう薄暗いのだ。
「だいたい半日ほどですかね。先ほど終課の鐘が鳴ったばかりですよ」
私は絶句してしまった。
もう就寝するような時間ではないの。
「体調が大丈夫なら、何か食べますか? 今日は朝食の他は何も口にしていないでしょう?」
「……体調は問題ありませんわ」
「では、食事を用意させましょう。少し待っていてください」
子爵は部屋の外に控えていたレイルと少し言葉を交わすと、すぐに私のもとに戻ってきた。
「食事はこちらに運ばせますから、あなたはそのままで構いませんよ」
「……あの、子爵さま。その……、私にそんなに親切にして大丈夫なのですか。私のことなら捨て置いてくださっても一向に構いませんので……」
また無駄にお姫さまの不興を買うのは御免被りたい。ついでに、子爵に愛されたせいで死ぬというのも御免被る。
「姫のことですか? それなら今は気にしなくて大丈夫ですよ」
「それはどういうことですか」
「姫からあまり貴女にあれこれ話すなと言われているので……。詳しいことは話せませんが、今ここでは何も気にしなくて大丈夫です。ただ、普段外では少し冷たい態度をとらざるを得ないこともあるかと思いますが」
それは本意ではないと、そう言いたいのかしら?
本当によく分からない人ね。
子爵はいったい何を考えているんだろう。彼の真意と目的は何なのかしら。
大胆不敵にも単身でブリアール城に乗り込んできて、私の体をお姫さまに乗っ取らせてそのまま結婚までもっていったくらい狡猾で強引な一面があるのに、今のこの柔らかい態度は何なのだろう。
お姫さまに唯々諾々と従っているだけの人なら、お姫さまの指示でもないのに私に親切にする必要なんてないはずだ。だから、親切なのは、たぶん子爵の性格なんだろう。ものすごく腹黒い人で裏の意味がないかぎりは。
……ああ、そうだわ。《真実の雫》を使えば、子爵の胸の内が読むことができるわ。
そう思って、無意識に左の手首を触った私はハッとした。
ブレスレットがない。
「あの、子爵さま……。私のブレスレットをお持ちでして?」
「ええ。ここにありますよ。もう渡しても平気ですか?」
そう言って、子爵は白い布を取り出し、そこに包んでいたブレスレットを私に見せた。
「もう平気ですわ。ご心配いただき、ありがとうございます」
ブレスレットを受け取り、あの胸の痛みと得体の知れない恐怖を思い出して少しドキドキしながらも、私はブレスレットを左手首につけた。
そうして、じっと《真実の雫》を見つめる。
もしもあの夢が真実なら、この真珠に宿っているのはリィリスという女性の魂ということになる。
あの胸の痛みは、きっと私のものではなく、リィリスのもの。
ブレスレットに仕込まれた毒を求めたのも、きっとリィリスの意識。
きっかけは、おそらく子爵の言葉。
アルジェントに連なるメリディエル家の人間が、リィリスを悪女呼ばわりしたからだ。
「私のことを呪われた悪女の末裔とおっしゃっていましたが、それはいったいどういうことですの?」
「あなたはその真珠に誰の魂が宿っているのかご存じですか」
「いいえ、存じ上げておりませんわ」
子爵側の認識を把握したいので、とにかく今は何も知らないふりだ。
それに実際、私は何も知らないに等しいし。
「その真珠に宿っているのは、姫の恋人を奪ったにもかかわらず、他の男と密通した悪女の魂なのです」
どうか落ち着いてちょうだいねと、真珠を撫でながら心の中で強く念じる。子爵の前で二度もあんな醜態をさらすわけにはいかないから。
「ですが、子爵さま。それだけで呪われた悪女とまで言うのは、少し大げさではございませんか?」
「もちろんそれだけではありませんよ。姫はその悪女のせいですべてを失って命まで落としていますし、実際にあなたも先ほど大変な目にあったではありませんか」
「ずいぶんお姫さまに肩入れなさっているのですね」
「言いましたでしょう。姫は我がメリディエル家にとって守り神のような方だと」
守り神ですって?
呪われているくせに、よくそんなことが言えるわね。
お姫さまのせいで誰のこともまともに愛せないなんて、守り神どころか、立派な疫病神でしょうに。
いったいどんな認識の歪みなの。
ふつうなら、そんな認識にはならないはずだ。つまり、そこには何か仕掛けがあるはず。